【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ
「士農工商」とは何だったのか
江戸の身分制度研究略史
近世身分制社会の成立
近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓
近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層
賤民制と身分的周縁を構成する社会集団
柔らかい身分理解という日本社会史の新視点
「重層と複合」、「分節構造」
江戸の身分制社会を解き明かす上で、その分析方法として注目されるのが身分的周縁論をリードする塚田孝氏の「重層と複合」論である。同氏は近世社会が「武士の家、百姓の村、町人の町、職人の共同組織、賤民の共同組織など」(吉田伸之2009 P12)の重層と複合から構成されているとする。「重層」とは「村々が組合村を形成したり、町々が組合町をつくったりという基礎的な社会集団が二次的三次的に集団を形成して行くような関係」であり、「複合」とは武士と町人、町人と賤民などの「異種の社会集団間の交流・関係」のことである。「近世の社会は、支配者から賤民までに及ぶ多数の社会集団が、相互に取り結ぶ無数の関係構造として全体の社会が形成される」(吉田伸之2009 P13)
この塚田の「重層と複合」論を社会集団の関係構造を理解する基礎とし、吉田伸之はそこにもう一つの視点として権力秩序の「分節構造」の存在を見出す。「重層と複合」によって生み出された中間的な集団によるネットワークの網の目は、「これらを束ね、統合しようとする権力の作用によって、一つの構造が形成される」(吉田伸之「都市 江戸に生きる」2015 はじめに)。
「つまり、社会集団同士の『重層と複合』関係を基礎に見て、これに権力や社会的権力などによる支配・従属関係、あるいは矛盾・対抗関係をも含んだ、秩序構造として、銀河のような立体的な構造物を想定して復元し、その結果見いだされたものを分節構造とよんでいるのである。」(吉田伸之2009 P361-362)
君臨する社会的権力
吉田伸之はその分節構造としての近世身分制社会の秩序構造に大きな影響を及ぼした存在として「それぞれの時代の支配権力とは独自に、生産や流通の手段、武力や知識などを独占することで、周辺の地域社会に対して私的な支配力を及ぼす社会層」(吉田伸之2009 P61)を「社会的権力」と名付け、その江戸時代における代表的存在として「在地社会における村方地主と、都市域の有力商人=大店層」を挙げている。村方地主については次の身分的中間層の項で取り上げるとして、まずは豪商・大店と呼ばれた大商人についてみてみよう。
社会的権力としての大商人~「豪商」と「大店」
町人として都市社会の分厚い中間層の主流となった商人たちの中から十七世紀~十八世紀にかけて日本全土にすら影響力を行使しうる巨大資本家「大店」が登場してくる。代表的なのが時代劇でよくあるセリフ「越後屋、お主も悪よのう」でお馴染みの三井越後屋である。
近世商人は問屋・仲買・小売という三つの性格に分類できる。そして大店化に至る商人の急成長は問屋のヘゲモニー獲得の過程として描かれる。
先に仲買と小売について。「仲買」は産地の生産者から商品を購入、問屋が管理する売場=市場に輸送して問屋や小売に販売する商人で、遠隔地間の商品流通の活発化とともに彼らの活動が市場社会を成立させるようになる。やがて彼らは産地と消費地とで機能分化していった。「小売」は商品を消費者に販売する商人である。交易の古い形態をさかのぼれば、生産者が直接消費者に販売するというシンプルな形態として始まるわけだが、ここから市場規模の拡大とともに仲買が誕生、仲買から消費者への販売という機能が分化して「小売」が登場する。しかし、その分化の過程は必ずしも定説があるわけではなく、一つには市場参加の特権化により、市場に参加できなかった商人が仲買から小売機能を委譲されたともいわれる。
「問屋」は元々は「流通の中で、交通の拠点において物資の保管・管理、あるいは中継を本来の業とした」(吉田伸之 2009 P246)が、十七世紀末の東西両廻り海運の開拓を契機とする全国物流網の登場とともに、「とくに城下町など大きな消費地をひかえた都市域においては、遠隔地の生産地における商品所有者=荷主から商品を預かり、自らが所有する売り場を提供して、これを消費地での商人層へ販売」することで手数料を得るようになる。さらにこれによって蓄積された自己資本を荷主や生産者、運輸業者に貸し付ける金融機能を持つようになり、おのずと仲買と小売を従属させ市場と金融とを支配して巨大な力を持つようになる。
