ピーター・バラカンが選ぶ名盤 - Masterpieces of My Generation -

毎月新しいテーマでピーター・バラカン氏の選ぶ名盤をエピソードと共に紹介していきます。

Vol.5 ニュー・オーリンズ

語りだしたら止まらない。今回のテーマは、バラカン氏が愛してやまないニュー・オーリンズの音楽です。その歴史的な背景から特徴、現在のシーンで気になるミュージシャンに至るまでを懇切丁寧に語っていただきました。とりわけ、ニュー・オーリンズにジャズが生まれるきっかけや、音楽が独自の進化を遂げていく過程は興味深く、すっかり聞きいってしまいました。ここに掲載できるのはお話の一部ですが、それでもニュー・オーリンズの音楽の魅力は十分に伝わると思います。

バラカン氏選曲のプレイリスト『ピーター・バラカンが選ぶニューオーリンズ』

バラカン氏選曲のプレイリスト『ピーター・バラカンが選ぶニューオリンズ』

バラカン氏が選ぶ名盤5枚

―今回はピーターさんが最もお得意とするニュー・オーリンズ特集です。まずは、ドクター・ジョンの『Gumbo』からお願いします。

ピーター: 僕の世代のほとんど全員が同じことを言うと思うんですが、ニュー・オーリンズの音楽を意識するきっかけが、このアルバムでした。1972年の作品です。ドクター・ジョンは1968年にドクター・ジョン・ザ・ナイト・トリッパーという名前でデビューするんですね。『Gris-Gris』という変わったレコードで。あれが出た当時、なぜ買ったんだろう?

―買われているんですね?

ピーター: 買いました。時代が時代で、サイケデリックでも、なんでもあり。ぶっ飛んだ時代でしたからね。たまには、こういうのを聴くのもいいか、と思ったのかな。どこかの雑誌にレビューが出ていたんでしょうね。聴いたことありますか?

―『Gumbo』以前は聴いたことがないです。

ピーター: (自分のPCから音源を流す)すごくスワンピーでサイケデリックで、一体どんなドラッグをやっているんだ!?、このおっさん、みたいな(笑)。68年には誰もこんな音を聴いたことがないんですよ。今聴くと元祖ワールド・ミュージックみたいだけど、3曲目までくると、ちょっとファンキーでいい感じになるんです。潰れた感じの声もおもしろくてね。僕は大好きだったけど、この頃はまだニュー・オーリンズだなんだというのは意識していませんでした。ドクター・ジョンのこの後の作品をすべて買っていたわけではないけれど、常に気になる存在ではありましたね。それで『Gumbo』が出た時、前にも話したことがありますけれど、チャーリー・ギレットというDJがやっている番組にドクター・ジョンがゲスト出演したんです。『Gumbo』の中の曲をスタジオで演奏したし、もちろんアルバムからも紹介したし、また、故郷のニュー・オーリンズについても色々話をしてね。そして、ニュー・オーリンズには独特のピアニストの伝統があることに触れて、歴代のピアニストのスタイルで次々とその場で演奏したんですよ。僕、後にそれを『ポッパーズMTV』で真似したんだけどね(笑)。その時に、なるほどニュー・オーリンズの街にはこういう歴史があるのかと知って、すぐにアルバムを買いに行きました。そしたらアルバムのスリーヴの中にも、ドクター・ジョンが受けたインタヴューの文字起こしが入っていて、ニュー・オーリンズのリズム&ブルーズの歴史について語っているわけです。それから、ミーターズとかアラン・トゥーサントとか、ちょうど70年代前半に画期的なレコードを出している人たちに気づき始めて、ニュー・オーリンズを入り口に様々な音楽を聴くようになるんです。久保田麻琴や細野晴臣に聞いても同じことを言いますよ。『ガンボ』がきっかけだった、って。

―具体的にニュー・オーリンズの音楽の「らしさ」というのは、どんな点なのでしょうか?

