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戦後71年 記憶のバトン「語り継ぐ」(上)

2016年8月14日

 戦後71年を迎え、戦争の記憶の風化が懸念されている。そんな中、当時の悲惨な状況や平和の大切さを伝える「語り部」たちが、大阪大空襲や学童疎開などの経験を次世代に伝えている。

空襲で焼け野原になった大阪の写真を見つめながら、体験を振り返る久下さん

 「西の方に逃げろっ」。1945年3月13日深夜から14日未明にかけての大阪大空襲で、当時、大阪市西区の自宅から避難した、久下謙次さん(84)=同市中央区=らの一家は、途中で出会った兵隊にそう言われた。

 通りの両側に並ぶ木造2階建ての家々は炎に包まれていた。一刻の猶予もない。久下さんは、火が燃え移った手荷物を次々に捨てながら、懸命に逃げたことを今でも覚えている。

 そこからさらに川のほとりで朝まで過ごした。家族は疲れ果て、みんな黙っていたという。ただ、お互い顔を見合わせて、「生きている」ことを確認した。「何も考えられなかった。とにかく命が助かって良かった」と当時の心境を振り返る。朝を迎えても、火災の煙が空を覆い、暗かった。

 中之島の中央公会堂までたどり着き、そこでお茶とおにぎりを口にした。今でも公会堂に足を踏み入れると、当時の記憶がよみがえるという。

 久下さんの自宅も全焼した。数日後、焼け跡に戻った際、近くの川を焼けただれた遺体が流れているのを見た。「何も感じなかった。感覚がまひしてしまった」と話す。それから一家は親戚の力を借りるなどし、必死で生活を再建した。

 語り部を始めたのは5年ほど前だ。自らの記憶を呼び起こし、多くの人に伝えている。ある小学校で5年生の男子児童から「特攻隊は何をした人ですか」と質問があった。「私たちにとっては知っていて当たり前のことを、子どもたちは知らない」。学童疎開という言葉を聞いたことのない児童もいるという。“戦争の記憶”が受け継がれていないと感じるようになった。

 だからこそ、語り継ぐことが必要だとも思う。安全保障関連法の成立、憲法改正の議論…。防衛や安全保障を巡る動きは慌ただしさを増している。「戦争は戦地でも多くの命が奪われるが、一般の市民もたくさん死んでいる。本当に悲惨なことだ。戦争はするべきではない」と言葉を絞り出す。

 「自分たちと同じ体験を子どもたちにさせたくない。多くの人たちが亡くなった事実を伝え、子どもたちが間違った選択をしないようにとの思いで話をしている」。体が動く間は語り部を続けていこうと思っている。