様々な謎が散りばめられた映画『シン・ゴジラ』
その中でも最も気になるのは、
牧教授という人物の正体は一体何者で、彼は何が目的だったのか?何をしたのか?の部分ではないでしょうか。
そこでこの謎について、折り紙の折鶴、春と修羅、ラストの尻尾の骨など散りばめられたピースを絡めらがら考察していきます。
なおこの牧教授の話は正直色々な解釈ができますので、以降で書く考察が全てとは思っていません。あくまで可能性の一つとしてご観覧ください。
また後述もしますが、”敢えて”想定できる最悪のシナリオとして考察しています。
シンゴジラの正体 誕生~出現までの流れ 【牧教授・折鶴・春と修羅・ラストの尻尾の骨】
まずは前段として、「シンゴジラの誕生までの流れ」と「シンゴジラの正体は何か」の部分を簡単にまとめます。
シン・ゴジラ誕生~東京湾出現までの流れについては、以下のように考察します。
【シンゴジラ誕生~東京湾出現までの流れ】
①諸外国が放射性廃棄物を海底に投機。
②海底にいた何らかの生物が放射性廃棄物を食べ、シンゴジラ幼体(第0形態)に。
③米国エネルギー省(DOE)がシンゴジラ幼体の存在に気づき、秘密裏に調査・研究をはじめる。
④牧教授の妻がなんらかの理由で放射能に汚染され、妻を救うため放射能無効化の研究を始める。
⑤牧教授の妻がおそらく死亡。これにより牧教授は政府に恨みを持つ。
⑥牧教授はなんらかのツテでシンゴジラ幼体の存在を知り、幼体の調査・研究も始める。
⑦牧教授はシンゴジラ幼体を利用し「好きなようにする」ことを決意。
⑧牧教授は、シンゴジラの幼体のいる東京湾に。(もしくは東京湾に幼体を呼び寄せる、もしくは幼体を持参して東京湾に)
⑨牧教授は、東京湾にて幼体になんらかの作用を与える、もしくは自分を食べさせ取り込まれる。
⑩牧教授の働きにより、シンゴジラは急激に進化し第一形態に。そして冒頭の尻尾のシーンに繋がる。
⑪残されたクルーザーには、一羽の折鶴と詩集『春と修羅』が置かれていた。
大まかな流れは以上の様にイメージしています。
続いてシンゴジラの正体について。
【シンゴジラの正体】
ネットなどでは、シンゴジラの正体=牧教授と噂もされていますが、
正確には、牧教授がどうこうするずっと前にシンゴジラは放射性廃棄物投機により既に”幼体”として誕生している。それに牧教授がなんらかの作用を与えた事で、ようやくゴジラが本格的な進化を始めてしまったのが正確な流れと理解しています。
なおシンゴジラの一番始まりとなっている原点の生物の正体は、海中にいた、微生物・魚類・両生類いずれかに分類される生物であるかと思います。それが放射性廃棄物に影響され、幼体(第0形態)になったのかと。陸上に上がった第2形態の、大きな目、発達していない手、大きな鰓(エラ)といった特徴から、第2形態の時点で魚類か両生類と判断できますので、鳥類や哺乳類(人間も含む)などに分類される生物が幼体(第0形態)となったとは考え難いです。
パンフレット上で、シンゴジラ第2形態のデザインベースとなった深海ザメの一種「ラブカ」↓
庵野監督からデザインは「ラブカに似せてくれ」と指示があったとのこと。
断言はできませんが、一番初めの原点となっている生物はラブカの可能性が高いです。
牧教授の目的は?政府への復讐説が濃厚か
さて、本題となりますが牧教授はなぜゴジラを利用したのか。その目的はなにか。
ネット上でよく言われているのが「妻を見捨てた政府へ恨みを晴らすため、復讐のため」です。ただ、当初私はこの説をミスリードだと思っていました。理由としては、何処の馬の骨だか分からないおっさんの政府への復讐という一個人の感情をゴジラに絡めてしまうと、今回のシン・ゴジラというキャラクターが途端にチープになってしまうからです。特撮好きでゴジラの意味をよく解っているであろう庵野監督が、ゴジラの持つ神秘的なキャラクターにそんな泥を塗るとは考え難いです。それにいくら恨みがあったとしても、普通に考えてゴジラを利用して復讐というのはやはり非現実かと。
