米国の製造業は悲惨な状態に陥っているというのが、大統領選の共和党候補ドナルド・トランプ氏の論点の一つだ。
今の米国の負の部分を強調してやまないトランプ氏の主張のなかでは、中国とメキシコの不公正な競争のせいで工場の雇用が消滅したというのは最も信用できる部類に属する。
トランプ氏は先週、ミシガン州での演説で同州の製造業の現状を「大惨事」と表現し、今は仕事がある人も失業を覚悟すべきだと警告した。トランプ氏が好んで口にするもっともらしいデータは、中国が2001年に世界貿易機関(WTO)に加盟して以降、米国では5万カ所の工場が閉鎖されたというものだ。
このメッセージは広く受け入れられている。米国の景気拡大は8年目を迎えたが、製造業の雇用は依然、景気後退前の07年の水準を約150万人下回っている。トランプ氏がもう一つの元凶とする北米自由貿易協定(NAFTA)が署名された1992年当時と比べると、約450万人の減少だ。米製造業の雇用のおよそ4分の1が消えた計算になる。
実際のところは、取り沙汰されている米製造業の死はひどく誇張されている。国連の統計によると、世界の製造業に占める米国の割合は、2005年の物価を基準とする付加価値ベースで1989年の22%から2014年の18%へ低下した。新興国の工業化のペースを踏まえれば、これは力強い足取りだ。
さらに最近のデータも同様の構図を示している。米製造業の生産高は数量ベースで依然、07年末のピーク時を下回っているが、減少率は6%ほどで英国および英国を除く欧州連合(EU)と同程度だ。日本は18%も減少している。
先進国の消費者の需要がモノからサービスへ移る中、製造業からの移行は避けられない。米国は07年以降、レジャー・ホスピタリティー業で200万人、専門・ビジネスサービスで200万人、医療サービスで250万人の雇用を創出した。需要が拡大している分野を示す数字だ。しかし、米国は今も中国に次ぐ世界第2の製造業大国だ。
製造業の健全性に対する「誤診」が問題なのは、毒になる投薬を助長するからだ。輸入品に対する関税でグローバル化を逆転させるというトランプ氏の夢は、物価の上昇と市場のゆがみを招き、複雑な国際的サプライチェーンに大混乱を引き起こすことになる。
トランプ氏と大統領の座を争う民主党候補のヒラリー・クリントン氏も、国際貿易・投資の流れを遮る公約に引きずり込まれている。例えば、企業の国内雇用維持に対する奨励策などだ。
工場の雇用減少は一部地域に大打撃を与えている。労働集約型の業種では、低賃金の外国との競合が一定の要因として絡んでいるはずだ。だが、工場での雇用減少の大部分は貿易でなく自動化の結果だ。米製造業の生産高は09年以降、17%増加しているが、生産性の向上により雇用の増加は7%にとどまっている。
製造業の企業に雇用の拡大を強いることを本気で考えているのなら、トランプ氏が目を向けるべき先はメキシコと中国でなくロボットだ。
米国の製造業の先行きが比較的明るいように見えるのは、自動化の進展が一つの理由だが、政府がそれをつぶすような政策を押しつけないことが前提だ。製品生産の労働集約度が下がれば、低賃金の競争優位はしぼむ。中国などの新興国は、賃金の上昇も労働コスト競争力の低下につながっている。
もっとも、工場で失われた雇用が全て戻ることに大きな期待を抱けるわけではない。しかし、政策で焦点を合わせるべきなのは、生産性の低い仕事を創り出すために時計の針を巻き戻すことではなく、経済が必要とする仕事に人々が就けるようにすることだ。
(2016年8月22日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
(c) The Financial Times Limited 2016. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.