FacebookやTwitter等のサービス=プログラムで書かれた機械は性的現象の一部!?~ドゥルーズ&ガタリの哲学~
携帯電話やスカイプ、LINE等のソーシャルメディアの誕生は、人間という欲望する諸機械、諸々の器官機械から派生した、性的現象の一部である。
それはドゥルーズ&ガタリが述べている、
「あらゆる性的現象が経済的事柄であること」。(
アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)
p32)
という主張から私が導いた結論でもある。
実際に皆様もそう思わないだろうか?
LINEやFacebook、facetime等で、人々との繋がりはより継続的になる。
事実として、「会えない時間が愛育てるのさ」という、郷ひろみ的世界は希薄になり、「会えない」「話が出来ない」という“断絶”が、極力無くなった。
それを実現したのは、ドゥルーズ&ガタリが述べた“機械”にほかならない。
〈それ〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。〈それ〉は呼吸し、過熱し、食べる。〈それ〉は排便し、愛撫する。〈それ〉と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。連結や接続をともなう様々な機械の機械がある。〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。
こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。 (
アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 上
p15)
アンチ・オイディプスの冒頭は、このように始まる。
〈それ〉の上に、「エス」というルビが振られている。訳者の宇野邦一氏がつけたのか、原文にもあったのかは知らないが、もし「エス」であるならば、フロイトを批判していることになる。「何という誤謬だろう」と言っているように。
すなわち、人間を衝き動かしてるのはエスではなく、機械なんだと。
そして、機械は隠喩ではないという。肛門機械や器官機械があると。いかなる主体性も、いかなる意思も、組織化作用もない、機械がある。私は自分の意思で焼肉を「食べたい」と思って、焼肉屋で出てきたカルビを食べたわけじゃない。
「意思」等という、観念的全体性を備えたものは存在しない。
全て局所的で、部分的な、機械と機械の接続と切断によって、私は「カルビという部位の肉を焼いて食べる」という、一連の行動を実行していることになる。
なぜカルビに手が伸びたか?それは、欲望する機械、すなわち満腹中枢機械が、大脳機械に接続し、その大脳機械が、食べる機械、すなわち諸々の「器官機械」に、神経回路を通じて接続を図った。つまり、口、大脳、手、諸々の器官機械による接続と分断の作用によって、カルビを食べた。
自分の意志で食べたわけじゃない。意思ある主体が食べたわけじゃないということ。
欲望が何かを生産するとすれば、それは現実を生産するのだ。
欲望が生産者であるとすれば、欲望はただ現実において生産者であり、現実の生産者なのだ。欲望は、こうしたもろもろの受動的綜合の総体であり、これが部分対象を、またもろもろの流れと身体を、機械として組織し、みずからの生産の単位として作動する。現実的なものは欲望から生ずるのであって、それは無意識の自己生産にほかならない欲望の受動的総合の結果である。欲望には何も欠けていないし、対象も欠けていない。
欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ。
ただ抑圧によって、固定した主体が存在するだけだ。欲望とその対象とは一体をなし、それは機械の機械として、機械をなしている。欲望とは機械であり、欲望の対象もやはりこれに接続されたもうひとつの機械である。したがって、生産物は生産する働きから採取される。そして生産する働きから生産物に移行するプロセスで、何かが離脱し、これは遊牧し放浪する主体に残余を与える。欲望の客体的存在は〈現実〉そのものなのである。
(
アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 上 河出文庫p58)
受動的総合、これは元はフッサールの概念だと思われる。
現在の自分の行動は、過去与えられた全ての知覚、機械から与えられたあらゆる刺激の蓄積によって、形成されているということ。
過去は持続し続ける、そして無意識的に自らの行動は生産されてるんだと。
ベルクソンの純粋持続という概念に似ている気がする。
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こんな風に、ドゥルーズの哲学を通して社会の物事を捉えると楽しくないですか?
しかし、就職しなければいけないという現実は立ちはだかっています。
何とかして、哲学だけを真摯に続ける方法があれば、続けたい。
そのためにはやはり、経済的余裕を生まなければなりません。
つまりお金。お金の呪縛から解き放たれるために。
お金を稼いで晴耕雨読の日々を手に入れるために。
哲学しなければならない、社会に出てからは、就職してからは、組織の利益のための哲学を求められる、自分が本当に探求したいドゥルーズの世界ではなく。
ただ、何としてでも戻りたいです。
このモラトリアム後進国の日本において、経済的自由と哲学の日々を手に入れるために。
当分は泥水は啜るものの。
何らかの形で手に入れる。方法は、時間的束縛が弱い個人で出来るネットビジネス。
サラリーマンでは実現できない、哲学的思索の日々を手に入れるために。
受験勉強の準備で、誰もが最も頭を悩ませるのが英単語の暗記ですよね。
私も高校2年生まで、教科書に掲載されている程度の英単語しか暗記していませんでした。
それではまったく入学試験に歯が立たないですね。
英語の文章を読むのに、いちいち辞書を引きながらだと、すごく大変ですし、そもそも入学試験の時は辞書持ち込み可能ではないですよ。
当時は6000語覚えれば、大学受験には十分だと言われていたので、その程度の量は覚えたいと思っていました。
しかし、国立大学を目差していたので、理解系なのに専門外の日本史・世界史・古文・漢文まで多数の受験科目を勉強しなければならず、圧倒的に勉強時間が足りずに、英単語の暗記に振り分ける時間がほとんどありませんでした。
そこで英単語を集中的に覚える何かいい方法はないかと考えました。正確に言うと、何か方法を考えなければならなかったわけです。
そこで苦肉の策として、ある画期的な覚え方を偶然見つけました。本当に偶然でした。
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