テント日誌8月19日(金)
経産省前テントひろば1805日
世間はまでお盆休みの余韻が残っている(8月18日の事)
朝方まで降っていた雨が止んだのでほっとして出かけた。
今朝は嬉しいことがあった。
電車の中で中年の女性が降りる間際に声をかけてきた。
彼女がつけていた「アベ政治を許さない」のタグを示して頑張りましょうねと
言ってくれたのだ。
私のバックに同じものを見てのことだったようだ。
共通の思いを持つ人に瞬間だけどあえて良かった。
チラシを頂いて良いですかと来てくれた女性もアベ政治に腹を立てていた。
そして都知事選の結果にも…
投票に行かないで文句だけ言う人がいると嘆いていた。
結局政治に無関心な人が多すぎるのですね。
Oさんが来て今日は雷雨の予報だという。
その前触れかひどく蒸し暑かった。
一時過ぎ予報通りに雷鳴がして土砂降りとなる。
そんな中Mさんがお菓子と鳥のえさを持ってやって来た。
少し小降りになったときヨーカンさんも来てくれた。
雨は断続的に強く降り続いたので仕方なくテントの中で雑談して過ごす。
テントの行く末、新座のデモのこと、美浜原発のパブコメについてなどなど
3時過ぎてやっとまた小降りになったのでSさん・Hさん・M子さんを残してテント を去った。(I・K)
盛り上がる毎週金曜日の経産省前抗議行動
空気が澄んでいるせいか日差しが強く感じられ暑い。まさに残暑って感じだ。
そんな中テント前のプラタナスが剪定されてしまった。茂った葉が日陰を作ってくれて助かっていたのに残念。
事務所では支援してくれた人たちへ文書を送る作業をしていたが、私はテントでの応対などをしていた。
午後韓国のTV(KBS?)が国民大学の先生を連れて取材に来た。
Hさんと私が対応した。
原発に反対するため来ていること、電気は足りているのに安倍政権は原発推進しようとしている。
安倍は原発を輸出したいからではないか。
私たちは全原発を廃炉にすることを望んでいるなど話し、テントの状況などを説明した。
彼らは福島に行く前に寄ったそうだ。
Hさんが「原発を止めるアジアの人々」を示して古里原発を止めてすごいと言う と、廃炉にしたがまた新しい原発を作ろうとしていると聞いて驚いた。
5時からの経産省前抗議行動は希望の牧場の吉沢さんも参加して盛り上がっていた。インドのクマールさんとアメリカから来た女性がバッジを買い写真を撮って行った。
彼女の生徒が「原発を止めるアジアの人々」の英訳をしているところだがなかなか進まないと言っていた。
双葉町のKさんは台風で福島原発がどうなっているのかと心配していた。
海に放射能が流れ出してしまったら大変です。
本当に世界中から原発をなくさないといけないと思う。
しばらくぶりに来た方などテントがあって良かったと言ってくれる。
夜総がかり行動もあったが、私はあとをお願いしてテントを離れた。(I・K)
いつの間か台風がという季節になった…
季節感をなくして生活していると思うことがあった。いつごろのことだったろうか。テントができてから季節感がよみがえってきた。季節について人々が持ってきた心くばりや情感のようなものにこころが向いた。僕にとってはテントがもたらしてくれた恩恵の一つだが、芭蕉や俳句のことを読み直したりするようになった。下手なままの俳句はなかなかできないが、神保町の古本屋街に足を延ばしてはその類の本に自然に目がいくようになった。
台風といえば、かつては9月のものだと思っていた。野分といういい言葉があるようにそれはもっと風情のあるものだった。しかし、近年は夏の早い時期から出てきて、これはと思っていたのだが、今年はちょっと違った気もしたのだが。でも、まだ8月も下旬で台風が次から次とやってくるのは異変なのだろうか。台風のもたらす被害というか、その面ばかりが目について風情どころじゃあるまいというのが、最近なのだが。テントの天敵はなによりも強風であるから、この面でも台風はごめんこうむりたいものである。
オリンピックなどもあって賑やかというか、騒がしい巷の動きだった。そんな中でテントは1800日を経て次に向かっている。多くの人から賛辞や心配などいろいろのコメントをいただいた。うれしいもので、このテント日誌の読者のみなさんと共有できたらと思った。緊張ならざる緊張がいつも流れているテントではあるが、いつかテントはここに深く根をおろしてしまったように思う。
