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舞台・演劇

NODA・MAP「エッグ」 イメージが跳躍する演劇的交響楽

 

2012/9/11

 池袋駅前の東京芸術劇場が9月を期してリニューアル・オープンした。「さあ芝居をみよう」。面目一新、中劇場改めプレイハウスが観劇気分を盛り上げる空間に生まれ変わったのは喜ばしい。壁面の角度や音響面を改善し、舞台と観客の一体感を増した。

 劇場の変身ぶりにびっくりしてプレイハウス初日(5日)の客席にすわったら、野田秀樹作・演出の新作「エッグ」に目を、耳を、そして脳を驚かされた。2度びっくり。

 謎解きの詳

 池袋駅前の東京芸術劇場が9月を期してリニューアル・オープンした。「さあ芝居をみよう」。面目一新、中劇場改めプレイハウスが観劇気分を盛り上げる空間に生まれ変わったのは喜ばしい。壁面の角度や音響面を改善し、舞台と観客の一体感を増した。

 劇場の変身ぶりにびっくりしてプレイハウス初日(5日)の客席にすわったら、野田秀樹作・演出の新作「エッグ」に目を、耳を、そして脳を驚かされた。2度びっくり。

 謎解きの詳細は書けないけれど、ニッポン、ニッポンの歓呼も記憶に新しいオリンピックの熱狂を取りこむこの舞台はまさに演劇的運動だった。イメージの激しい跳躍は、ことしの演劇界の語りぐさとなるだろう。

 エッグなる謎のスポーツをめぐる奇談。競技は常に見えない舞台奥の向こう側で行われているから、観客は歓声の響くロッカールームを見るだけ。エッグって何? その起源は? 謎が謎を呼ぶ展開にほんろうされていると、芸術監督役の野田秀樹が実際に出てきて劇を中断させたり、その愛人(野田2役)が女生徒をつれて劇場を案内したりで、劇は入れ子構造になっていく。なんと劇の世界は寺山修司の謎の台本を手にした芸術監督の妄想という形をとっていた。スポーツのナショナリズムを描く劇作家は俳優の演技を断ち切り、当意即妙に筆を執り直し、とうとう日本人の禁断の過去に肉薄する。その作意の道程さえ見せてしまうのだ。

 冒頭、ロッカーやイスが散乱する控室。いさかいの跡を思わせる不思議な光景は白熱する日中戦の舞台裏に変わり、あれよあれよというまに時代をジャンプする。1964年の東京五輪から、戦前の幻の東京五輪、さらには満州(中国東北部)へ。

 前半のスポーツの場面が戦争の秘話に裏返るさまは、まるで手品だ。スポーツと戦争が大衆を沸かせる点で似通った相貌(そうぼう)を呈することはよく知られているが、ふたつが表と裏をなす野田の演劇的しかけは水際だっていた。能の前シテと後シテではないけれど、場が変わると同じ人間が別の運命を生きるのだ。全編で休憩なしの2時間あまり、後半は息もつかせない。

 真実を覆い隠す壁。人を移動させる汽車の汽笛。大衆を扇動する歌の力。責任を他人になすりつける言葉。視聴覚を刺激するあれこれが、いってみれば演劇的交響楽となって五感を刺激してくる。いつのまにか、スポーツの熱狂は戦争の狂気の似姿となり、観客は第2次大戦中のおぞましい人間の行いを目にすることになる。劇としては謎が解けていく展開が一直線にすぎるきらいがなきにしもあらず。人間が時空を超えて変身する構造をもっと浮き立たせたい気もする。が、それでも野田が近年磨いてきた「見立て」の演出が刻々と変化を作って見ごたえがある。

 上方にカーテンレールが縦横に。透けて見える密室が素早く作り出される。投げこまれた女性が口を開けたまま魂の抜けたような顔を布に浮き出させるシーンが鮮烈だ。狂気が「密室」を生みだし、背番号と化した人の命を簡単に除去する感覚がおそろしい。汽笛は東北から若者が集団就職で上京する高度成長の響きから、満州の開拓団を置き去りにする戦争遂行者の逃走の響きとなり、さらにはユダヤ人を移送する響きに聞こえる瞬間さえあった。ロッカーを抱いて横切る群衆が満州の避難民になるシーンはとりわけ力強い。

 筋がわからないという観客もいるかもしれない。ただイメージの推進力に身を任せていると、とんでもない場所に連れていかれることは確かだ。現代と過去をイメージの力で接着し、風景を見せ換えていく演出のさえは、過去の野田作品を超えていた。

 過去から逃げる日本人は危うい――。宣伝映画やツイッターを批評するこの舞台で、劇作家は真実を記述する孤独な記録者として立つ。劇場の再出発に際し、野田秀樹は演劇の決意そのものを劇化したかに見える。そのストイックな意志こそが観客の胸を打つ、そんな舞台だった。

 妻夫木聡の演じる阿倍比羅夫は貧しい農家の三男坊という象徴的存在。控えからの選手交代が彼の役回りだ。エッグ戦の大逆転を導く英雄は、旧日本軍の秘密作戦ではたしてどんな交代劇を演じるか……。利用されたあげく闇に葬られる無名の人間の悲しみ。妻夫木の演技に進境がくっきりと見え、追いこまれる男の哀感が消えがたい印象を結んだ。幕切れ近く、無言のシルエットに力がある。

 苺(いちご)イチエという名の歌手役、深津絵里は珍妙な扮装(ふんそう)で群衆を熱狂させる現代のロック歌手から、兵士を慰問する歌手にまで転じていく。歌にはいささか苦労するが、コメディエンヌの魅力が生きる。調子はずれの女から次第に覚醒していく深津は最後に透明さが出て、強靱(きょうじん)な輝きを放つ。映画「悪人」で名をはせた妻夫木、深津のカップルは舞台にうずくような哀感を刻んだ。

 橋爪功(監督)と秋山菜津子(オーナー)が怜悧(れいり)に人心を操作する役を演じて見事。満州で転生する彼らのふるまいは、日本人のパロディーだろう。

 野田秀樹作詞、椎名林檎作曲・助作詞による挿入歌がいい。ことに曲調を自在に変える「別れ」は、一瞬の離別が永遠のさようなら、に転じる人生の深淵をさりげなくとらえる。「有合わせ間に合わせ埋め合わせ……」と語呂合わせを歌う「What did U say?」の合唱も面白い。ブレヒト劇にとってのクルト・ワイルのように悲劇的展開を甘美に、軽快に縁取ってドラマに皮肉さを加えている。黒田育世の振り付ける走る群衆に切れ味。ひびのこづえの衣装、堀尾幸男の美術、小川幾雄の照明と、野田ワールドに総力戦で挑んだチーム・プレーの光る舞台である。

 年配の観客なら東京五輪のマラソン選手に思いあたるだろう。仲村トオル(愚直さの生きた好演だった)の演じる粒来幸吉が円谷幸吉、妻夫木聡の阿倍比羅夫が裸足(はだし)の哲人といわれたアベベからきているのは明らか。川端康成が激賞した円谷の孤独で美しい遺書が、この奇想の大もとにある。それにしても、あの遺書から、こんなドラマが生まれるとは。戯曲は「新潮」10月号に掲載。

 (編集委員 内田洋一)

 10月28日まで、東京芸術劇場プレイハウス。

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