すべての人にやさしさを持つのはよいことです。けれども弱者やマイノリティだから無条件にやさしくしてあげなければならない、なんてことはありません。ハンディがあろうがなかろうが自分の境界を侵害する相手から身を守るのは当然ですし、気の合わない人に無理してつきあういわれはありません。ハンディを持つ恋人のDVに耐えたり、気の合わない弱者につきあったからといって偉いわけでもないのです。
「彼のことは好きじゃないけれど、眼鏡をかけているからはっきりふるのはかわいそう」なんて思いませんよね。「あなたみたいなハゲを愛すなんて奥様は立派な人ね」と夫に言う人がいたら、わたしは夫を侮辱したその人に怒りを覚えます。*1
とはいえ弱者*2やマイノリティには配慮が必要。しかし「弱者やマイノリティにやさしくしなければならない」を金科玉条にすることには大いに疑問があります。この考え方は多くの無用な勘違いや見当違いの深刻な問題を引き起こしているからです。
配慮はやさしさとは限らない
礼儀正しいのはいいことです。電車の中で人を肩で押しのけたり、音漏れするイヤフォンをむしり取ったりするのは殺伐とした車内に暴力を生むことさえあります。混雑した電車で奥に詰める。降りる人のために場所を開ける。これは車内マナーとしてよい習慣です。では「車内マナーを守る」とは、誰かに「やさしくしてあげる」行為でしょうか。こうした車内マナーはお互いが車内で快適にすごすためのよい配慮ですが、ふつうは奥に詰めたからといって「今日は特別いいことをした!」とは思わないでしょう。
目の悪い親戚に金を無心する人は大きな文字で手紙を書くでしょう。振り込み詐欺にいそしむ人は耳の悪い相手に大きな声で話すでしょう。これは相手に対するやさしい思いやりではなく、自分の目的を確実に実現させるための工夫です。
わたしたちは日ごろから状況にあわせて自分の意思を伝え、相手の意思をくみ取り、互いの目的を達成するために創意工夫をこらしています。にぎやかな場所での会話に大きな声を出す。遠くにいる知り合いに大きく手を振って知らせることもそうです。
ところがはなぜか一部の人たちは弱者や少数派、ハンディを持つ人とやりとりする場合、自分だけが相手に特別な配慮をしていると思い込むことがあります。それどころかそうした人が自分とやりとりをする機会をえたのは自分が相手を拒絶しなかったおかげと考え、そのこと自体特別な親切だと勘違いすることさえあります。これはとてもおかしなことです。
自分の配慮を過分の親切だと思い込むとき
海外留学を望む人が渡航予定の言語を学ぶことを善良さと結び付けて考える人はいません。しかし手話や点字を学ぶことを人間性と関連付け、褒めたり腐したりする人は大勢います。外国で商売したい人、言葉の通じない相手に恋をして新たな言語を学ぶ人は、これを過分の親切だと思うでしょうか。「そこまでしてくれるなんて」と感謝されるとは限らず、拒絶されても「言語まで学んでやったのに、感謝もしない」と怒るいわれはありません。
意見の違いは誰にでもありますが、自分より経済的に豊かでない人、また教育の機会をそれほど持っていなかった人と意見が食い違った場合「この人は貧しいから頭が悪いのだ」「十分な教育をえた人なら自分に同意するはずだ」と思い込み、個性の違いや相手の意見の妥当性について考えるのをやめる人もいます。性別、人種、国籍、宗教の違いから同様の思考停止に陥る人もいます。その人はレッテル貼りを理解だと思い、異論や反論を相手の知性のなさ、または感情的な問題だと考えます。
こういう勘違いをする人は、自分で定めた根拠に基づいて相手の人権をどこまで認めていいかを審議しようとさえします。つまり教育を受ける権利、仕事を選ぶ権利、居住地を選ぶ権利、医療を受ける権利、生存する権利、子供を望み、家族を望む権利、伴侶を得る権利、そしてこれらに関する法的な保護を受ける権利などについてです。
そのような人は自分が弱者やマイノリティについて真剣に心を砕く善良な人間だと考えるかもしれません。しかし実際には人の人権を値積もりする資格が自分にあると思い込んでいるのです。これは斜め上の勘違いであり、明らかで恐ろしい差別です。
「やさしくしてあげたのに」
なぜこのような勘違いをするのでしょう。これらの人は「やさしくしてあげなければならない」という言葉を「本来ならふつうの人にはする必要のない特別な配慮をしなければならない」という意味だと思い込んでいます。そして単に相手とやりとりするための創意工夫を特別な配慮だと考えます。そうした過分の配慮を社会的に強制されていると感じる人は、見返りとして特別な感謝や特別な尊敬を受けることを期待します。
このように考える人は、相手が自分の特別な贈り物を受けるに値する人格者であること、清廉潔白で、謙虚で、感動的に善良な存在であることを期待します。そしてその幻想が砕かれると裏切られた気持ちになり、相手に制裁がくだることを望みます。
同じ人が二人と存在しない以上、目の前の人は必ずあなたとどこか違うところを持っています。同じ社会で暮らす以上、暮らしやすいように譲り合うのは当然です。意思疎通のための創意工夫もごくあたりまえのことです。自分に示されたさまざまな配慮に感謝するのはよいことですが、自分と違う特徴をもつ人に配慮をしめしたからといって、相手から感謝されることや相手が申し訳なく思うことを期待するのは間違いです。
差別とは悪意ある攻撃のことではない
差別的な思想や行為の問題点を指摘されると、「悪意からではない」「善意の行動を神経質に考えすぎだ」と返す人がよくいます。しかしある行為や思想が差別的かどうかはそこに悪意があるかどうかではなく、個人や特定のグループを、自分と対等な尊厳を持つ人間とみなしているかどうかによって判断するべきです。
障害を持つ人は障害を持つふつうの人であって、障碍者という人種がいるわけではありません。生活レベル、教育レベルが違う人、性的志向や、感覚、思考の方向性の違い、人種や性別、宗教や国籍が違う人も、やはりあなたと違う点をもったふつうの人です。
ふつうの人は人が自分と対等に接したからといってことさら感激したり遠慮したりする理由はありません。もちろん別段尊敬される理由も、傲る理由もないのです。
人は自分と同じ属性をもったグループを肯定したがり、不快な特徴は違う属性を持ったグループのものだと決めつけたがります。そして自分にとって好ましくないグループの中に、自分にとって感じのいい人があらわれると、特別に自分のグループのメンバーに入れてあげてようとします。たとえば名誉男性、名誉白人とよばれるものがそうです。「○○はろくでもないけど、あなたは例外。だから自分の仲間と同じように扱ってあげる」。
あなたは女だけど、ゲイだけど、インディアンだけど、黒人だけど、日本国籍がないけど、底辺だけど、貧乏人だけど、アスペだけど、片親だけど、年寄りだけど、童貞だけど、非モテだけど、独身だけど、おっぱいが薄っぺらでちんちんが小さくて髪の毛はなくて白髪がたくさんで変な顔で四肢が不満足で女のくせに背が高すぎて男のくせに筋肉がなさすぎるけど、でも、自分の仲間と同じように扱ってあげる。みんなにもやさしくしてあげるようにいうからね。
はたしてこれが相手の尊厳を重んじた親切で「やさしい」行為であるかどうかはともかく、わたしだったらそんなとき心の中では敬愛する夫のこんな言葉を思い出すと思います。「『入れてあげる』じゃねえんだよ。てめえのカーストごっこに乗っかるつもりはないっていってんの」。