とはいうものの、よくよく考えてみるとこの説も一周回って意外と濃厚に思えてきました。理由としては、冒頭シーンのクルーザーに置かれた一羽の折り紙で作られた「折鶴」と詩集『春と修羅』、この2つのヒントが関係してきます。
「折鶴」と、「春の修羅」には次の様な意味が考えらます。
【折鶴(おりずる)の意味するもの】
折鶴について、広島平和記念公園の「原爆の子の像」のモデルとなっている佐々木禎子さんが、広島原爆で被爆し亡くなる前までの間、病状を回復したいと願い折り紙で鶴を千羽折ったという非常に有名なエピソードがあります。
クルーザーに置かれた折鶴がこのエピソードを指すものであれば、
折鶴は牧教授のなんとしても妻の病状を回復させたかった願望の強さ、そしてそれが出来なかった事での絶望の強さ、そしてそれによる恨みの強さを意味していると考えます。
途中で広島平和記念公園(原爆ドーム)の不自然なカットもありましたが、あれも単にカヨコの原爆批判というだけでなく、この牧教授×折鶴にも繋がってくるのかもしれません。
【春と修羅】
春と修羅は、宮沢賢治の制作した口語詩集本です。70編もの多様な詩から成る詩集のため、この詩集本全体が何を意味しているかは一括りに出来ません。
このため素直に題名の”修羅”を指すものだとして考えると「牧教授は妻の病状を回復させられず、その怒りや苦しさから修羅道に堕ち、政府へ恨みを晴らすこととした」と考えられます。
※修羅とは・・・修羅とは、 醜い争いや果てしのない闘い、また激しい感情の表れなどのたとえです。また、強い意志・目的・恨み・」後悔などから人の道を外れてまでも我が道を突き進む様を指す事もあります。この他にも修羅の意味は多様です。
なお春と修羅は、Kindle版電子書籍が現在無料で提供されています↓
※なお、この折り紙の「折鶴」と「春と修羅」は明らかに不自然に置かれていましたので、ヒントである可能性は高いです。いくらへそ曲がりな庵野監督と言えども。(春と修羅については資料協力としてエンドロールにも表記ありましたしね、かなり事前取材したのかと)
さて、この「折鶴」×「春と修羅」の2つのヒントから、牧教授は妻の病状を治せなかった無念の強さから、修羅道に堕ちたと仮説します。
その上で”修羅道”の名に恥じない、牧教授の最悪の復讐計画を以降で考察していきます。
牧教授の復讐プランA:核攻撃の誘発
まず牧教授により当初計画された”プランA”として考えられるのは、核攻撃を誘発し、核の火により東京もろとも政府を墜落させるパターン。
【牧教授の復讐プランA】
①牧教授は、シンゴジラの防御力や耐久性の高さを事前に推測しており、通常兵器でどうにもならず必然的に人類が核兵器攻撃に移ることを予測していた。
②このため牧教授は、シンゴジラによる破壊活動で政府に復讐するのではなく、あくまで囮として使う事にした。(そもそもゴジラを意図的に細かく操ることは出来なかった可能性が高い、また劇中でも分かる通りゴジラに自ら攻撃意志はなく牧教授はこの習性からも”つかえない”と判断した)
③そしてシンゴジラに向けた核攻撃を促し、核攻撃による政府への復讐を計画した。
④牧教授はゴジラになんらかの作用を与え、上陸後は東京を目指すように促した。もしくは牧教授はまだ何処かで生存しており、シンゴジラを東京へなんらかの方法で呼び寄せた。
放射熱線を乱射して暴れても、頑なに位置は変えず一点に留まり、定位置で砲台化していた最後の東京駅付近の位置が、シンゴジラの最終目的地点。つまり核攻撃の誘導位置。
⑤予定どおりゴジラは猛進し東京駅付近に移動。そこに目掛けて核が発射されれば、東京は火の海に。政府は完全に墜落し、牧教授の政府への恨みは晴らされる。
⑥だが、牧教授は血液凝固剤のヒントを与え、人間側にもう一つの選択肢を与えた。「君たちも好きなようにしろ」と。
⑦結果、血液凝固剤が完成しヤシオリ作戦により核攻撃は中止。このプランAは白紙になり、後述するプランBに移行。