ピーター: 独特のシンコペーション(音楽において、強拍と弱拍の位置を通常と変え、リズムに変化を与えること)ですね。ニュー・オーリンズは、メキシコ湾に面している。海に出るとすぐにハイチ、次にあるのがキューバ。昔、それらの国と貿易をしていました。奴隷の貿易に関しても、ヨーロッパから南米やカリブ海に流れる奴隷が多く、そこからニュー・オーリンズに来ることもありました。キューバにしてもハイチにしてもアフリカ色が濃く残っている音楽を作っているんですよね。当然ニュー・オーリンズはその影響を強く受けています。
歴史を話し始めると、長くなりますが(笑)、一つ重要なポイントがあります。ニュー・オーリンズがフランス領だった時のこと。カトリックのフランス人は、プロテスタントのアングロ・サクソン系とは奴隷の扱い方が違ったそうです。アングロ・サクソン系の人は奴隷に文化的な表現を一切許さなかった。楽器を持つことも、歌うことも踊ることも、自分たちの言語を使うことも許さなかった。でも、フランス領だったルイジアナ州、特にニュー・オーリンズでは、週に1回奴隷たちに自分の時間を与えて、太鼓を叩いたり、歌ったり踊ったりすることを許したんです。彼らにガス抜きの時間を与えたということなのでしょう。ニュー・オーリンズでアフリカ度が高い音楽が栄えたというのは、それに寄るところも大きいと思います。
それと。新大陸に渡っていたフランス人というのは、ごくごくわずかでした。そういう数少ないフランス人の生活が黒人奴隷の労働によって支えられていたことはもちろんなのですが、フランス人たちは文化的な楽しみも失いたくない。大邸宅の中でクラシックの演奏を聴きたいけれど、フランス人のミュージシャンが十分にはいない。そこで、比較的肌の色が薄い奴隷に、音楽教育を施すようになります。クレオールと呼ばれる黒人の中には、音楽・演奏能力の高い人が多かったらしいです。これはルイジアナに限った話ですが、奴隷が解放された1865年、クレオールはニュー・オーリンズの街に暮らすようになる。一方、アメリカは南北戦争の後、19世紀の後半に何度か戦争をしていますが、戦争にはマーチング・バンドがつきもので、戦争が終わるとバンドが解体され、街中では管楽器が安値で売られるようになる。かつてクラシックをやっていたクレオールが、二束三文で管楽器を買って演奏するようになる。そうして生まれたのがジャズのルーツです。加えてカリブ海の影響があって、ニュー・オーリンズのジャズにはラテンの雰囲気もあります。ジェリー・ロール・モートンが100年前に言っています。「ジャズには、スパニッシュ・ティンジュが不可欠だ」って。ティンジュ(tinge)というのは、色合いという意味です。

―ミーターズはベスト盤をチョイスされました。

ピーター: ミーターズとしてレコードを出し始めたのは、1969年で、それ以前はアラン・トゥーサントが手がける多くのレコードでスタジオ・バンドとして起用されていて、まだ名前が付いていなかったんです。メンフィスのブッカーT&ジ・MG’sとニュー・オーリンズのミーターズ、は同じような存在と言ってもいいでしょう。MG’sの方が少し活動開始が早くてヒット曲が多いかな。ミーターズの方が渋い存在。すごくいい曲がたくさんあるんだけど、彼らが所属していたレーベルが小さかったのも原因かもしれません。いかにもニュー・オーリンズの強くシンコペーションが効いたセカンド・ラインのファンクですから、当時のアメリカでは「分からない」という人がいたと思います。それくらいニュー・オーリンズは、独特でした。このベスト盤には「Hey Pocky A-Way」や「People Say」、「Fire On The Bayou」など、いい曲は全部入っていますね。

―次は、アラン・トゥーサンです。

ピーター: 2009年の作品ですね。この人は、長くポピュラー音楽の世界でやってきた人です。子供の頃、お姉さんがピアノを習っていて、自分も独学で弾いていました。ポップもクラシックもジャズもファンクも、耳に入ってくる音楽はなんでも。そうやって誰でもなんでも弾けるのが当たり前だと思っていたそうです。彼がひとりでピアノを弾く時は、ファンキーな曲をやっているのにドビュッシーみたいなフレーズが出てきたり、ちょっとラテンっぽいのが出てきたり、オリエンタルなフレーズが出てきたり。自分名義でやってきた音楽は、ほとんどがファンキーな音楽なんですが、この『The Bright Mississippi』は、プロデューサーのジョー・ヘンリーが企画して、トゥーサントにニュー・オーリンズの昔のジャズと向き合う機会を与えたんです。それで、ジェリー・ロール・モートンやシドニー・ベシェの曲を演っています。トゥーサントも最初はちょっとどうかな?という所があったようですが、やってみたら自分にとってはまるで新しい試みで、おもしろかったということになったそうです。