その「問屋」の中から登場してくる「大店」の影響力は近世身分制社会において、事実上の支配者とでもいえるほど強力である。「大店」の特徴として町屋敷一か所以上を店舗用の敷地とするほか、全国の都市域に多数の抱え屋敷を持ち、手代や丁稚などの奉公人と、近隣地域の小商人、諸職人、日用などを従属下においた。
特筆されるべきは、大店による多数の町屋敷の集積である。三井越後屋が本拠を置いた京都冷泉町の場合、十六世紀は小経営の職人層が中心であったのが、十七世紀後半にかけて、豪商たちが町屋敷を集積するようになって町人が三分の二に減少、1673年、三井越後屋が拠点を築き始め、冷泉町の町屋敷集積を開始、豪商たちが次々と没落していく中で冷泉町の町屋敷はほぼ三井越後屋が独占することになる。
「近世初期の冷泉町は、商・手工未分離の小経営主体である『職人=町人』が構成する、比較的フラットな町共同体であった。これが、十七世紀半ば以降、呉服屋や両替商を代表とする『新しい町人』=新興の有力商人層によって急激に没落せしめられ、大半が町から退転せざるを得なくなり、『職人=町人』は十八世紀初めまでにほぼ全滅するに至ったのである。」(吉田伸之 2009 P133)
町人の全滅、とはどういうことか。前述の引用部分をあらためて引いておこう。「居住者で商人や手工業者の小経営主体のうち家屋敷を持つもの(家持)が本来の町人身分」であった。つまり、家屋敷の喪失は町人身分の喪失につながる。「町人地の最小単位である町屋敷の売買に際して作成される土地売却証文」(吉田伸之2015 P70)を「沽券」と呼んだ。町屋敷の売買は町人としての身分を左右する、つまり「沽券にかかわる」のだ。
このような豪商・大店による町屋敷の集積は十八世紀から十九世紀にかけて全国で急速に進んだ。その結果、かつて町人であった多数の人々が身分を喪失して町を追われ「身分的周縁」を構成する乞食や日用(日雇い労働者)へと落ちていく。問屋がヘゲモニーを獲得し豪商・大店化して社会的権力として君臨する過程で都市社会に生まれたのは一部の大商人と彼らに従属する零細経営者、多数の貧困層という分化であり、近世身分制社会を変質させ、幕藩体制を大きく揺るがすことになる。
江戸幕府の植民地支配と商人の請負
社会的権力と商人という関係の関連として、身分制社会の埒外、江戸幕府によるアイヌ支配に深くかかわった商人についても簡単に触れておこう。近世にも請負制がある。近世の「請負制とは、一定の運上金などの納入と引き替えに、たとえば山野河海の利用権・専売権を得る制度であり、とくに領主側から見ると、特殊な技能や技術を必要とする生業活動に関わって、そのような能力を備えた労働力を、請負人を通して調達・編成させるシステム」(「身分的周縁を考える」収録町田哲論文2008 P32)だとされ、集荷請負、山の請負、場所請負の三つに分類される。
取り上げるのは三番目の場所請負である。場所請負は「『商人の身』である場所請負人が『場所土地人民』を『請負支配』するものと認識され」(町田哲2008 P37)ていた。蝦夷地支配も、この場所請負制が敷かれていた。蝦夷地場所三役は幕府から請負った「場所請負人が場所経営拠点に派遣した雇い人」(町田哲2008 P36)で、「アイヌ社会や場所に入域する出稼和人漁民(浜中)を差配し、場所差配の面では村役人に擬された存在で、アイヌ支配の最前線や儀礼の場においては、武家に準ずる座次で、アイヌ語能力・文化的素養を家職としていた」(町田哲2008 P36-37)。商業資本家が武士(国家)の権威と権力を背景に本国以外の地域に支配権を行使するという、例えばイギリス東インド会社によるインド統治を彷彿とさせるような植民地支配的な体制があった点で非常に興味深いのではないだろうか。江戸幕府による蝦夷地への帝国主義的・植民地拡大的な進出についてはアイヌ研究でも多くの論考がある。
これと比較すると興味深いのが薩摩藩による琉球王国支配であろう。その窓口となったのが、琉球に薩摩藩が設置した薩摩問屋である。琉球から日本への輸入品を一手に引き受けただけでなく、清国沿海商人との密貿易も積極的に行い、藩益を追求する機関であった。”武士的な権威を背景とした商人”による対アイヌ関係と、”商人的な機能を備えた武士”による対琉球関係という構図は近世日本の対外関係を考える上で非常に重要な論点を含んでいる。
支配を支える人々~身分的中間層
近世身分制社会の基本原理は兵農分離である。しかし、実は武士身分の表装であるはずの苗字帯刀を許された百姓・町人が非常に多く存在して、旗本・御家人などの家政を取り仕切ったり、代官所などで下級役人として政務についたり、参勤交代の行列に百姓が武士として参加するなどの例が多くみられている。武士とそれ以外を峻別したはずの近世身分制社会において、武士身分ではないが武士と平人との間に立って支配を支える人々がいた。これを朝尾直弘、久留島浩らは「身分的中間層」と呼んでいる。
