今の日本の食文化は「豊か」なのだろうかと時々思う件
日本では戒律で食べないものはあまりないかもしれないけれど、習慣的に食べないものは結構多いように思う。
「食い物に制限を掛ける宗教が日本でメジャーになるイメージが一切湧かない。」
「食に自由がない宗教って、日本じゃ絶対流行らない(多数派にはならない)よな。」
学生を中国に連れて行くと、「食べられない!」と言う人がたくさん出てくる。料理の味付けだけの問題ではなく、食材から食べられないというのだ。また、私の知人には、台湾観光の食事で豚の頭が丸ごと出てきたことにショックを受け「二度と台湾には行かない」と決心した人が二人いる。中華料理の食材の多くをゲテモノだという人は少なくないはずだ。それに、食用動物を生きたまま販売し、調理時に屠殺・解体する方法をグロテスクだと感じる人も多いだろう。
韓国に行くと、日本ではほぼ市場に出回らない食材が市場で普通に売られていたりする。日本では野草や雑草として扱われている草や木の葉、海産物などが韓国では日常の食材だったりする。香辛料やハーブも豊富だ。
日本以外ではあまり見ないような食材は確かにある。こんにゃくいも、わさび、山芋のようなものは、他の地域ではあまり見ないような気がする。納豆もそうかもしれない。それに、今では食材だと思われなくなってしまったものも昔はよく食べられていたようだ。年配の日本人だと、韓国の市場に行くと懐かしいと感じることがあるかもしれない。また、昔は地域性がもっとあって、他の地域では食材だと見なされていないものが地域によっては日常の食材だったりする。都会の人は雑草や食べられないものだと思っているものが田舎では子供のおやつや嗜好品代わりだったという話はいろいろある。魚介類などには今でもそういうローカルフードが残っている。だから、日本がもともと食材の種類が少ない社会だということはないのだろう。
しかし、現代の我々が日常でなじみがある食材は案外種類が多くないのではないか。食品産業や流通の都合やメディアの影響、仕事と生活スタイルの変化によって、我々の食生活はいろいろと標準化され、均質化しているような気がする。それが食材や味、料理方法に対する対応の狭さ、ある種の偏狭さを生んでいるのではないか。私たちは先祖がなじんでいた食材や味の多様さをいつの間にか忘れてしまい、知らず知らずのうちに、ある決まった傾向とパターンの食べ物だけを「食べ物だ」と認識するようになってしまっているのではないか。
我々は、しばしば、イスラム教徒など食にタブーを持つ人の食生活を窮屈に思ったり揶揄したりするけれども、我々も、自ら気づかないうちに自分たちの狭い枠の中に収まって、別の窮屈さの中で生活しているのかもしれない。自分たちが収まっている枠の狭さに気づかず、ほかの枠に従って生きている人々を「大変だねえ」とか「かわいそうだ」などと言い、自分たちの枠の外にいる人たちの食べ物を見て「気持ち悪い」とか「ひどい料理だ」とか言っているのだとすれば、ずいぶん滑稽ではなかろうか。
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