戦果に一喜一憂、戦時下児童の日記 京都で展示へ
太平洋戦争中から戦後にかけての日常をつづった日記を、当時小学生だった京都市上京区の医師津田治巳さん(81)が残していた。戦時下の学校生活や度重なる空襲警報、疎開の様子などを伝える他、戦果に一喜一憂して戦争の勝利を信じる子どもの素直な思いなどが記述されている。
津田さんは当時、中京区六角通西洞院付近に住み、明倫国民学校に通っていた。
日記は父親の勧めで始め、1941年8月から47年9月まで11冊に上る。大本営発表を記録するようにも言われていたといい、発表にあった戦果などを詳細に記している。
終戦の年である45年1月1日は「今日はたのしいお正月だ。ぼくは今年十になった」で始まり、はねつきをして楽しんだことなどが書かれている。一方で「元日そうそうから、敵機は帝都へ侵入したことが新聞にのってゐた。憎い敵め」とあり、穏やかそうな日常に見えても戦争の影が色濃かったことが分かる。
戦争末期には米軍による日本本土への空襲は激しさを増した。日記には、頻繁に警戒警報や空襲警報が発令されていたことが言及されている。同3月14日は前日から未明にあった大阪大空襲に触れ、「朝起きてみるとそこらがうす黄色く、大へんくらひ」と京都にまで煙の影響が及んでいたことを書いている。
同4月4日から、父親の実家である彦根に縁故疎開していた。日記には同年代の子どもと遊んだり、魚釣りをしたことなどが書いてある。津田さんは「学校の授業も満足に行われなかったが、彦根の生活は結構楽しかった」と振り返る。
彦根も危険となり、8月には現綾部市での集団疎開に合流した。ここで終戦を迎える。
8月15日は「今日正午かしこくも天皇陛下の御報送(原文ママ)をきいた(中略)もうくやしくて、米英ソ支をやっつけてやらうと決心した」と素直な気持ちが記されている。
津田さんは「戦争が当たり前の環境で育った。爆撃の被害に遭ったわけでもないので切実な悲愴(ひそう)感はなかったが、いつもひもじい思いをしていた。戦争は絶対に起こしてはいけないと、あらためて感じた」と話す。
市学校歴史博物館の和崎光太郎学芸員は「当時に書かれたという点でも貴重な資料で、子どもたちがどの様な目で戦時中を見ていたのかが分かる」と指摘する。津田さんは日記を同博物館に寄贈しており、18日から常設展で展示される。
【 2016年08月13日 11時19分 】