1.
本題に入る前に、現代の無視できないひとつの側面について語ります。
スウェーデンの大手家具店であるIKEAが日本に第一号店舗を構えたのが2006年。その後、郊外を中心に店舗数を増やしています。
IKEAにはスモーランドという名の託児施設があり、買い物をしている親に代わって子供の面倒を見てくれます。それだけでなく、社員専用の託児所があり年中無休で生後57日から小学生までの子供を預かっています。
資生堂は社内託児施設「カンガルーム汐留」を用意し、勤務中の社員の子供を預かっています(他の会社の社員も利用できるが、これには条件があり、この問題は後述します)。日本郵船も同様の施設を持っています。
ただし利用者は伸び悩みの傾向で、その原因のひとつが通勤ラッシュだそうです。
小さな子供をラッシュ時の電車に乗せるにはなみなみならぬ苦労があり、もちろんベビーカーを使うことは不可能です。このため混雑が比較的すくない路線沿線に引っ越す人もいるようですが、それでもすこしだけましになる程度だと言います。
首都圏の鉄道には女性専用車両が普及していますが、共働きで父親が託児所付きの企業に勤務している場合、子連れで女性専用車両に乗れず、子供を連れて行きたいが連れて行けないという声もあると聞きました。(女性専用車両は法で定められたものでなく、法の下の平等に反するという指摘があります。また、男女を問わず障害者や小学生までの子供は乗車できると各鉄道会社は名言していますが、付き添いである成人男性が乗車することでトラブルが発生したり、女性からいやがられるのではないかという心配があります)
また託児所を導入している企業ではおおむね午後9時で保育を終了している状況で、これには子供の健康面での配慮や、社員の時短を進める意図がありますが、現実には午後9時以降も続く残業が発生することは珍しくなく、利用のしにくさが指摘されています。
「カンガルーム汐留」の例で、他の会社の社員も利用できることを挙げました。
資生堂は、厚生労働省の外郭団体である「21世紀職業財団」から託児施設の設置や運営費用の助成金を設けていますが、助成金を受けるには「原則その事業所が雇用する労働者」という条件がつきます。
これによって「カンガルーム汐留」には「利用者の半分は社員で占めるようにする」とした規定があり、いくら定員に余裕があっても社員の利用が進まなければ他社の子弟を受け入れることができません。
とはいえ、社内託児所があればまだましです。
子供を預かる施設が利用できないことで、両親のうちどちらかが子供の面倒を見る選択を迫られ、結果として母親が仕事をあきらめなければならなくケースが大多数でしょう。
子育ては「子育ては母性本能に基づくもので、これは女性の本質で、美徳で、子育ての責任は女性が負うものとする」考えかたは、当ブログの「母親を社会が守らなくて誰が守るの?」で詳述しましたが、女性が専業主婦の道を選んでも、働く母親の道を選んでも、母親の “ 過剰 ” で “ 余計な ” 忍耐や責任や重圧を強めます。
「我が子の命と人生に一人で責任を果たさなければならない状況とは、かくも重いもの、重いこと」なのです。
さらに男性も、「稼ぐために職に従事し人生の大半の時間を妻子のために捧げなければならない」重荷を背負わなければなりません。
果たしてこれらを、女性の美徳、男性の美徳とするべきでしょうか。
すくなくない数の若い人々が、出産のみならず、結婚に消極的になっている理由は多岐に渡りますが、いまの日本では結婚や出産が自らの幸福につながらないことが大きな要因となっていると言って過言ではありません。
こうして社会が行き詰まり、個々人が幸福を感じられない状況があるとしたら、社会を変えていかなければならないはずです。
2.