「シリーズ近世の身分的周縁5 支配を支える人々」(久留島浩編 2000年)では、第一に在地社会の中の権力的・権威的存在としてa)庄屋(名主)・郡中惣代b)町人代官・在地代官、第二に武士の中の周縁的身分としてかa) 職務の間だけ武士身分となる牧士と土着させられた武士身分である八王子千人同心b)武士出身ではないが行政・家政を担当する代官手代・用人、第三に行政機能・職務を金銭で請け負うかわりに武士身分を獲得する御用宿に分類がされている。これに幕領の鉱山技術者や治水技術者、長崎の貿易事務担当者なども「御用」に際して武士身分が与えられており、身分的中間層に加えることができる。また学者や医師、富裕百姓町人の知識人層を「中間的知識層」として広く身分的中間層の一つとすることもある。
身分的中間層に共通する特徴は「武士身分の標識としては苗字帯刀から乗馬・槍の携行・供連れまで、さらに扶持の量や質をも含めて、幅があるものの、「御用」を分掌したり代行したりする限りにおいては、武士あるいは武士に準じられる処遇を受けるべき身分であると認められた存在」(久留島浩2000 P17)ということである。
このような支配を支える人々の必要性はまさに徳川幕府が全国的な支配体制を築こうとしたがゆえに求められることになった。年貢の安定的収取と再分配、生産基盤の整備と、統治に必要な膨大な行政文書の作成など、支配体制の確立と運営に際しては専門的知識と技能、被支配の人々や社会的慣習に対する深い理解とコネクションを持つ人材が行政機構の末端に必要不可欠で、それは「家」として継続性を持つ集団であることが求められた。「町人・百姓から抜擢された彼らは、このような在地性と専門性とによって勤める職務が『御用』として認定され、『御用』を勤める限りにおいての武士身分として認められたのである。」(久留島浩2000 P18)
そして、この身分的中間層の中からやがて幕末から維新へと至る一連の変革を主導する多くの人材が輩出されることになる。特に江戸時代後期から幕末にかけて、行政機構の弱体化によって多くの百姓・町人の抜擢は必要不可欠な要因となり、地域社会の混乱を抑えるため在地社会に治安維持のための軍事力の行使も頼るようになる傾向が強まり、町人・百姓も武芸に励むようになる。もはや兵農分離自体が形式的なものとなるわけだが、その一連の変化の中に登場するのが例えば新撰組のような百姓・町人層ながら軍事の「御用」を受け持つ人々であった。
在地社会の村役人と豪農
ここでは在地社会の権力的・権威的存在としての庄屋・名主に代表される村役人層と豪農台頭の流れを押さえておくことにしよう。
村役人層は戦国時代の地侍・土豪層が多くを占めていた。本来、武士であった彼らはその多くが兵農分離に際して武士身分となるのではなく在地に残って百姓となる道を選ぶ。なぜか?吉田ゆり子は「日本史講座第5巻近世の形成」(2004)所収「兵農分離と身分」で、信濃国下伊那郡坂部村の土豪熊谷氏に伝わる史料「熊谷家伝記」を参照しつつ、戦国時代の地侍・土豪などの郷主層百姓化の流れをまとめている。
中世、各地に移り住んだ土豪は開発領主「郷主」となるが戦乱の中で領地を守るため互いに協力して連合を組み、さらにその中からより上位の「太守」へと被官化していく。しかし、信濃であれば武田信玄のような強力な戦国大名の登場によってその支配下に組み込まれると、自分の領地を離れた遠隔地での戦争に駆り出されるようになる。これは彼らの望むところではない。自領「郷中」の保護と家の存続が最優先なのであり、また多額の戦費も負担として重くのしかかる。彼らの多くは領地の一部割譲をしても軍役の忌避をするようになる(一方で一族の意思は尊重しており、多くが己の意思で武士となるなど、土豪・地侍層は武士の供給源でもある)。このような背景で、兵農分離に際しても軍役の負担や家の存続を犠牲にするより武士化を拒む傾向が強くなる。兵農分離によって、彼ら百姓化土豪層は、領主権は失うことになるが、水利権・入会権など様々な用益権を確保し身分差表象、地位、かつて支配下にあった百姓たちへの影響力は認められることになった。
こうして江戸時代に登場してくるのが庄屋・名主と呼ばれる村役人層である。幕府による村支配の実務を担い、百姓たちへの支配権を行使し、のちに差がなくなるが江戸時代初頭においては一般の百姓は布木綿しか着ることができなかったが、絹袖を切ることが認められるなど衣服で身分差を示すことが認められた。
吉田伸之は佐々木潤之介の論をまとめる形で、このような地侍・土豪由来の村方地主から豪農の台頭へ至る過程を第一次名田地主(旧来の地侍・土豪出身者層)、質地地主、豪農の三段階に整理している。
