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第一章 日本人の街
ネットでも紙地図でもいいので、日本領イグニア帝国の全図を広げてみてほしい。どの地図にも、同縮尺の日本が参考として掲載されている。それを見れば、この帝国がいかに広大であるか分かるだろう。実際、イグニア帝国の領土はこの異世界では二番目に大きい。地球に例えれば、ロシアより小さく、カナダより大きい。
そして、その帝国の比較的北の方。二つの大きな川が交わる地点から少し離れた所に、帝都モラストヴァがある。モラストヴァは二つの地域に分かれている。東にあるのが伝統的な帝都パレティノ・モストラヴァ。西にあるのが、日本人が建設した新京である。別名、ソルン・モストラヴァ。殖産興業をしにやってきた内地人、つまり日本人と、宗主国日本との交流を許された外地人、つまり異世界人のための都市。
そのうち新京の中を探っていけば、新京第一高等学校がある。比較的閑静な地区にあるこの高校の、さらに二つある校舎のうち北側の二階。そこに私、安藤明日人はいた。
既に赤く染まった空を覆う二つの月が、机で頬杖をついて校庭を眺めていた私を見下ろしていた。外地から来た人が真っ先に驚くのがこの二つの月だ。落ちてきそうで不安になるのだという。内地の月はネットでは見たことがあるが、どれほどの大きさなのか知らない。おそらく、想像よりも小さいのだろう。
「おい」
ふと頭を細く硬いモノで叩かれた。痛い。なにかと振り返れば、俺と同じ学生服の男が立っている。我が友、太田だ。
太田は下敷きで私の頭を叩いていた。私が迷惑だと言わんばかりに彼の手を振り払うと、彼は私の隣の席に豪快に腰を落とした。
「なんだ」
「聞いてなかったのか? 晩飯食いに行こうぜって言ったんだよ。中央区の繁華街に、うまくて安い中華料理屋があるんだ」
「繁華街? 毎回毎回外食なんて、そのうち小遣い無くなるぜ?」
「大丈夫大丈夫。飯代は親持ちだから。あ。とはいっても、お前の分まではさすがに出せないぞ」
私は仰々しく頭を振った。
「今日は部室に行くつもりなんだ。悪いが行けない」
「なんだよ、付き合い悪いな」
と、ぶうたれつつも友達でいてくれるのが彼の良い所だ。私が教室でぼっちにならないのは気さくな彼のおかげであると言っても構わない。だから時々彼の外食癖にも付き合うのだが、さすがに
「一昨日行ったばかりじゃないか。俺はお前みたいに、財布にいつも万札が入ってるわけじゃない」
「俺だって常に諭吉さんを入れているわけではないが。……まあ、仕方ねえ。お前が来られないなら、俺は一人寂しくコンビニの弁当で済ませるよ」
「今度は俺の懐事情をよく調べてから誘ってくれ」
「分かった」
私が立ち上がると、彼は不思議そうな顔をした。
「おう、どうした?」
思わず出るあくびを手で隠しながら、私は答えた。
「昨晩はネトゲで完徹。眠くてしょうがないから、顔を洗ってくるんだよ」
「顔を洗うのにわざわざ鞄を持っていくのか?」
扉に向かって運ぶ足を止めて、私は振り向いた。
「ついでに部室に行く。じゃあ、また明日な」
新京が肥えた自治体だから。なのかは知らないが、もう築三十年は経つであろう校舎は、まるで新築のように綺麗だった。それもただ綺麗なだけではない。時々業者が来ては最新の設備をちょくちょく付け加えていく。おかげで私達が快適な学校生活を送れるから良い。部室のある六階まではエレベーターを使っていいし、清潔な洗面台や自動販売機などもある。
一年三組の教室がある二階から、誰もいない廊下を学生鞄片手に闊歩する。昼の喧騒が嘘のように落ち着いている。私は吹奏楽部の下手な練習と運動部の掛け声のみが響く静かな廊下を歩くのが、なんとなく好きだった。タイル張りの廊下をローファーでゆっくりと歩けば、カツ、カツと子気味よい音が鳴る。
科学室を通り過ぎてエレベーターに着くと、そこには見慣れた人影がいた。男性用シャツの襟に入った薄い線は緑色。ということは三年生だ。ちなみに一年生は黄色、二年生は青色である。
彼は私の気配に気づいたようだ。
「安藤君?」
「部長、こんにちは」
我らが部長も、どうやら同じく部室へ向かおうとしているらしい。安藤は彼の隣に立ってエレベーターを待つことにした。
「安藤君さ」
「なんでしょう、部長」
「もうすぐ六月だ。我々、と言っても全員で三人しかいないが、が活動できるのも、九月の文化祭までだ」
「そうですね」
生返事だったが、部長は気にせず話を続けた。
「そして僕は、どうしてもこの三年生の間に、部長として何かを部に残したいんだ」
微笑がデフォの部長だが、、この時ばかりは珍しく熱を入れて演説をしていた。
「だが、安藤君。君も知っているだろうが、我が部は活動が活発でない。いつもの活動風景を思い浮かべてみてくれ。君は読書をし、二年生の中満さんはゲーム、そして僕は勉強かネット。施錠当番の先生が回ってきて帰るように促したらその日は解散じゃないか」
「俺が入部したときから一切変わっていないですね」
「君が入部したときからどころか、僕が入部したときから一切変わっていない。ある意味伝統だよ」
実のところ、私が入部した理由はそこにあるのだ。人に邪魔されず、放課後や昼休みに自分の好きなことをできる場所。教室以外で自分の居場所を確保できて、なおかつ自由度が高いところ。それが、彼がこの部活を選んだ理由であった。
「部長は、なにか活動をしたいんですか?」
「うん。君もそう思うわないか」