当初計画されたプランAとして、この様に仮説します。もしこの通りであれば、放射能によって苦しめられた妻の恨みを、同じ人間が発射した放射能(核)で無関係な都民多くの命と共に報復させる、まさに”修羅”の名ににふさわしい計画かと。
牧教授の復讐プランB:第5形態による破壊行為
続いてプランAが白紙になった際用の代替案プランBについて考察します。
【牧教授の復讐プランB】
①今回のシンゴジラの動物的で本能的な習性を見ても分かるとおり、知能のある人間のように指示を与え牧教授の思惑通りに操り利用する事は難しい。また、ゴジラが自由に暴れて起こる目的や計画性のない無秩序な破壊は”修羅”というよりも、ただの”狂気”になってしまう。
②そこで牧教授は、ゴジラに知能を与え最終的に人間に近い生物のゴジラ人間(第5形態)に進化させる計画を立てた。牧教授はまだ何処かで生存しており、ゴジラがゴジラ人間に進化した後、知能をもったゴジラ人間を外部から何らかの方法で操ろうとした。(もしくはファンタジーな考え方になりますが、牧教授自身がゴジラに取り込まれる事で内からゴジラ人間を操ろうとした。牧教授の意志がDNAで継承される的な)
③劇中でヤシオリ作戦が成功し、シンゴジラ(第4形態)は凍結状態に。これをキーにもともと計画されていたプランBが発動。凍結された事により、シンゴジラの体内でゴジラ人間(第5形態)への変化が始まる。
④一定時間経過後、成長した数体のゴジラ人間がシンゴジラの尻尾の骨部分から顔を出す。これが問題のエンドロール前の意味深なラストシーンの正体。
⑤この後、無数のゴジラ人間が順次シンゴジラの尻尾から巣立っていく。そして彼らは牧教授に操られ、牧教授の明確な意思の下に破壊活動を行い日本や政府を墜落させる。そしていずれは、各国に飛来していき世界を破滅に導く。これが劇中でも示唆されていた「郡体化し各国に飛来してい最終形態(第5形態)」の正体。
プランBとして以上のような流れを考察します。ゴジラもまた放射能の被害者であり、そしてゴジラを作ったのは放射性物質を投機した人間です。そんな人類自らの生き写しの様な存在のゴジラ人間で、人類への復讐を行い妻の恨みを晴らす、こちらもまさしく修羅の名にふさわしい計画かと思います。
なお、この仮説だと牧教授がどのようにゴジラを操ったか、どのように第5形態に進化させたかの部分を突っ込まれると辛いのですが、そこはシンゴジラの人知を超えた特性を上手く利用したとのことでお許しください。
以上、「プランA:核攻撃の誘発」と「プランB:第5形態による破壊行為」の2段構えで、牧教授は政府への復讐を行ったのではないかと考察します。
この場合、プランA、プランBどちらを選んでも絶望的な結末しかなく、余りにも極悪非道で血も涙もない「君たちも好きなようにしろ」の選択肢となります。
自分で書いておいて難ですが牧教授がいくら政府に恨みを持っていても、まともな人間であればここまでの恐ろしい復讐劇を計画するとは思えません。ただ話を戻しますが、「折鶴」と「春と修羅」が、もし途方もない絶望と修羅の道を表していると仮定すれば、このようなまさしく人の道を外れた恐るべき復讐劇を牧教授が計画したとも考えられるのではないでしょうか。
最愛の妻が放射能で苦しみ死んでいく姿は、それほどまで牧教授を変えてしまったのかもしれません。
牧教授というキャラクターの正体は、核批判の比喩、暗喩
最後に、この仮説でもやはり『シン・ゴジラ』という映画が牧教授”一個人”の復讐劇となり、どうしてもチープに感じてしまいますよね。いくら牧教授が放射能により辛い思いをしていたからといっても、個人の感情でゴジラが動かされてしまうと、ゴジラ映画としては失格な気がします。そう思う方は私以外にも多いのではないでしょうか。
さてこの点ですが、牧教授というキャラクターは、これまでに放射能被害にあった方すべてを比喩、暗喩し連想させているという考え方はどうでしょうか。
太平洋戦争での原爆、その後の度重なる核兵器実験、さらには「チェルノブイリ原発事故」や「福島原発事故」などにより、放射能被害に見舞われ、苦しみどうする事も出来ずに亡くなっていった方は、これまでに世界中で多々いるでしょう。
