広島と長崎の原爆忌。そして終戦の日。お盆も重なり、8月は、いまはこの世にいない人への思いが深まる。

 敗戦から71年の夏。

 放送で、活字で、体験を踏まえて、反戦と平和を語り続けた人たちの訃報(ふほう)が続く。亡き人たちの声に耳をすませてみる。

 ■ラジオに託した思い

 この夏もラジオから、評論家、秋山ちえ子さんが読む「かわいそうなぞう」が流れた。戦争中、動物園のゾウが殺された実話をもとにした童話だ。秋山さんは40年以上、終戦の日に合わせて、朗読を続けてきた。ご本人は4月に99歳で世を去ったが、思いは引き継がれた。

 秋山さんがラジオに関わり始めたのは戦前。結婚して中国に渡り、戦後、再びマイクの前に戻った。連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局の指導の下、女性を啓発するNHKの番組で、暮らしの話題や時事問題などを伝えた。その後は1957年から2005年まで、TBSラジオで番組を持った。

 もし戦争中日本にいたら「お国のために戦ってくださいというような放送をしていたのではないか」と語っていた。番組の事前録音を好まないのは「生放送にしておかないと、戦争が始まりそうな時に『反対しましょう』と言えないから」だった。

 放送が国策の宣伝に使われた時代、そしてGHQの検閲を肌で知る人の冷徹な見方である。

 少年の目で戦争を見つめた昭和ひとけた世代も、次々と鬼籍に入った。

 「焼け跡闇市派」を自称した作家の野坂昭如さんは、昨年12月に85歳で亡くなった。

 14歳で神戸大空襲を体験。栄養失調で妹を失った体験を踏まえた小説「火垂(ほた)るの墓」は、過酷な体験を世代を超えて伝えている。「戦争でひどい目に遭うのは年寄りや子供など力の弱い者」と、03年に病に倒れた後も反戦を訴え続けた。亡くなる直前も、ラジオ番組に寄せた手紙で警鐘を鳴らした。

 〈(日本は)たった1日で平和国家に生まれ変わったのだから、同じく、たった1日で、その平和とやらを守るという名目で、軍事国家、つまり、戦争をする事にだってなりかねない〉

 この手紙を受け取った永六輔さんも先月、83歳で逝った。

 作詞、文筆など多彩に活躍したが、旅に暮らし、各地の人々の営みをラジオにのせるのをライフワークにした。

 様々な「弱者の応援団」を買って出て、権力にユーモアで対抗した。例えば尺貫法の復権。計量法で尺寸単位の物差しが違法とされ、伝統を継ぐ職人たちが困っていた。それをラジオや舞台で面白おかしく訴え、ついに国に併用を認めさせた。

 ■「個」を貫く

 「11PM」などのテレビ番組を作った大橋巨泉さんも先月、82歳で亡くなった。

 11歳で敗戦。教え込まれた「国のために命を捨てるのは当然」という価値観が反転した。

 戦争が始まると、国民は一方向の生き方を強いられ、自由や遊びは封じられる。巨泉さんはその対極を生きた。テレビにゴルフ、競馬、マージャンなどの遊びを持ち込んだ。50代で半分隠居して、趣味に生きた。

 01年、民主党の参院議員になったが、党が賛成した自衛隊の海外派遣に、政府の説明が不十分だと反対した。「戦争を経験した人間として譲れない一線はある」と主張を曲げず、議員は半年で辞めた。

 今の安倍政権はテレビに神経をとがらせる。政府と違う見方を伝えたニュースを首相が「偏っている」と非難し、政権はことさら「政治的公正」を言い立てる。先月の参院選では報道時間が大幅に減った。自民党の部会は、学校で中立を逸脱している事例を募った。その例に当初は「子供たちを戦場に送るなと主張する先生」を挙げていた。

 憲法で言論・表現の自由が保障されているのに、ものを言いにくい空気がよどむ。同調圧力が高まり、忖度(そんたく)が人々の口を重くする。疑問を抑えて集団に合わせることを拒み、「個」を貫いた巨泉さんの姿勢が、いまの世に問いかけるものは大きい。

 ■聞く耳を磨く

 どうしたら亡き人の声が聞こえるだろうか。2月に81歳で旅立った能楽師ワキ方の名手、宝生閑(かん)さんの言葉を思い出す。

 能には亡霊が主人公(シテ)の作品が多い。ワキ方が演じる旅の僧は、死者が現世に残した思いの聞き役となる。

 閑さんはこう話していた。

 「僧には好奇心と向学心がある。だから、シテは自らを語るんです。歴史や文学の素養がなくては、彼らの声を聞くことはできない。亡霊だってせっかく現れたのに、『伊勢物語、それなんですか?』なんて言われたら困るでしょう。理解できる相手を選んで現れるはずですよ」

 受け手に意欲と知恵があってこそ、亡き人の声は届く。それを聞き取る耳を磨きたい。過去に学び、明日を考えるために。