これは僕らの予想を超えたものである。テントは僕らの意志が生み出したものだが、それは僕らの意志を超えて存続しているのだ。テントが産みだし続けているものはあるわけだ。僕らの意思表示でできたテントだが、この意思表示としてテントは何かを産みだし自己発展している。テントに意志なんかと思うかもしれないが、そうではない。テントは共同(公的)なものとして脱原発を産みだすための個々の意志の集合だったのだが、それは共同(公的)なものなっている。存続することで見えない力が生まれ、そうした存在になっている。
1800日というのは単なる時間ではない何かが生まれ、育ってきているものなのだ。脱原発、原発はいらないという意志が、共同の意志としてあらわれ、原発を再稼働し、存続させることが<共同意志>であるという擬制的な存在(官僚や政府)に対峙するその現れとしてのテントはその姿を、共同の意志として不断に発展させてきているのだ。
テントは生き物だ。生物的な生き物ではないが、精神の生き物であり、形は見えないが生き生きと発展しているのだ。
経産省や国側が原発再稼働や原発保持を公的(共同的なこと)とすることに、あたかも公的な要求の実現であるように出てくることに、テントは異議申し立てをし、再稼働や原発保持に反対することが公的(共同的)なことだと主張しでてきたが、こちらの方が公的なことだというのが大きく成長してきた。確かに僕等は原発をめぐる主張はなぜこんな対立や、矛盾として現象しているのか。それを自問してきた。
(なぜ、脱原発という国民の声は実現しないのかということである。この声に反する原発再稼働や原発存続が政府や官僚によって進められるのはなぜかということだ。沖縄での基地移設に反対する地域住民の声が実現しないでこれに反する動きが政府や官僚で進めることがなぜに出てくるのか、ということ同じだ)。
これは日本における公的(共同的)な存在としてある官僚や国が公的なものではなく、擬制的なものに過ぎないのに、あたかも公的なもののようにあるからだ。脱原発や辺野古基地移転反対が国民の意志であるのに、反対のことを公的なこと、国民の意志のように出してくるのはなぜか。彼らが依拠する隠された公的な基盤が彼らにはあるからだ。憲法を例にすれば、表面的には彼らは日本国憲法(法)に裏づけられた存在であり、その意味で彼らは公僕であり、それに基盤づけられた存在である。
彼らはその表の法を建前としながら、それとは別の裏の法を持ち、それに依存し、行動する。沖縄の基地についてなら、憲法とは別の論理である安保法や行政協定でもって出てくる。原発だったら、日米原子力協定も含めた裏の法が働く。
これを支えているのは国民主権として法ではなく、これとは別の国家主権としての法だという思想がある。この裏の法を持ち、法は統治の手段であるという思想があるのだが、これは憲法という存在に反する非民主的なものだ。日本の権力(政府や官僚)は表向き憲法によって存在しながら、裏の法や論理で政治的な行為をなし得る矛盾的な存在である。国民の声を無視して、国民の名において原発再稼働や基地の保持ができるのは、彼らが矛盾的で特殊な権力構造にあるからだ。
これとどう闘い、道を開いて行くのだという自問をし、解決の道をみいだすことは困難であると思える。ときには絶望的な思いにさせられる。だが、問題の所在が分かれば、解決の道は見えてくる。問題の所在を発見できることが、その端緒であり、希望なのだ。この矛盾的な権力のありよう、あるいは公的なもののありようは弱点でもあり、弱さでもある。日本の政府や官僚が民主的な存在ではなく、その上に公的な世界を作り得ていないことは、日本の政府や官僚の強権的・専制的な存在と強さのようにでてくるが、それは弱さでもある。問題の所在さえ見えれば、その弱さを発見し、闘う道は見いだせる。
それは自由や民主主義を実現できる道を見出し、その道を開いて行く、出発なのだ。自由や民主主義とは人々の意志が公的なものになっていくことであり、脱原発や反原発の意志が、沖縄での地域住民の声が公的なものになっていくようなことだが、それは自他が啓発されなければいけないという類のことではない。啓蒙さるべき対象ではない。その段階ではもはやないというべきだ。
その実現が阻まれている構造(問題の所在)が見出され、そこからその実現の道が見出されなければならないことだ。沖縄の運動で自己決定という言葉が、生まれたように、国民の意志が出発であり、国民が主権であるという自由で民主主義の声が擬制的な日本政治権力(政府や官僚)と対峙し、公的(共同的)なものに育っことだ。憲法(民主的)なものが個々的な国民の実存からうまれ、公的なもの成長することで現在の憲法に精神(憲法精神)が吹き込み、魂をもたらすことだ。