親学なるものが高橋史朗氏によって提唱され、「親になることで、人生はより豊かになります。親と子がともにいきいきと育ち、心から喜びや幸せが味わえる」、「子供を自立させ、親としてはモンスターペアレンツになることを防止する」など主張はもっともらしい感じを受けますが、実態は、高橋史朗氏が主導し大阪維新の会大阪市会議員団が策定した家庭教育支援条例(案)に明確なように、
1. 発達障害は親の養育の失敗で発生する障害であるという定義
2. 伝統的子育てにより発達障害は予防できるという認識
という医学的にまったく否定された考えを前提とし、ありもしない日本の伝統をでっちあげる妄論を生み出す下地となっているものです。
家庭教育支援条例(案)は多くの人から嘲笑と叱責の声を浴びましたが、親学の基盤となる高橋史朗氏の主張は、ジェンダーフリーを否定しつつも男女共同参画社会や男女平等には賛成、男女の特性を生かした社会づくりを目指すとしています。
ちなみにジェンダーフリーとは、〈固定的な性役割の通念にとらわれず、人それぞれの個性に基づいて、自分の生き方を自己決定出来るようにしよう〉とするものです。ひな祭りや端午の節句などまで否定しようとする過激なジェンダーレスの主張は、ジェンダーフリーの本質ではありません。
この親学を展開する「親学推進協会」の顧問の職に櫻井よしこ氏がいます。櫻井よしこ氏はオーストラリア人と結婚した後に離婚、独身のまま女性の論客として社会的に高い地位にあり、もっともジェンダーフリーの恩恵を受けた一人と言えそうですが、ジェンダーフリーを否定する親学を支持する矛盾を抱えています。もしかしたら、自分は子を産み育てる女性とは一線を画す特権を持っていると錯覚しているのかもしれません。その特権とは、自分(櫻井よしこ氏)はジェンダーフリーを享受するけれど、他の女性たちはジェンダーフリーの恩恵を受けるべきでないというものです。
高橋史朗氏らの「親学推進協会」が目指すものは、彼らが言うように「家庭教育の重視」であり、このとき規範とされるものは、
「私たち日本人は、家に対して格別の思いを抱いておりますが、それは遠い祖先から子々孫々へ伝わる生命の連続性と、家庭間の絆を実感する生命の連帯性の意識と深く関わっているからです」(高橋氏の発言より)
から汲み取れます。
ここで注目したいのは「(日本人が格別な思いを抱く)家」という言葉で、伝統的な性別役割分業だけでなく、家父長制的な「家」を目指していることがわかります。
家父長制的な「家」──家長である男性に、女性は従うこと。これに性別役割分業が加味されれば、女性は「我が子の命と人生に一人で養育の責任を果たさなければならず」、男性は「一家の長として君臨し、稼ぐために職に従事し人生の大半の時間を妻子のために捧げなければならない」となり、これを日本の女性の美徳、男性の美徳としているのです。
高橋史朗氏は「男女共同参画社会」と「男女平等」を掲げていますが、家父長制的な「家」制度と性別役割分業は、果たしてこれらを実現する前提として正しいと言えるでしょうか。
しかし保守的・懐古的な思想や感覚を持っている人に限らず、「最近は子育てひとつ満足にできない親や、モンスターペアレンツが増えていてやりきれない」とする人は世の中に多くいて、「よい親がよい子供をつくる」とする親学の主張の上澄みに共感しているように見えます。
3.
乳児の頭蓋内出血を予防するためのビタミンK2の代わりに、助産師からレメディーと呼ばれる(ただの)砂糖玉を与えられ、乳児がビタミンK欠乏性出血症で死亡した事件は記憶に新しいのではないでしょうか。
またガンの患者に病院での治療を拒否させ、やはり(ただの)砂糖玉を与えて死亡させた事件もさかんに報道されました。
このように現代の医学を否定し、200年前の(無効であることが証明され淘汰された)医術に固執しているのがホメオパシーです。
上記したような事件のほか、ワクチン接種の拒否、アトピー性皮膚炎や喘息の治療拒否、さらにはてんかんの抗てんかん薬による治療の拒否の例まであり、これらの問題を取り上げてきた当ブログには、ホメオパシーを信奉する者の親族、ホメオパシーの誤りに気づきながらも信仰に等しい気持ちを整理できず苦悶する人、ホメオパシーを用いる自分の正当性を訴える人々からのメールが数多く寄せられています。
ホメオパシーに関わる問題で多いのは、成人自らが(ただの)砂糖玉で病気を治そうとするものより、我が子の病気の治療にホメオパシーを用い、子供の病気を悪化させ、その結果、例えようのない苦しみを子供に味あわせているものです。ホメオパシーを信奉する者は、どんなに病状が悪化してもこれを「好転反応」と呼び、病気がよくなる前に症状が悪くなるのは必然だと信じ込まされています。したがって、取り返しのつかない状態になることがすくなくありません。
