逃げるアタランテー AtalantaFugiens,Michael Maier,1618
魔術の帝国を築いたハプスブルグ家のルドルフ2世。その侍医であるミハエル・マイヤー(1568-1608)は、錬金術史さいごの隆盛たる薔薇十字運動の機運にのって錬金術運動の指導にあたる。数々の卓越した化学論文をなし、錬金術論集を編纂した。ここに紹介する『逃げるアタランテー』はマイヤーのなしたもっとも驚くべき書物であるといってよかろう。ここには伝統を確固と踏襲した50の象徴寓意画へと謎めいた詩句が添えられ、マイヤーの透徹した講話が秘められた謎を開明してゆく。
17世紀初頭の化学論であるだけに、荘厳晦渋な筆致のうらがわに多くの誤謬をも含んでいようが、ここには化学と詩、物質とイメージの相関がみごとに奔放なる開花をみせている。ハインリッヒ・クンラート『永遠の智慧の円形劇場』所収の版画には錬金術師の仕事場を描いたものがあるが、リュートをはじめ、この中央テーブルにたくさんの楽器の類が積まれているのを見た者も多いだろう。中世学問の重要な素養のひとつとして、「調和」を象徴しみちびく「音楽」が、術の成就にも欠かせないものであったことの証左であるといわれる。
『逃げるアタランテー』の50講話には寓意画だけではなく、それぞれにフーガの楽曲も付されている。寓意画に詩句そしてマイヤーの釈義、それらはカノンの楽曲の旋律に「調和」され、ここに錬金術・ヘルメス学の総合が編まれてゆくのである。ギリシア神話に記されたアタランテーの故事そのものにも錬金術の奥義をかぎとることができるが、「Fugiens」は「逃走」だけでなく「フーガ」と読むこともできる。ゆえにマイヤーの題した『逃げるアタランテー』は『アトランタの逃走』とも、『アタランテー遁走曲』とも読むことが可能な、きわめて重層的な題意を秘めている。