「理想の走り」のカン違い
僕は理想の走りとは足を効率よく動かすことだとずっと思ってきました。
それさえできれば、上半身は勝手についてくると。
ところが、アメリカでトレーニングをしているときに、両足が義足のパラリンピック選手たちが、とても大きく腕を振って走っているのを見て、ふと疑問が浮かんだのです。
もしかしたら上半身をもっと大きく使うことで、地面に力を加えるサポートができるのではないか。
実際に試してみると、最初は違和感があるのですが、なじむと体が前に進む感じがします。自分が正しいと信じていた走り方が、必ずしも正解ではなかったことに思い至りました。上半身とともに全身を使った走りこそが、究極の走り方であることを学んだとき、僕はもう引退を考える時期に差し掛かっていました。
ソクラテスが言いたかったこと
何かを極めるほど、人は対象について「わかったつもり」になりやすいものです。
古代ギリシアの哲学者、ソクラテスは、真の知に至る出発点は無知を自覚することにあると考え、「無知の知」という言葉を残しています。僕が引退直前に感じた「自分の知識は正解ではないかもしれない」という感覚こそ、無知の知でした。
ソクラテスは、知恵者と自認する人物たちとの対話を通して、自分に勝る賢者はいないことを悟りました。といっても、ソクラテスは、他の知恵者よりも知恵を持っていたわけではありません。
ソクラテスだけが、自分は何も知らないということを知っていて、無知であることを知っている点で、相手より優れていると考えたのです。中国の思想家、孔子は『論語』の中で、
「これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らずとなす。これ知るなり」
と述べています。
「きちんと知っていることを『知っている』とし、きちんと知らないことは『知らない』とすることが『知る』ということであり、中途半端に知っていることは、知らないのと同じである」
そういって、弟子たちに諭したのです。
「知らないことを知らないと自覚することが、本当の知るである」
「知への探求は、まず自分が無知であることを知ることからはじめる」
ソクラテスも、孔子も、そう考えていました。無知の知を自覚するからこそ、学びの姿勢を持ち続けることができるわけです。
「わかったつもり」が成長を止める
無知の知を知っている人は、「絶対に」や「間違いなく」といった断定の言葉を使うことはありません。今の自分が話していることは、主観的であり、暫定的であることがわかっているからです。
反対に、自分の考え方は正しいと思い込んでいる人は、疑うことも、たしかめることもしません。しっぽを見ただけで牛だと断定してしまうから、全体像を間違えて、認識していることが多いのです。
レスリングの吉田沙保里選手を育てた栄さかえ監督は、「無知の知」を持っている人でした。
栄監督は以前、「僕は結局、何が理想の指導かわかっていない」とおっしゃっていました。
栄監督も、吉田沙保里選手も、結果を出しているにもかかわらず、「自分が正しい」とは思っていないそうです。常に、わからないと自覚している。わからないから、探り、疑い、たしかめようとします。探り、疑い、たしかめるから変化し、変化をするから勝ち続けることができるのです。
僕は、独善状態の人ほど、限界を感じやすいと考えています。独善状態とは、自分一人が正しいと考えることではないでしょうか。自分が正しいと思ったことが、相手にとっても正しいとはかぎらない。自分の常識は相手にとって非常識かもしれない。
けれど独善状態の人は、そのことに気がついていません。
行き詰まったり、伸び悩んだり、限界を感じたときは、今までとは違うやり方でアプローチをすべきです。
ですが、独善状態にあると、自分は正しいと信じて疑わないので、自分を変えることができません。限界の檻の中にいるのに、檻の中にいることすら自覚していない。それでは、いつまでも檻から脱出することはできません。
今の自分を変えたければ、「無知の知」を持つことです。
「自分は間違っているかもしれない」
「まだ何もわかっていないかもしれない」
謙虚に、何ごとからも学ぼうとする人ほど、限界を超えて、どこまでも伸びていきます。