全くそうは思わない。だが、部長にとって高校生活最後の一年。なにか思い出を残したいという気持ちは受け取った。もしこれが太田だったならば即拒否して外食に連れていき、話を忘れさせているところだ。だが、部長、それも部長の意向とあれば仕方がない。それに、他の部活みたく厳しく活動するわけでもあるまい。どうせ、九月までにできることをゆるりゆるりとやるつもりなのだろう。
「お手伝いします」
自分の意志を最大限表明しない、最良の返答だと思った。
「当然、君にも参加してもらわなきゃね」
こういう強制は嫌いな筈なのだが、部長に言われるとそうでもなかった。この人は他人に関する勘が鋭く、人が嫌がることはしない。絶妙なラインに一線を引いて立ち回れる人だ。安藤は入学から二か月の間部長と接してきて、そのことを良く知っていた。
「楽しそうなことでお願いします」
「当然。君達が率先してやりたくなるようなことにするよ。我が部員は皆マイペースだからね。そうでもしないと、有意義な活動にはならないだろう?」
微笑している顔から、目だけがちらと私を見ていた。部長なりの茶目っ気というわけだ。
エレベーターで五階まで移動して部室に着くまで、そんな話が続いた。なにをするのか、なにか作品でも残すのか、研究でもするのか。部長もこれといった具体的な案がある訳でも無かった。三人で出しあって決めた方がいいと思っているしい。
「あらこんにちは。安藤君も一緒なのね」
先客がいた。二年生の中満葵先輩が、携帯ゲーム機を触る手を止めて顔をあげた。肩に乗っかっていた黒髪がするりとずれ落ちる。
「廊下で出くわしてね」
「ちょうどよかった」
私は先輩の肩ごしに、中満がゲーム機を静かにテーブルに置き、代わりにクリアファイルに入った紙を持って我々二人に向けた。
「これ、先生から部長に」
どうやら、顧問の先生から部長宛ての届け物らしい。
「うん? なんだろう。文化祭の活動届けなら出したんだけどな」
「そうじゃないですよ」
ほれほれ、受け取れ。とばかりに手に持ったものを上下に振る。部長はそれを受け取り、デスクトップパソコンがある部長席に座るとそれをしげしげと見つめ始めた。
「あれ、これは珍しいね」
「でしょう。私も驚きました」
「一体どうしたっていうんですか」
一人置いてけぼりに話が進んではたまらない。思わずそう聞くと、部長はデスクトップの脇から顔をこちらに出して手招きした。
「来て来て」
訳も分からず部長に近づき、手渡されたクリアファイルを、どうも。と言って取った。
クリアファイルに一枚だけ入った紙、それは入部届けだった。なるほど、新歓期に一人しか入らなかった我が部には、たしかに珍しい。私以外にも物好きはいるものだ。ただ、若干タイミングを外しているのはどういうことだろうか。あまりに優柔不断で、入ろうか入るまいか二か月も悩んだのだろうか。
「へえ、部員が入ってくるなんて、たしかにこれは珍しいですね」
「それよりも見てみなよ」
部長が身を乗り出して、入部届けの中ほどを指さした。
「ほら、ここ」
私は絶句した。
部長の指は入部届けの生徒名記入欄を示している。そしてそこには、「シャルロッテ・アイギス」とカタカナで記されている。
「これって……」
「どうやら、外地人の子が入部したいようだね」
「珍しいですよね」
彼らが驚くのにもれっきとした理由があった。
私の通っていた新京第一高等学校は、日本人との交流を認められた外地人の入学者受け入れを行っている。大半は貴族や官僚の子女なのだろう。が、私は外地人と内地人の生徒同士が交流している様を、入学して早二か月、一度も眼にしたことがない。唯一合同で使う学食でさえ、暗黙のルールでもあるかのように日本人と外地人で席が完全に区分される。
おそらくは、どちらもどう接していいのか分かっていないのだろう。外地人は日本人を憧憬と畏怖混ざった眼差しで見るというし、日本人の方も、生まれて初めて外地人を見るような者がほとんどだった。
二人の先輩も、外地人と話したことはないようだった。部長は私から入部届けを取り上げて、再びまじまじと見つめた。
「先生は、あまり例がないことだから、もし部員が反対するならこっちで言い分をつけて取り下げる。と仰られていましたよ」
「僕としては、外地人だろうが日本人だろうが、部員が増えてくれるのは嬉しいんだけどね。取り下げる理由なんて、これっぽっちもないよ。ただ」
彼は眼鏡の中から中満先輩を覗き込んだ。
「反対意見があるなら、その例にならないけど」
「私は大賛成です! 今まで話しかけたくても、雰囲気的にできなかったんです。絶好の機会ですよ。それに名前からして女の子だし!」
「外地の子って、どんな風なんだろうね。やっぱり欧風な古き良き価値観なのかな。そういう比較文化的なことも、僕はとても興味あるな」
「だいたいが上流階級の子供達らしいですから、伝統とかうるさそうですよね」
「うーむ、交流してみたいね」
既に部室には、受け入れようという雰囲気が満ちている。中満先輩は勝手に、うん、うん。受け入れるべきだね。と一人合点していた。
こんな空気じゃあ、水を差すようなことは言えない。あと二年間は一緒にいる先輩方との仲に、溝を作ってしまうかもしれない。
仕方なく、こう答えるしかなかった。
「先輩方にお任せします」
その日はこれでお開きとなった。心中穏やかでない私はイライラしながら部室を後にしたが、不機嫌なまま家に帰っても家族に悪い。遅くなるから飯をとっといてくれ。と母に電話すると、私は夜の新京に繰り出した。
こんなことなら太田に付き合えばよかった。と後悔しても、もう遅い。
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