大阪ニュース

戦後71年 記憶のバトン「語り継ぐ」(下)

2016年8月15日

 火の海をどう逃げ惑ったのか、当時の光景は断片的にしか覚えていない。ただ、母親にしがみつき、無我夢中で高台へ避難した−。

「私が体験した事実を子どもたちに知ってもらいたい」と話す吉田さん

 1945年3月13日。高津国民学校(現高津小)の3年生だった吉田房彦さん(80)=奈良県三郷町=は、大阪市内の自宅で第1回大阪大空襲に遭った。学童疎開先の滋賀県豊郷村(現豊郷町)から皮膚病の療養のため、一時帰阪した直後だった。

■「早く逃げろ」

 35年に南区高津(現在の中央区日本橋)で生まれた吉田さん。日中戦争で出征した父は、肺炎がもとで除隊後半年で亡くなった。生後8カ月だった。

 疎開先へ戻るのを翌日に控えたあの日。午後10時に警戒警報、同11時には空襲警報が鳴り響き、暗闇の中を母、曽祖母と3人で自宅下に掘ったかび臭い防空壕(ごう)へ潜んだ。とうとう裏に焼夷(しょうい)弾が落ち、「早く逃げろ」と外から叫ぶ声。壕を抜けると、頬にやけどを負った母に手を引かれ、自宅から約500メートル離れた生国魂神社までの火の海を一心不乱に避難した。恐怖のためか、どうやって一夜を明かしたのかほとんど覚えていない。

■忘れられない

 夜が明け、一帯の焼け野原で火がくすぶる光景は忘れられない。自宅、親戚宅、そして学校もすべて焼けた。頼るすべなく、44年8月の集団疎開から11年、そのまま滋賀県内に身を寄せることになった。

 地元の子どもたちには戦中から「疎開もん」とからかわれ、いじめにもあった。朝夕は農作業を手伝い、食事は臭いの強い押し麦や硬いカボチャ、舌を刺すようなめざしなどひもじい生活だった。それでも戦後、地方で過ごす日々は生々しい空襲の記憶を忘れさせたという。

■語り部の活動

 貧しい体験は家族には一切語らず、「社会が裕福になるほどつらかった過去を話すのが恥ずかしかった」。しかし子息が独立し、転職をした55歳を機に一念発起し、当時の疎開仲間を探し始めた。さらに「記憶を語り継ぎたい」と7年前からは語り部としての活動も始めた。傘寿を迎えた今も精力的にこなし、聞いた人はまもなく8千人に到達する。

 「戦争は、始まれば一般市民が巻き込まれる。負け戦は失うものばかりだ」と吉田さん。「71年続いている平和を守りたい。こんな厳しい時代があったと子どもたちの心に残したい」。自身の活動がその一助となることを願っている。