そういった放射能被害で死んでいた方、またその親族の膨大な無念や怒りを、そしてその犠牲を忘れたかと言わんばかりにそれでも尚続く核開発や核の乱用に対する無念や怒りを、この牧教授というキャラクターで連想させようとしたのではないでしょうか。
これは初代ゴジラも掲げていたテーマ。もしこうであれば、庵野監督も望んでいた初代ゴジラへの原点回帰が十分に達成されている気がします。
牧教授の人物を映すシーンが全くなかったのも(写真はちょろっとでましたが)、牧教授は一人のキャラクターとしてではなく、観念としてみて欲しいといった意味があったのかもしれません。
追記:牧教授のもう一つの解釈 ~世界の幸せのため、世界を壊す~
コメントにて、「春と修羅」の著者でもある”宮沢賢治”という人物について貴重な意見を頂きました。
宮沢賢治の世界観は独特ですがそれは彼の拠り所としていた法華経と溺愛していた妹を亡くしたことによる独自の幸福論によるものです
その幸福論とは「世界全体が幸福にならないうちには個人の幸福はありえない」といったものです賢治の「世界全体が幸福にならないうちには個人の幸福はありえない」という思想から考察してみると、もしかすると溺愛していた妻を亡くした博士(ここが賢治に重なるのが気になります)は自国の利益を追い求める米国や、世界の仕組みが嫌になったんじゃないでしょうか
また博士の核の無害化も核のせいで妻を亡くす(個人の不幸)
↓
どうしたらこのような不幸が無くなるか(個人の幸福の追求)
↓
放射能を無害化する(世界全体の幸福の追求)
↓
ゴジラを造り上げると個人の幸福は世界全体が幸福にならない限り訪れないと博士も考えたのでは無いのでしょうか?そうして自分と賢治を重ね、最後は春と修羅を残してこの世を去ったのでは無いのでしょうか?
↑匿名さんから頂きましたコメント
宮沢賢治という人物は、妹の死の絶望から「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という独自の世界観を持っていたようです。
これについては、宮沢賢治の『農民芸術概論』の序論でも述べられています。
宮沢賢治の『農民芸術概論』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html
そこで、「折鶴」、「春と修羅」に加えて、この著者である「宮沢賢治の思想」もヒントであったとして考えると、もう一つ以下の様な牧教授の計画が考察できます。(一部頂いたコメントの考察も混ぜさせて頂きます。)
【もう一つの牧教授の仮説】
①牧教授は、なんとしても妻の病状を回復させたかったが、それが出来ずに妻は死亡。深く絶望した。(折鶴の部分)
②牧教授は、自らの心の絶望を埋めるために、放射能被害無効化の研究に没頭し、世界全体の幸福を追求した。(宮沢賢治の思想の部分)
③牧教授は、放射能被害をこの世から完全に消すためには、放射能無効化の技術うんぬんより以前に、核を乱用する人類そのものがこの世から消えるべきと判断した。(「春と修羅」の”修羅”の部分)
④そこでシンゴジラを利用し、政府を、日本を、アメリカを、そして全世界を破壊し、この世から核を乱用するであろう人間を全て消し去ることにした。それにより放射能被害のない、幸せな世界に導こうとした。(「春と修羅」の”修羅”の部分)
⑤そして上のプランAもしくはプランBのような方法を考え、破壊活動へ。
宮沢賢治の思想もヒントであったのならば、この様な屈折した正義による破壊行動を計画していたとも考えられそうです。
庵野監督と関わり深い『風の谷のナウシカ(漫画版)』や『エヴァンゲリオン』、『巨神兵、東京に現る』でも、このような「再生する為に一度全てを破壊する」描写がありますし(人類〇〇計画的な)、庵野監督自身もこういう話が好きそうなので、意外とありえる話かもしれません。これはこれで夢も希望も無い結末ですが。
「スクラップ&ビルド」ももしかしてここに?
