「右傾化する社会の福音化を目指して」と題した本田哲郎神父(大阪・釜ヶ崎「ふるさとの家」)の文章が『大阪カトリック時報』12月号に載っていた。以下に転載します。(一部字句をあらためるなどし、小見出しを付けました)

  ▼腹くくる「とき」
 今、私たちは大変な「とき」に直面している。人が人として大切にされない空気が蔓延している。人と人をつなぐ「痛みの共感」が阻害されていく。
 「集団的自衛権」という戦争法を、私たちの国会が決めてしまった。国外で人道支援の任務につく自衛隊員は戦闘員になった。
 世論を無視して進められる辺野古の米軍基地建設。放射能汚染ゴミが人の生活を破壊し続けているさなか川内原発を再稼働、原発そのものを輸出しようとしている。
  ヘイトスピーチ、いじめ、ハラスメント…数え上げればきりがない。
 諸大国の好き勝手がISのテロを誘発し、数百万の難民を生じさせている。欧州の国々は難民の流入を阻止するために、金網を張り、壁を造る。これは欧州だけのことではない。日本への難民申請は5千人におよぶが、認可されたのは11人だけ。

 ▼低みに立って見直す
  社会で弱い立場にある人たち、谷間に置き去りにされた仲間たちに犠牲を強いる仕組みを、知ってか知らずに、容認する空気が広がっているということ。
 教皇フランシスコは「壁をつくるな」「橋をつくれ」と、世界に向けて発信した。
 「とき」(カイロス=ギリシャ語 ) は満ち、神の国はもうそこに来ている。
 「低みに立って見直し(メタノイア=同)、福音に信頼してあゆみを起こせ」(『マルコ福音書』1章15節)
 メタノイアは「悔い改め」ではない。痛めつけられて苦しむ谷間に生きる人たちの側に視座を移すこと。痛む側から見直せということ。そうしてはじめて何が正しく、何がまちがっていたかが見えてくる。
 何を悔い、何を改めるべきかがはっきりする。イエスが登場した2千年前の地中海世界と、今の世界情勢は驚くほど類似している。カイロスとは、ただの時間の流れの一点ではない。腹をくくる「とき」、決断の「とき」ということ。

 ▼痛みを知る感性を
 「谷はすべて身を起こせ、山と丘は身を低くせよ」(『イザヤ書』40章4節)
 強い立場の人たちのいいなりにならなくていいんだよ。痛みを知る人たちの感性はまちがっていないよ。身を起こして、胸を張って立ち上がりなさい。「主の栄光がこうして現れる」(40章5節)
 福音書の山上の説教(マタイ5章)、裾野の説教(ルカ6章)が言うことも同じである。
 「心底貧しい人たちは神からの力がある。天の国はその人たちのものである」(マタイ5章)
 「貧しい人たちは神からの力がある。神の国はあなたたちのものである」(ルカ6章)
 貧しい人たちは「神からの力がある」。幸いである、ではない。マカリオスは神からの祝福をいただいている。すなわち、神が共にはたらいてくださるということ。旧約聖書ではアシュレー。「痛みを知るあなたの感性(価値観)のままに、まっすぐ進め」ということ。

 ▼憲法九条は威嚇の放棄
 憲法9条の戦争と武力、武力による威嚇の放棄の宣言は、聖書の次の言葉を思い起こさせる。
 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とせよ。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ぶな」(イザヤ2章4節など)
 しかし日本という国は憲法制定以来、「武力による威嚇」だけはしっかり保持しつづけてきた。米軍という傭兵である。日米安全保障法制によってこれを保持しつづけてきた。
 憲法九条と聖書の言葉を本気で取り組むためには、同じイザヤ書の次の言葉も併せて受け入れなければ、神の国(正義と平和と喜びの社会――『ローマの信徒への手紙』14章17節)は実現しない。

 ▼強者は弱者に合わせよ
 「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、……牛も熊も共に「草」を食み、その子らは共に伏し、獅子も牛も共に「干し草」を食らう」(イザヤ11章6ー8節)

 「草」「干し草」は牛や羊や山羊など弱者の生を支える主食(感性、価値観)であり、狼、豹、獅子、熊など強者が弱者の価値観に合わせてこそ、平和が実現する。腹をくくるとは、そういうことである。「コリントの信徒への手紙1」第12章22ー26節も同じことを要請している。
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(「大阪カトリック時報」12月号より転載)
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 12月8日に以下を追加しました。。
 【クロノス・カイロス】月刊日本:佐藤優「戦後はまだ終わっていない」より。
  歴史には、ギリシャ語でクロノスとカイロスという、二種類の時間の流れがあります。クロノスはクロノロジー(年表・時系列表)、クロニクル(年代記)という派生語が示すように、数直線的に伸びてゆく、単なる時間の連続です。それに対して、カイロスとは超越的に介入してくる、クロノスを切断するような特別な時間のこと、その前と後では世界のあり方が変わってしまうようなタイミングのことです。たとえば、誰にでも誕生日というものがあります。他人には何の意味もない日付でも、その日が誕生日である人には、自分が生まれる前と後とを切断する、重要な日付となります。
  多くの日本人にとっては、8・15という日付は、戦前と戦後を切断する重要な日付、すなわちカイロスです。しかし、沖縄にとってはそれは必ずしもカイロスではない。沖縄だけでなく、満州で敗戦を迎えた人にとっては、ソ連が参戦して生命の危機が間近に迫った8月9日の方がカイロスと受け止められているでしょう。
  朝鮮人や台湾人にとっては、8・15は別の意味でカイロスです。彼らは当初、日本人とともに泣きました。なぜなら、彼らも大日本帝国臣民として戦っていたからです。しかしその後、彼らにとって8・15の意味は変容しました。それは大日本帝国から解放された日として、別な物語の中で読み替えられたのです。
  このように、それぞれのカイロスはその立場、どこで終戦を迎えたかによって、実は差異があります。相手にとってカイロスがいつで、それがどのような意味を持つかを知ることは、他者の内在的論理をつかむためには極めて大切です。本土で終戦を迎えた大多数の日本人にとっての8・15というカイロスも大事ですが、それを外部から見た時に、他にどのようなカイロス、あるいは理解がありうるのかを考えることで、世界の中の日本の位置が等身大で見えてくるはずです。