なぜこのような “まじない” を信じて、医師の治療を拒否するのか、という疑問が生じて当然だと思います。
ホメオパシーが考案された時点ではまったく考慮されていなかった、妊娠前の母親の生活、妊娠中の生活、子育てのありかたが子供の病気の原因であるとする教えが我が国独特のホメオパシーとして定着していて、子供の病気に悩む母親が原罪を背負わされているのが医療拒否のひとつの理由と言えます。
つまり、自分の罪に母親はおののき、トラウマが形成され、自分で我が子を救わなくてはならないと考えさせられるのです。ここに「母性の復権がホメオパシーによって成し遂げられる」とされたならば、すがる母親が出てきてもまったく不思議ではありません。
このトラウマは、前述の「発達障害は親の養育の失敗で発生する障害である」という誤った言説で苦しみ抜く母親の例を思い起こせば、いかに残酷かつ過酷なもので、母親自身がどうにかしなければ自らも救われないと思い込むことの共通点が理解できると思います。
実際にホメオパシーを推進する団体は発達障害に照準を合わせ、(ただの)砂糖玉で発達障害が治ると喧伝しています。
私が接してきた数多くのホメオパシー信奉者である母親や、困りきっている親族から聞き取った信奉者像は、専業主婦で、生真面目な(ある意味、融通が利かない)人々でした。
「我が子の命と人生に一人で養育の責任を果たさなければならない」と、「家」の中で身動きが取れなくなっているのです。
ここでどうしても連想せずにいられないのは、親学が目指すものです。
封建的時代の「(日本人が格別な思いを抱く)家?」はパラダイスだったという発想は、歴史を振り返ればとうていあり得ないものだとわかるはずです。歴史を学ぶのが面倒ならば、フィクションですが大ヒットドラマ「おしん」を思い出せば、おしん一家のみならず随所に封建的時代の「家」制度と家父長制社会のまずさが描写されていたはずです。
そして封建的時代の家父長制は、高橋史朗氏や「親学推進協会」が言うように自虐史観やジェンダーフリーの流れで消え去ったのではなく、現在の平等家族・仲よし家族といった体裁は薄皮饅頭の皮のように家族を包んでいるだけで、饅頭の餡のごとき家族の中身はいまだに家父長制のまま「家」に脈々と残っていそうです。
これは個人の意識にのみに残っているものではありません。政治家も、行政も、企業も、このままでよいとしているように見え、法制度の多くも、企業の対応も、女性は妊娠したら仕事を辞め家で子供の世話をするように、男性(夫)が家を一人で支えるようにという前提に立っています。
この結果が、前述した男性も女性も幸福になり難い現代の世の中と言えます。
現代は、かつての中流家庭でさえ乳母やお手伝いさんが容易に雇えた時代ではなく、夫の収入だけで安泰とは言い難い状況にあります。また母親が農業や漁業、さらには炭坑労働などにも従事し、赤ちゃんのおむつを変えるのは一日の仕事が終わってからということもあり、これが彼女らのコミュニティーで特別問題視されなかった時代とも違います。
親学が提唱する封建的時代の家族観は、家族の「絆」を実現するものではなく、むしろ美徳とされる夫の役割、美徳とされる妻の役割、美徳される子供役割と、それぞれが演ずべきものに分断され、互いに孤立を深める可能性を多いにはらんでいます。
その証拠として、母親がホメオパシーを信奉するに至った家庭の特徴を挙げてみましょう。
父親:子育てに口を出しても、状況や現実を無視して、特定の原理•原則に固執する応用がきかない考えかたや態度に終止する。原則論を機械的に適用しようとする。
母親:何らかの情報やママ友との関係から、お母さんはこうあるべきという融通が利かない考えにとらわれている。「我が子の命と人生に一人で養育の責任を果たさなければならない」、「母親自身がどうにかしなければ自らも救われない」と思い込んでいる。母親であることがトラウマ化している。
子供:親(母親)に嫌われないよい子であろうとし、ホメオパシーによる治療(まじない)でアトピー、喘息、他の悪化がひどく苦しくても、病院に行きたいと言い出せない。ホメオパシーを拒否できない。
ここに挙げた「原理•原則」、「ホメオパシー」を「親学」に置き換え、病気以外の状況を想像してみてください。
そして最後に、親学推進協会が行っている「親守詩」(子どもが親を思ってつくる川柳)大会の入選作をご一読ください。
〈父と母 びゅんびゅん回す 愛のムチ〉
記事
- 2012年05月09日 10:31
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