※画像はイメージです
まとめ
もちろん牧教授は修羅道になど堕ちておらず、むしろ日本や政府を助けるために東京湾に向かい、ゴジラになんらかの手段を取ったとも考えられます。
今回はあくまで折鶴と春と修羅にスポットをあて、「牧教授が修羅として取る最悪の行動は何か」という意味で考察させて頂きました。
それにしても、この牧教授が何をしたかで、『シン・ゴジラ』という作品の観方がかなり変わってしまいますよね。ここは流石に庵野監督と言えども投げっぱなしにするのは良くなかったのではないでしょうか。
いずれ公式資料集や続編で明かされるのかもしれませんが、早めにこのモヤモヤをはっきりさせたいです。
これで「実は何の意味もありませんよ、お馬鹿さん」だったらどうしましょう(笑)
また、この話題を考察する上でのヒントをコメント覧で頂きました”ゆばさん”、誠にありがとうございました。
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春と修羅の作者である宮澤賢治には妹がいましたが幼くして病気で亡くなっています。
それを書いたのが、春と修羅の冒頭にある「永訣の朝」という詩ですね。
おそらくは末期の水になるもののために妹が「雨雪(みぞれ)をとってきてほしい」という台詞が何度も繰り返しています。
ネットにも全文が載っていると思いますので、ご参考までに。
コメントありがとうございます。
「永訣の朝」の詩は、とても物悲しい印象を受けました。そして、今回の牧教授の境遇に合うような感じがしました。
この詩で述べられている通り、牧教授も妻を失う事に大きな苦しみを感じていたのかもしれません。
この機会に春と修羅を読み進めてみます。
考察読みました。
以下は、自分なりの考察です。ご参考まで。
街の大破シーンや、放射能問題など東日本大震災とシン・ゴジラがリンクしていると推察する方は多いですが、これをさらに発展させます。
春と修羅→春は3月11日、修羅は日本を襲った震災
折り鶴→被災者への祈り
これは、牧教授というよりかは、庵野監督からのメッセージと捉えます。
そして、シン・ゴジラが日本に出現した理由は、かなりブラックですが、放射性物質を食べて進化したシン・ゴジラが、さらなる放射性物質を求めて日本に来たということです。
つまり、汚染された日本近海で、汚染された被災者の死骸を食べたのではという解釈です。
そして、ラストシーンの尻尾の人型のナニカはその食べられた被災者の亡骸です。
しかしこれではなぜ東京なのか、なぜ上陸したのかが説明不可なのですが。
以上です。
コメントありがとございます。
そこまでは考えつきませんでした。
たしかにブラックですがそれもあり得そうですね。
牧教授の妻の放射能汚染というのも、東日本大震災での例の原発事故の影響かもしれません。
それであれば、牧教授の話も回収できますしね。
なぜ東京を目指したかは、オカルト的に考えれば色々ありそうです。
ただ、それだと今回のシンゴジラで、東日本大震災の比重が多くなり過ぎる気がするので、少しそこが疑問です。
今の時代的に、従来の核批判よりも大震災のテーマを採ったとも考えられますが。
宮沢賢治の世界観は独特ですがそれは彼の拠り所としていた法華経と溺愛していた妹を亡くしたことによる独自の幸福論によるものです
その幸福論とは「世界全体が幸福にならないうちには個人の幸福はありえない」といったものです
ですので「春と修羅」のタイトルから考察するより彼の思想から考察する方がより正しい解釈が出来ると思います(なぜならタイトルだけならそれこそダヴィンチコードの続編の天使と悪魔を置いていても今の解釈が成り立ちかねないですけど、中身はシン・ゴジラとずれますよね)