僕らの前にある公的存在(官僚や政府)は名目的にはそうした存在(憲法によってできている存在―公僕)である。しかし、この公的な存在は擬制的なものである。それは憲法が擬制的あるからではない。憲法とは別の法体系を持ち、それで実際はうごいている存在だからだ。憲法を表の法体系とすれば、裏の法体系があるからだ。これは、日本の憲法(国家の構成原理)が、官僚や政府を従わせる実体を欠いているからである。国民の声や力が憲法を裏づけていないからだ。
国民主権は憲法の条文や個々の国民の意識の中にあるが、公的な存在であるといわれる官僚や政府にはない。国民の意識としてある自由や民主制(現存感覚)を公的な存在に高める運動もまだほう芽的だ。しかし、日本の権力とその歴史を背負った存在と本格的に闘える運動が出てきている。僕は日本で国家権力と闘うとはどういうことが長年にわたって探索してきた。その問題の所在を発見し、高める契機をテントは与えてくれた。
テント前に座りながら、僕らは問題の所在は見えてきたことを確信している。だから、この長い射程を持った闘いの先も見通せる。これが持久戦と語ってきた僕らの中身だ。原発再稼働や原発保存を具体的に阻止して行く過程のなかで、非民主的で国民的基盤を持たない現在の公的世界を変えていく、真の公的なものを実現していく。それが内包された闘いだ。そうである限りどんなに小さくみえようとその闘いは続くし、やがては広がりを持つ。そう確信してよいのだ。
長い射程を持った持久の闘いは権力(公的世界)を不断に変えていく過程でもある。自由や民主主義は、それによる公的世界の変革は、長い射程をもった闘いの中で実現して行くものだ。永続的な展開として実現していくものだ。そんな一つの表現であるテントは形態をかえたにしても続いていくだろうし、1800日を記憶として保存しつつあり続ける。これを内包した存在として、一日一日を歩んでいくのである。昨日も、そして明日も(三上治)。
8/26(金)抗議行動 経産省抗議行動 17:00より18:00
「最高裁上告棄却決定糾弾!テント撤去は許さない!」
場所:経済産業省前 主催:「経産省前テントひろば」
8/26(金)抗議行動 再稼働反対!首相官邸前抗議 18:30より20:00主催:首都圏反原発連合
脱原発9・11怒りのフェスティバル 主催:経産省前テントひろば
【案内】脱原発9.11怒りのフェスティバル~設立5周年~
9月11日(日)15時~19時過ぎ、経産省前テントひろば
脱原発!再稼働反対を掲げた経産省前テントは設立から1790日を超えた。しかし、今だ10万人の人々が避難生活を余儀なくされ、小児甲状腺がんは170人を超えた。汚染水はダダ漏れ、フクイチ事故の原因究明もされていない。
被害はかくも深甚深刻多数にも関わらず、司法は東電経営陣を始めとする加害者の特定と責任追及をしようとしない。政府は自らの責任をほおかぶりし、被害(避難)者の住宅補助打ち切り、帰還強要で事故を無きものとし、原発の輸出と再稼働を強行している。
7月28日最高裁小法廷は、上告に対する棄却決定を行ったが、私たちは、いささかもたじろがず、粛々とテントを守り、脱原発の旗を高く掲げて闘い続けることを既に表明している。
大義は我々にある。脱原発の国内外世論に支えられた我々は圧倒的な多数派だ。
そこで私たちは、テント設立5周年の9月11日、経産省を包囲する、脱原発怒りのフェスティバル行うことにした。場所は経産省を包囲する一帯だ。
歌あり、踊りあり、演奏あり、スピーチありの楽しいお祭りです。経産省包囲ヒューマンチェーンも行う。是非お集まりください。
脱原発9.11怒りのフェスティバル~設立5周年~
2016年9月11日(日)
主催:経産省前テントひろば
会場:経済産業省周囲一帯
経産省本館正門前周辺
経産省別館資源エネルギー庁前周辺
15:00 歌・音楽演奏
17:00 かんしょ踊り
17:30 スピーチ(各界より)
経産省周囲一帯
18:45 経産省包囲ヒューマンェーン・1回目
18:55 経産省包囲ヒューマンェーン・2回目
19:00 主催者あいさつ(経産省前テントひろば)
14時から川柳句会もあります。
〈交通アクセス〉
東京メトロ 丸ノ内線・千代田線・日比谷線「霞ケ関」駅
A12、A11a(エレベーターあり)出口
銀座線「虎ノ門」駅7番出口
都営三田線「内幸町」駅日比谷寄りA7出口
(カンパ宛先)
口座名義: 「経産省前テントひろば」
郵便振替 振替口座:00160-3-267170
郵便局備え付けの用紙を利用する場合は、通信欄に「闘争強化資金カンパ」とご記入下さい。
銀行振込 ゆうちょ銀行 店名:00八 普通預金口座:5289163
(経産省前テントひろば 〒100-0013 東京都千代田区霞が関1-3-1 電話:070-6473-1947 )