昭和19年(1944年)6月、日本軍はマリアナ沖海戦で400機 に及ぶ航空機とその搭乗員を失った。これ以前から、兵力の減少と搭乗員の技量低下の中で大きな戦果をあげるには、体当たり攻撃をするほかはないという声が、軍部の中で上がり始めていた。そして、昭和19年10月 、陸海軍ともにフィリピンの戦いで、爆弾を抱えた航空機で空母などを標的に突入する「特攻」を始めた。
また、特攻専用の兵器も開発された。モーターボートに爆弾を積んだ「震洋」、人間魚雷「回天」、爆弾とロケットエンジンを組み合わせた「桜花」などである。
練度の低い搭乗員が戦果をあげるには、体当たり攻撃が有効だと考えられたが、予科練習生や学徒出陣の飛行予備学生、幹部候補生出身の若者たちが、十分な訓練を受けないまま出撃し、標的や目的地に到達する前にその多くが命を落とした。一方で、沖縄戦での米軍側の艦船上の戦死者は5000人近くにのぼる が、そのほとんどが日本軍の航空特攻によるもので、その多くも20歳前後の若者であった。
「特攻」は、生き残った搭乗員、支援に当たった兵士たち、あるいは特攻兵器の製造に携わった人々にまで、深い心の傷を残した。
昭和20年4月11日、沖縄海上で
戦艦ミズーリに突入する特攻機
1. 日本ニュースが伝えた「特攻」の始まり~レイテ沖海戦~
昭和19年10月に行われたレイテ沖海戦、その後のフィリピンの戦いで、米軍の機動部隊に対して行われた航空特攻が、日本軍が組織的に行った最初の「特攻」である。海軍は、零戦に爆弾を積んだ神風特別攻撃隊、陸軍は、爆撃機を使った富嶽隊、万朶隊が出撃した。
この時日本ニュース社は、フィリピン、レイテ沖海戦に多くのカメラマンを出し、特攻部隊の出撃を記録していた。
出撃直前の陸軍特攻隊将兵
2. 陸軍重爆撃機~攻撃ハ特攻トス~
航空特攻では、戦闘機ではなく複数の搭乗員が乗る重爆撃機を使った特攻も行われていた。8人乗りの重爆撃機「飛龍」。この重爆撃機を使った「特攻」は昭和19年11月に始まった。レーダーで探知されるのを避けるため海面すれすれを飛び、目標の手前で急上昇ののち急降下して艦船に突入する攻撃法で、小回りの利かない重爆撃機にとって戦果をあげるには困難な任務であった。翌年4月になると、機関砲などの武装をすべて取り外し、搭乗員を減らして、2.9トンもの爆弾を搭載した改良型の重爆撃機「さくら弾機」を使った特攻も行われるようになった。しかし、バランスが悪いため極端に操縦が難しく、沖縄に向けて出撃したが、戦果は確認されていない。
重爆撃機 飛龍
陸軍飛行第62戦隊 |
陸軍飛行第62戦隊 |
陸軍飛行第62戦隊 |
陸軍飛行第62戦隊 |
陸軍飛行第62戦隊 |
陸軍飛行第62戦隊 |
陸軍飛行第62戦隊 |
|
3. 人間魚雷 悲劇の作戦
1.5トンの爆薬を搭載し、敵の艦船に体当たりする一人乗りの特攻兵器。それが人間魚雷「回天」である。
戦局が悪化した昭和19年の秋から、「回天」による特攻が始まり、当初は連合軍の泊地に侵入する作戦が取られたが、警戒が厳しくなってからは航行中の艦船に母艦である潜水艦が近付いたうえで、発進する作戦が取られた。しかし、動いている艦船を標的にするのは難しく、戦果をあげることはほとんどなかった。回天で命を失った若者は104人にのぼる。生き残った搭乗員や母艦となった潜水艦乗組員の証言である。
人間魚雷 回天
回天特別攻撃隊 |
回天特別攻撃隊 |
回天特別攻撃隊 |
回天特別攻撃隊 |
回天特別攻撃隊 |
回天特別攻撃隊 |
回天特別攻撃隊 |
回天特別攻撃隊 |
回天特別攻撃隊 |
回天特別攻撃隊 |
回天特別攻撃隊 |
4. ベニヤボートの人間兵器 ~震洋特別攻撃隊~
船首に250キロの爆薬を搭載し、敵艦に体当たりするベニヤ製のモーターボートの特攻兵器。それが海軍の「震洋」である。太平洋戦争末期、航空機が不足する中、大量に採用した予科練習生出身の若者を集めて震洋の訓練そして作戦が始まった。
部隊は、フィリピンや、沖縄など南西諸島や鹿児島本土などの海岸部に配備され、近づいてくる米軍艦船を標的にした。しかし、米軍艦船の動きがつかめないなかで行われた作戦でほとんど戦果をあげられないまま、爆発事故や米軍の空襲で隊員の命は次々に失われた。「震洋」の訓練を受けた搭乗員はおよそ5000人、戦死者は、基地隊員も含めて2500人にのぼる。
特攻兵器 震洋
震洋特別攻撃隊 |
震洋特別攻撃隊 |
震洋特別攻撃隊 |
震洋特別攻撃隊 |
震洋特別攻撃隊 |
震洋特別攻撃隊 |
震洋特別攻撃隊 |
震洋特別攻撃隊 |
震洋特別攻撃隊 |
5. 人間爆弾「桜花」
機体前方に1.2トンの大型爆弾を搭載し、爆撃機から切り離されて滑空、操縦員もろとも目標に突入する特攻兵器、「桜花」。
小回りの利かない一式陸上攻撃機に搭載されて目標に接近するため、切り離される前に撃墜されることが多かった。昭和20年3月21日、鹿屋基地から初めて出撃した桜花の部隊15機は、すべて一式陸攻とともに米軍によって撃墜された。終戦までにあげた戦果は、米軍によると駆逐艦1隻撃沈、その他数隻に損傷を与えたのみ。一方失われた搭乗員は、一式陸攻も含めて430人にのぼった。
特攻兵器 桜花
第721海軍航空隊 |
第721海軍航空隊 |
第721海軍航空隊 |
第721海軍航空隊 |
第721海軍航空隊 |
第721海軍航空隊 |
第721海軍航空隊 |
第721海軍航空隊 |
第721海軍航空隊 |
第721海軍航空隊 |
6. 特攻専用機の製造 ~中島飛行機・太田工場~
日本最大の軍用機メーカーだった「中島飛行機」の工場では、太平洋戦争末期、特攻専用機の設計、製造がおこなわれていた。試作名称「キ115」、通称「剣(つるぎ)」。設計簡略化のため、離陸すると車輪が落ちてしまう飛行機で、再び戻ってくることを前提としない「特攻兵器」だった。
こうした特攻機の製造や設計に当たった人々の証言である。
中島飛行機 太田工場
中島飛行機 |
中島飛行機 |
中島飛行機 |
中島飛行機 |
中島飛行機 |