賢治の「世界全体が幸福にならないうちには個人の幸福はありえない」という思想から考察してみると、もしかすると溺愛していた妻を亡くした博士(ここが賢治に重なるのが気になります)は自国の利益を追い求める米国や、世界の仕組みが嫌になったんじゃないでしょうか
それこそ映画の後半の国連の動きとか加盟国の利己心からなるものこそ嫌っていたかもしれません
また博士の核の無害化も
核のせいで妻を亡くす(個人の不幸)
↓
どうしたらこのような不幸が無くなるか(個人の幸福の追求)
↓
放射能を無害化する(世界全体の幸福の追求)
↓
ゴジラを造り上げる
と個人の幸福は世界全体が幸福にならない限り訪れないと博士も考えたのでは無いのでしょうか?そうして自分と賢治を重ね、最後は春と修羅を残してこの世を去ったのでは無いのでしょうか?
コメントありがとうございます。
私は宮沢賢治について詳しくないため、大変勉強になりました。
そして、おっしゃっている内容も十分あり得るかと思います。とても納得しました。
今回の考察は”修羅”をテーマに最悪な方向で考えてしまいましたが、牧教授はそういった善(結果的に善というのが正しいでしょうか)の方向で何かをしようとしていた人の方がしっくりします。春と修羅=宮沢賢治を指しているなら、余計にそう感じます。
ただ、もし牧教授と宮沢賢治を連想させたいのであれば、「春と修羅」1冊だけでなく、宮沢賢治の本を数冊置くのがヒントとしては自然ではないでしょうか。
そうではなく「春と修羅」1冊なのには、やはり「春と修羅」には宮沢賢治だけでなく、それとは別に「春と修羅」だけが示何かしらの意味がある様にも思えるんです。
追記:
この宮沢賢治について少し自分なりに考えてみました。それを↑記事内の「牧教授のもう一つの解釈:世界の幸せを求めての破壊」として記載させて頂きました。
ありがとうございます
こちらのブログの宮沢賢治の作品「春と修羅」の考察も興味深いですよ
http://blogs.yahoo.co.jp/knsttkyk/10263170.html
またまた、ありがとうございます。
URL先の文を読んでみました。
なかなか私ですと真意が読み取れませんでしたが、喪失感の様なものを感じました。
個人的にももう少し宮沢賢治を探ってみたいと思います。
ゴジラ幼体に何らかの作用を加えて教授が急激な進化を促したという推理には同感です。私は、ゴジラが魚→両生類→爬虫類→ヒト(最後の尻尾のシーン)と進化する度に人間に近い形態に進化していることから、牧教授が自らを捕食させることによってヒトのDNAを取り込ませ、ゴジラの進化を促したのではないかと推測しました。
また、教授は奥さんを見殺しにした日本政府を恨んでいた、とのセリフがありましたが、先の対戦での原爆による被爆についての言及がありませんでした。YouTubeで岡田さんという人も考察していましたが、牧教授の奥さんを死に至らしめた原因は3,11の原発事故なのではないでしょうか(現段階では原発事故での死亡者は0となっているが、十数年後、内部被爆した人が放射能症に発症する可能性はあります)。原発事故で杜撰な対応をしていた政府への怨念からゴジラを覚醒させ、政府機能が集中した霞ヶ関に向かわせた、また、地方に原発を建設し不可測な事態が発生した時のリスクは押し付ける一方で、自らは膨大な電力を消費して都市としての発展を謳歌する大都会東京への恨みをぶつけるために、ゴジラは東京に向かっていったのではないかと思います。
コメントありがとうございます。
