と、満面の笑みで言わないと今のアニメ業界では村八分に遭うようです。
さっきの投稿「勝者とは」を書いたのがきっかけで、ずっとモヤモヤ考えあぐねていたことが上手くまとまりそうなので、忘れないうちに書いておく。
下手をすればただの世代論になりそうなのだが、それでも。
あと、長いです。
オタクが「アニメ最高!」「オタク最高!」「今が最高!」とやたら連呼し始めたのはここ10数年くらいの話だと思う。
その流れに僕はどうしても違和感を感じてしまう。
オタクって、そんなに最高だっけ?
これはオタクに限らずだが、誰にだって不平もあれば不満もある。
恨みもあれば嫉妬もある。
オタクやっててしんどい時もあるだろう。損な時もあるだろう。
世間に物申したくもなるだろう。
でも、今時のオタクは誰もそれをちっとも口に出さない。
Twitterを探してもどこにもそんな言葉が見つからない。
何故だろう?村八分に遭うから? 宗教だから?
そしてそれを平気で口に出すヤマカンなんぞが「そんなことを言うなんて!!!!」とえらく叩かれる(笑)。
不思議だ。
そんなに「今が最高!」か?
不安すらないのか??
さすがにそりゃないだろう?
昔話をしよう。
19年前、大学生だった僕らは『怨念戦隊ルサンチマン』という自主特撮映画を世に出した。
半分はシャレだったが、でも半分には「オタクの怨念」が、本当に込められていた。
脚本を書いてくれたY氏は、当時取り憑かれたように「オタクの怨念」に燃えていた。
「俺たちオタクだって、いつかパンピー(一般人・リア充)を見返してやるんだ!」
そしてそれを、そのままストーリーにしてしまった。
「市井のオタクたちを一般人にさせないために5人のオタク戦士が立ち向かい、ただ隣の部屋で彼女とヤッてただけのチャラい大学生までついでに殺してしまう」
まぁ、自虐ネタである。
結果、オタクにもパンピーにも、びっくりするほど受けた。
「オタクの怨念」を、自虐的に(かつ批判的に)ぶつけたら、理解されたのだ。
共感されたと言ってもいい。
僕らはかつて、オタクの「醜さ」を自覚しながら、それを盾にし、逆手にとって、「恨み」を晴らした。
でも「オタク最高!」とはゆめゆめ思わなかったはずだ。
オタクであることは大きなコンプレックスだからだ。
パンピーだらけの飲み会の席に紛れ込んで、「こいつアニメ好きなんだぜ」と紹介された時の、リアクションの取れなさ。
言った当人に悪気はないのだろうが、辛かった。
アニメに市民権などなかったのだ。
どこで変わったのだろう?
「宮崎勤事件」以降、オタクという呼び名が一種の蔑称となり、それにコンプレックスとある種の「恨み」を内包して生き続けてきた僕ら(の世代の)オタクにとって、今の余りにポジティブ(であらねばならない)な空気が、不思議でしょうがない。
それこそオタクは積年の「恨み」を晴らし、この世界に勝利していたのか?
オタクは今や勝ち組なのか?
ここで仮説を立てよう。オタクが「勝った」ということを証明するには、この名前しか浮かばない。
宮崎駿御大だ。
1997年(ちなみに『ルサンチマン』と同じ年だ)、『もののけ姫』がついに歴代邦画興行収入トップに躍り出た。
でもそれだけではアニメのイメージは変わらない。
僕は就職活動中で、某公共放送の面接で「アニメはやっと市民権を得たと思います!」とドヤ顔で言ったら、面接官の苦笑いが見えた。
日本人は本来自国の娯楽を軽視する民族だ。浮世絵しかり、映画しかり。
しかし海外の評価に弱い。というか逆に手のひら返しが物凄い。
2001年、『千と千尋の神隠し』が公開された。
『もののけ姫』を大差で更新して歴代興行収入トップ、それだけではない、ベルリン映画祭と米アカデミー賞、泣く子も黙る海外の勲章を二つももらってしまった。
これで世間のアニメに対する見方が180度とは言わないが、140度くらいは変わった。
当時もう業界で働いていた僕個人としては実感がないのだが、状況証拠を並べると、これしかない。
おまけにその前後で、ピクサーが頭を下げ、ディズニーが揉み手すりでジブリに接近してきた。
ダメ押しだ。日本のアニメが「勝った」、そう思わせるのには十分だろう。
そこからだ、「日本を代表する文化」だの、「クールジャパン」だの、そして長い不況の中それでも消費してくれる「オタク」という存在が、経済論的にも世評的にも、急速に地位が上昇していった。
今や飲み会の席で「こいつアニメ好きなんだぜ」と紹介されても、「え?私ジブリ好き!」とリアクションされ、何とか話が繋がる時代となったのだ。
僕らの世代では想像できなかった、自意識過剰なオタクの承認欲求を存分に満たしてくれる、パラダイスのような時代の到来だ。
しかしやがて宮崎駿は引退し、ジブリは事実上の解体となった。
そうなると業界としても、オタクとしても、一度味わった勝利の美酒は失いたくない。
「アニメ最高!」「今が最高!」の空気は、「宮崎駿後」の状況の中強迫観念的に醸成されていったと言っていいだろう。
アニメは今も最高なんだ、『千と千尋』以前にはもう戻りたくない!
もうオタクオタクと虐げられたくない!
しかし僕には、そんな気負いが業界やオタクのいたる所に無理やひずみを生じさせているような気がしてならない。
アニメもオタクも、今や「砂上の楼閣」となっているのではないだろうか。
自分を守るために「勝ち負け(売上)」にやたらこだわり、本当に画面を観てアニメを楽しんでいるのだろうか?
そんな「宮崎駿後」をめぐる大きな空気の流れが、『シン・ゴジラ』の周りにもまとわりついているのだろうと思ってしまうのだが、いかがだろうか?
『シン・ゴジラ』だけではない。何かとアニメを喧伝し持ち上げようとする際に、「ポスト宮崎駿」という言葉が飛び交うようになった。
(そう言えば最近鳴り物入りで宣伝しているアニメ映画は決してコケなくなったような)
やはり今は、そして今後しばらくはずっと「宮崎駿・後」の時代なのだ。
アニメは「宮崎駿」という呪縛から未だ逃れられずにいる。
いや、まだその呪縛は始まってすらいないのかも知れない。
(追伸:『オタク最高!』と『日本最高!』は、あらゆる意味で通底していると思う。ちょっとでも批判っぽいことを書くと袋叩きにするところまで)