三十六歳女性がネコとたわむれていた。
その声をなんとなく聞きながら本を読んでいたんだが、しばらくすると無視できない言葉が耳に飛び込んできた。「せっちゃん、耳の裏にうんこついてない?」とのことである。セツシは耳の裏にうんこがついているのか。最悪だ、最悪のネコじゃないか。
たしかにネコというのは人間とくらべると糞尿の処理が粗雑である。うんこの一部を身体にくっつけたまま、トイレから居間に戻ってくることがある。このあいだは影千代が尻毛の先でうんこをヒラヒラさせたまま、これが最新のファッションですという顔で歩いてきたことがあった。
そこにきて今度はセツシが耳の裏にうんこをつけている。尻の近くならまだしも、なぜ耳の裏にうんこをつけてしまうのか。どんなアクロバティックなポーズで排便したらそんなことになるのか。そのままオリンピックに出場できそうな複雑なアクションの排便なのか。
男子アクロバット排便 決勝
セツシは耳の裏にうんこがついて減点、惜しくも優勝を逃す。
「動かないで! せっちゃん、うんこ取るから!」
三十六歳女性はセツシと格闘していた。私は本を読むふりをしながらも頭のなかではセツシ株の大暴落、耳の裏にうんこがついたネコという汚名を背負うことになったセツシの今後を考えていた。とにかく早急に取ってもらったほうがいい。抵抗してはいけない。だがその時、三十六歳が言った。
「あっ、気のせいだった」
これで私は読書をあきらめた。
「なんなんだもう、さっきから!」
「あはは、ほら、ただのゴミだったよ、うんこじゃなかったよ、ごめんね、せっちゃん!」
三十六歳女性は前歯まるだしの素敵な笑顔でセツシを撫でていた。そしてセツシのほうも、今まさに耳の裏うんこ疑惑をかけてきた女に撫でられながら気持ちよさそうに目を細めていた。細めている場合か。
「これ、ちっちゃくてうんこに見えたんだけど、ホコリだったのね、ただのホコリ!」
三十六歳女性は軽佻浮薄そのものの態度で指先のホコリを見せてきた。セツシはとなりでゴロゴロ言っていた。裁判にもならない。
ネコだから許されるが、こんなものは人間だったら大変である。「木下さん耳の裏にうんこついてませんか?」からの「勘違いでした」は絶対に許されない。うんこかと思ったらイヤリングでした、みたいな流れは絶縁宣言に等しいだろう。
木下さんにアクロバット排便疑惑をふっかけておいて、「ごめんね!」のひとことで済ませようとする。しかも木下さんは撫でられて目を細める。まったく無茶苦茶もいいところである。