そうなんですよね、牧教授がらみの話で太平洋戦争や原爆の話は直接的には出てきていませんでしたし、
牧教授の年齢的に(おそらく50~60代?)、奥さんが原爆被害に合ったとは年代的に考え難いですし、
そうなると、私も奥さんを死なせたのは3.11の原爆事故なのかなと思っていました。
ですが、ただでさえ津波のシーン、ヤシオリ作戦の冷却作業などで3.11がらみの話は多々出ているので、
この根本部分まで3.11を取り入れてしまうと、本当にこれはゴジラ映画というよりは3.11の話になってしまうので違和感も感じます。
原爆の被爆と、福島原発の被爆では大きく意味が異なり、本来の反核のテーマが完全に消えてしまいそうで。
震災を経験した今の時代的に、敢えて今回の『シンゴジラ』では反核というテーマをゴジラから完全に捨て、3.11に焦点を定めたのかもしれませんが。
実際のところどうなのでしょうか。
考察の内容に概ね同意いたします。
一点思うのは、「牧教授はアメリカもまた恨んでおり、そして試したのではないか」ということです。
ゴジラに反核のテーマがあることは周知の事実ですが、
それならゴジラは「米国に向かわなければならない」はずだったのです。
原爆を落とさずとも日本は負けが殆ど決まっていましたから、あれは完全な米国の都合かと。
この問題について金子監督はゴジラを「太平洋戦争で死んだ人々の怨念の集合体」とすることで解決しました。
(それでも米国に向かうような気がしますが・・・。)
そしてエメゴジでは「フランスの核」、ギャレゴジでは「元からいた」、という設定になっています。
牧教授は日本を恨んでいたかもしれませんが、同時にその日本に核を落とし、核の力を享受する米国にも思うところがあったのでは無いでしょうか。
なのでデータの本体を「米国」に残し、その欠けたパーツを「日本の折り紙」の形にして隠した。
事態に窮すれば米国は核を使うだろう、核保有国とはそういうもの。
そこを堪えて、過ちを認め、かつて自らが傷つけた相手に手を差し伸べることができるか?
牧教授はそうやって米国も試したのでは、と思います。
結局、それを成し遂げたのは生粋のアメリカ人でなく、カヨコになったわけですが・・・。
コメントありがとうございます。
牧教授の奥さんが、原爆被害なのか原発被害なのかで話が大分変わってくるかと思いますが、
原爆被害であるのであれば確かにその通りかと思います。日本政府だけでなく、その矛先はアメリカにも向かうのが道理ですよね。
おっしゃる通り、「好きなようにしろ」というのは、実は日本人だけでなく、アメリカや加盟国にも向けられていた選択だったのかもしれません。
そういえば、ゴジラを暴走させた発端もよく考えてみると米軍の爆撃機ですよね。
もしあの攻撃がなかったら、ゴジラや日本はどうしていたのでしょうか。あの時点から選択が始まっていたのかもしれません。
あとアメリカについては、第5形態の飛来によって最終的にケリを付けに行くつもりだったのではないでしょうか。
こちらにもお邪魔しますよ!
毎回長文投下してるんで今回はさらっとトンデモ路線でいくよ!!
庵野さんはアニメ出身だし、アニメ屋さんは無意味なカットを嫌う傾向があります。
本は何かのメッセージでしょう。
ところで庵野さんの周りで賢治好きといえばあの師匠ですよ。
そして机にはメガネもありました。
つまり
ぱやおおおお、東京湾に沈めええええええ
という心の叫びですね。
うそですうそうそうそ(笑)
本当はなんなんでしょうかね。
一回目見た時に記憶に引っかかるくらい、はっきりと見せてたので
間違いなく何か意味はあるんでしょうけど。