(a)第一次名田地主とは、家族と下人を用いる地主手作経営を中心都市、その外の集積した耕地(手余り地)を下人小作にゆだねるものである。この下人小作は、単婚の小家族経営で、これらは一般の本百姓へと急速に自立してゆく。
(b)質地地主は、貨幣経済の浸透によって第一次名田地主が高利貸的経営者としての性格をあわせ持つに至った形態である。この中で村内や近隣の小百姓たちから、債務の担保としての土地を質地のかたちで多く集積し、また手作地の経営は年雇の雇用労働力に依存してゆく。
(c)豪農とは、商人化した質地地主である。彼らは一般の本百姓を商品生産や流通面で支配し、町方の商人と連携し、権力との共生関係をも結ぶに至る。(吉田伸之 2009 P62-63)
庄屋・名主層は支配を支える身分的中間層であり、在地社会に君臨する社会的権力として成長するが、一方で旧来の地侍・土豪層の多くが没落して新興在地地主層と入れ替わってもいる。このような中で、都市社会と同様に、在地社会でも村役人として幕府の権威を背景にして富を集積する在地地主層と彼らに従属する小百姓との二極分化が進み、その対立が十八世紀末から十九世紀にかけて表面化する。それが歴史上「村方騒動」と呼ばれる現象で、この対立が村統治の民主化と身分秩序の崩壊とを同時にもたらしながら、幕末的情勢を作っていくことになる。
士分化と売禄
近世身分制社会の身分はここまで見てきたように決して固定的なものではない。百姓・町人身分ながら武士的な役を与えられ一定の特権が認められた身分的中間層の存在とともに、百姓・町人身分から武士への上昇の機会も少なくないし、江戸時代全般を通して人々は強力な上昇志向「身上がり」願望を持っていた。可能ならより上の身分へ、もし身上りが無理でも自身が置かれた身分集団の中でより上位へ、あるいは地位の上昇はできなくとも実利を獲得したい、というある種の利権獲得競争社会の様相がある。渡辺尚志が指摘するように、この利権獲得競争社会的な側面が江戸時代を訴訟社会たらしめていた。負ければ財産を失ったり拷問や死罪といったリスクがあるにも関わらず、誰もが権益を求めて係争を起こし、その解決のために積極的に訴訟を行う、とてもギラギラした社会である。そういう点で戦国時代の下剋上の気風は江戸時代にも受け継がれていたといえる。
その身上がり願望をかなえるルートとしての士分化についてである。深谷克己「江戸時代の身分願望」(2006)によると、三つのルートがある。一つには上記で見た地侍・土豪が士分化するルートである。在地領主、村役人として差別化されていた彼らも新興地主や既存秩序に団結して異議申し立てする百姓たちの突き上げにあうと、より明確な身分として武士になろうとする。そのとき、領主側も統治の必要性から在地の有力者である彼らを武士に取り立てる例が少なくない。
第二に、優秀な百姓・町人の抜擢というルートがある。前述のとおり、複雑化した行政機構の運営上、専門性やコネクションを持った優秀な人材を士分に取り立てて統治機構に取り込みたいというニーズがあった。これが活発化するのが江戸時代後期、既存の統治構造が機能不全を起こした十九世紀初頭からで、支配者と被支配者という関係性は次第に流動化していかざるを得ない。
第三に、禄の売買である。十八世紀、石高制の行き詰まりから全国で藩財政が悪化、各藩とも自領内の有力百姓・町人に対して禄(知行や地位)の売り出しを始める。例えば仙台藩では1770年代、百姓は五十両で帯刀、百両で苗字が与えられ、二百五十両で百姓人別除外、つまり武士になれた。さらにその上も五百五十両で郷士格、千両で大番組、と金額次第で地位を次々獲得できる(深谷克己P137-139)。
コネとカネとスキルの二つ以上ーーといってもコネとカネは必須だがーーがあれば百姓から武士というのも可能だったのである。一方で賤民から百姓・町人となると例がないわけではないが限りなく不可能に近くなる。生まれの格差からくる可能性の閉塞感というのは、身分制社会の特徴である。
近世社会で「株」はもともと「世襲的に認められた権利の意味で用いられた」が、金融経済の発展は権利としての「株」を貨幣と交換できるようにした。貨幣が身分を突き崩し始めるようになるのである。町人身分が家屋とともに売り飛ばされ、百姓身分が借金のカタに奪われたように、武士身分も禄を通じて購入できるようになる。家や村・町などの地縁的血縁的共同体ごとに職能と権利がセットで与えられ、受け継がれていたものが、株と貨幣の交換によって切り離されることになる。十八世紀後半、「職能が家から離れて人につこうとしていた」(浅尾直弘1992 P40)。このように身分的中間層を媒介とした士分化の流れの中で「士農工商」が取り戻すべき理想論として身分序列の意味を持つようになった背景がようやく理解できるようになるのではないか。
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