101歳のジャーナリスト、むのたけじさんが、昨日、亡くなった。

 よりよい社会と世界を目指すには、あの戦争と、その後の日本の歩みを、絶えず検証し、発言し続けなければならない。

 むのさんは、そのことを身をもって示しながら、戦後71年の日々を生きた。

 戦争中、朝日新聞の記者だったむのさんは、戦地などを取材した。だが、真実を伝えることができなかった。その自責の念から、敗戦の日に新聞社を去った。30歳だった。

 故郷の秋田県に戻り、48年に週刊新聞「たいまつ」を創刊。地方を拠点に反戦、平和、民主主義を守る執筆と運動を続け、農業、教育などを論じた。

 いまや戦後生まれが人口の8割以上を占める。そこに向けてむのさんは、戦時下の空気と、戦場の現実を伝えた。

 公の場での最後の発言となった今年5月の憲法集会。車椅子に座ったむのさんは、強い風に白髪をなびかせながら、張りのある声で、「若い方々に申し上げたい」と語り始めた。

 「戦場では従軍記者も兵士と同じ心境になる。それは、死にたくなければ相手を殺せ。正気を保てるのは、せいぜい3日。それからは道徳観が崩れ、女性に乱暴をしたり、物を盗んだり、証拠を消すために火をつけたりする。こういう戦争で社会の正義が実現できるでしょうか。人間の幸福が実現できるでしょうか。できるわけありません。だからこそ、戦争は決して許されない。それを私たち古い世代は許してしまった」

 体験に基づく証言の迫力と悔悟の言葉に、数万の参加者が聴き入った。

 この時、むのさんは「新聞の仕事に携わり、真実を国民に伝えて道を正すべき人間が、何もできなかった」とも語った。

 治安維持法で言論の自由が封殺された。そういう時代に報道機関はどうなるか。

 むのさんはかつて、戦時中の朝日新聞社の空気をこう振り返っている。検閲官が社に来た記憶はない。軍部におもねる記者は1割に満たなかった。残る9割は自己規制で筆を曲げた。

 戦火を交えるのは、戦争の最後の段階である。報道が真実を伝えることをためらい、民衆がものを言いにくくなった時、戦争は静かに始まる。

 だから、権力の過ちを見逃さない目と、抑圧される者の声を聞き逃さない耳を持ち、時代の空気に抗して声を上げ続けねばならない。むのさんはそれに、生涯をかけた。