■過去商業原稿 | ||||||
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■作家は絵空事こそ本領 居直りを作品に結晶すべきでは? かつて1960年代、フランスのサルトルは「百万人の飢えた子供たちの前で、文学に何ができるか?」と語った。 この発言の当時は、ベトナム戦争の最中であり、フランスでは1968年の5月革命があったり、日本でも、学生運動が盛んで、若者は政治や思想を熱く語り、作家もそういう状況に同伴した時代だった。高橋和巳は京大全共闘を支持し、三島由紀夫は「楯の会」を作って反米愛国を唱えた。他にも大江健三郎など、状況に物言いしようとした作家は多数存在した。 当時、そういう作家たちというのは、まだ前提として少数の高学歴インテリであった。彼らの発言や運動参加は「作家=インテリながら在野の位置にいて、人間的に深みのある視座を持ってる」というような点で意味を持っていたのではないかと思う。 しかし、1970年代を迎え、高度経済成長の完成と共に政治の季節は去ることになる。 学生運動が目的喪失と疑心暗鬼の中で陰惨な内ゲバに陥る中、埴谷雄高はテロ停止を呼びかける声明を発したが、大作家の声も昔ほどには敬意を受けなくなっていた。時代象徴的な一幕である。 既に日本は豊かな国となり、大学進学率の上昇による高学歴化によって知識人の価値は相対的に下落し、左翼の理想も作家の権威も空洞化したのだ。 それから30年余……。 じゃあ、そんな今日、作家が発言することにどう意義があり、どう受け取られているか? 私個人の印象で言えば、それはまぁ「作家=突出した『私』の持ち主=抑圧された私の言いたいことを代弁してくれる」という役割だろうか。要するに底上げされた大衆の「気分」や「感性」を代弁し、言葉にならん自意識の問題に形を与え(「アダルトチルドレン」なり「自分探し」なり「癒し」なり)、難しい言葉で偉そうに、あるいはオシャレに格好良く言って気持ちよく納得させてくれる役、ということではないかと思う。 中野孝次らによる1980年代前半の「反核」声明などは、今にして思えば、そういう流れの発端とも取れなくない。それは政治的、社会的な言動と言うより、極私的、感覚的な「普通の人」の「私は死にたくない」という意識の表明として広まっていった面が強い。その気分は、後の広瀬隆らによる反原発運動ブームにつながっていると言えるだろう。 そして90年代初頭には、柄谷行人と中上健次を中心に、いとうせいこう、島田雅彦、田中康夫などの若手による湾岸戦争反戦声明が出されている。声明が政治的には無効・無力であることをあらかじめわかっていると断った上でのこの声明は、文字通り「戦争の報道が毎日されてるのに普通に生きてるのが、なんとなく落ち着かない、何もしないのが後ろめたい気がする」という気分の表明以上のものとはならなかった。結局みんな、死んだ中上に責任を押しつけて忘れた(たぶん中上自身は、それが空回りのダサい行為と分かっていたが、だからといって眼前の戦争を無視して黙って穏当ぶるのが嫌だから声明したのではないか、と思う)。 その後、田中康夫は震災後の神戸でボランティアを行うなどの微笑ましい活動を続けたが、これも別に皮肉や嫌味でなく、社会運動というよりは、暇な学生やOLが、自分がいい汗かきたいためにやるボランティアと同じような個人的活動と見てよいだろう。 運動と言えば、故・景山民夫は「幸福の科学」の熱心な会員となり、1991年、教祖大川隆法の名誉を傷つけたとして講談社糾弾の先頭に立った。これも、宗教活動という点もあって、政治運動・社会運動であるというより、「気分」や「感性」に基づく性格が強いだろう。 さらに近年のトピックで言えば、1997年の年頭、江藤淳を理事長とする(当時)日本文藝家協会は、柳美里のサイン会への自称右翼の脅迫と、横浜での櫻井よし子の従軍慰安婦問題に関する講演会中止に対して「団体・出版社・書店等は、作家の身の安全と、言論の自由を重視せよ」(大意)との声明を発している。また、1999年には、梅原猛を会長とする日本ペンクラブが、これも「言論の自由を守れ」という論調から児童ポルノ規制法案や盗聴法案に反対の声明を発している。 まぁ、反戦運動のような大状況的な声明とは違い、作家としてのおまんまの食い上げに関わる問題と考えれば、まったくもっともな声明だとも言えるだろうね。 別に私は「気分」や「感性」による発言や運動だから悪いと言いたいのではない。 私は、仮に物言いの中身がいかに陳腐であろうと虚妄であろうと、それを言わんとする作家自身の意志が本物であれば、それを安易に冷笑する気はない。そもそも、冒頭のサルトル以来、文学者の発言とは、要するに文学者が政治的、社会的な現実を前にしては無力な、所詮は絵空事を書く口舌の徒でしかないことへの後ろめたさに発する面があったと思う。そう考えれば、作家の運動や声明というのは実は昔からずっと「気分」や「感性」の問題とも言えるだろう。 文学者が外部社会への緊張感や後ろめたさというものをまったく持たなくなったら、これはこれでどうかと思う。 確かに、社会に背を向け積極的に逃避の姿勢を打ち出すことで傑作を書き得た作家もいれば、状況にコミットしない、自分のスモールワールドのみを守るというスタンスで矜持を貫いた作家もいる。例えば、古くは谷崎順一郎や永井荷風、江戸川乱歩、小栗蟲太郎、内田百聞(正しくは「門」の中に「月」)などはその系譜だろう。だが、彼らも常に、外部社会への緊張感は心の奥底では失っておらず、その緊張感が優れた表現を生んだのではないだろうか。 しかし、そういったことを踏まえた上で、最終的にはこうも思う、それでもやはり、作家の本領は文学作品を創ることのはずじゃないか、と。 つい出典を失念してしまったが、サルトルの問いに、誰かが「百万人の飢えた子供たちの存在をスキャンダラスな出来事と思わせるのが文学の力だ」と答えている。これは文学の役割論として、悪くない答えだと思う(まぁ、解釈を変えると、どーでもいいことをさも大問題のように煽る、という弊害にもなるけど)。 文学者とは所詮は絵空事を書く口舌の徒である。しかし、そのことに居直る者が勝ちなのではないか。結局、時代状況に関係なく後世に残るのは作品だけなんだから。 柄谷行人(公式サイト) ヤスキチ(田中康夫公式サイト) 中上健次 (はてな) |
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