むのたけじさんは、終戦の日の8月15日を特別な日と考えていなかった。「何かの記念日を定めても社会は変わらない。365日の生活の中で考え続けないといけない」。その日行われる黙禱(もくとう)にも反対で、「黙っていても何も変わらない。声を張り上げよう」と訴えた。

 朝日新聞記者時代は中国やインドネシアなどに従軍。普通の人々が、相手を殺さないと殺される現場を取材し続けた。その戦争を「臣民」の名で「やらされた」人ばかりで、「やった」人がいないことが戦争責任をあいまいにし、今も近隣諸国と緊張関係が続く原因だと指摘した。

 終戦直前、3歳の長女が疫痢で死去。戦時下のため薬の入手が困難で、病状が悪化した日、出征する医師の壮行会で地域の医師全員が留守だったことなどが重なって助けられなかったことが、反戦活動を続ける原動力になった。

 徹底して憲法改正反対を訴える一方、「憲法を変えようとする人と、変えまいとする人がいるのが普通で、それが正常なんだ」とも言い、改正派の意見にも耳を傾けた。

 ジャーナリストであることの根底には、幼い頃に見た懸命に働いても貧しかった実家と、何もせずに豊かに暮らす旦那衆の姿があった。「不当に貧しい者がなぜ存在するのか。不当に富んでいる者がなぜ威張り続けるのか。これを変えない限り人間全体が大きく呼吸をすることは望めない」。常に弱者の立場に立った発言を続けた。(木瀬公二)