―ジョン・クリアリーは、2008年発表の『Mo Hippa』です。

ピーター: 彼はイギリス人ですが、人生の半分以上をニュー・オーリンズで過ごしています。今、53か54歳かな。19歳くらいからずーっとニュー・オーリンズにいます。ジョンが子供の頃、彼の叔父さんがニュー・オーリンズに住んでいたことがあって、帰ってきた時にスーツケースいっぱいのレコードを持ち帰って、自慢げにかけていたそうです。そうやってニュー・オーリンズの音楽をたくさん聴いているうちに、将来はニュー・オーリンズに行ってミュージシャンになる、というのが夢になったんですね。そしてその通りになった。彼は、一時期ボニー・レイトのバンドのまとめ役もやっていましたし、ソロ・アルバムも色々出していますが、この『Mo Hippa』は、ミーターズやプロフェッサー・ロングヘアなどニュー・オーリンズの音楽のカヴァーが多くて、すごくかっこいいです。バックを務めているのがアブソルート・モンスター・ジェントルメンというグループで、基本的にはゴスペルのバンドなんですけど、ジョンが、クラブかなんかで聴いて気に入って、自分のバンドにしちゃったという。一昨年の《ライヴ・マジック》にもそのバンドで来日してくれたんですが、すごかった!ジョンはドクター・ジョンのツアーに帯同したこともあるし、それだけシーンに溶け込んでいるということですね。あと、彼はニュー・オーリンズの音楽の生き字引です。なんでも知っています。

―最後は、ダーティー・ダズン・ブラス・バンドの『My Feet Can’t Fail Me Now』を選んでいただきました。

ピーター: ニュー・オーリンズには、ブラス・バンドの伝統もあります。ジャズ葬儀と呼ばれるものがありまして。主にミュージシャンが亡くなった時、教会でお葬式をした後、お墓までお棺を運びます。馬車に乗せて。時々人が数人で担ぐこともありますが。それにマーチング・バンドがついていくんですね。お墓までは厳粛にスロー・テンポの聖歌やなんかを演奏するけれど、戻ってくる時は一転陽気になる。「悲しみは終わった。生きている我々は人生を楽しもう」というメッセージだと思いますが、帰り道にそうして陽気にやっている時に、葬儀の関係者のみならず、関係ない人も集まって来て踊ったり音を鳴らしたりします。マーチング・バンドがファースト・ラインを形成し、葬儀関係者やその他大勢がセカンド・ラインを形成する。セカンド・ライン・リズムというのは、そこから来ています。ダーティ・ダズンも最初はこうしたマーチング・バンドの伝統から出発しましたが、彼らは聖歌や古いジャズだけでなく、モダン・ジャズやファンク、マーチング・バンドらしからぬ自作曲を演奏するようになって、ニュー・オーリンズでもかなり斬新だったと思います。日本でも1984年にこのアルバムが出た時は話題になりました。アルバムを聴いた人は「こんなファンキーなマーチング・バンドがあるの!?」とびっくりだったんです。もともと彼らは、管楽器とドラムだけ。ベースもいない。そこはスーザフォーンを使うから。モダン・ジャズのテンポの速い曲をスーザフォーンで演るのだから、とんでもないですよ。ぶったまげましたね。とにかくこのアルバムは、ニュー・オーリンズの音楽史の中では無視できない名盤です。

インタビュー・文/赤尾美香

アルバム別解説

ドクター・ジョン『ガンボ(Gumbo)』

1972年に発表されたドクター・ジョンの5作目。"ガンボ"とは、ルイジアナ州名物のスープ料理。ニュー・オーリンズのアーティストのカヴァーが大半を占める。今でも愛聴盤だというバラカン氏、「当時、誰も収録曲を知りませんでした。それこそプロフェッサー・ロングヘアの名前も本作がなければ知られることはなかったかもしれない。というほどに、目からウロコがボロボロ落ちるようなアルバムです」と語っている。

ザ・ミーターズ『ベスト・オブ・ミーターズ(Very Best of the Meters)』

1960年代半ばに結成されたアート・ネヴィル & ザ・サウンズが前身。1968年にシングル・デビュー。ニュー・オーリンズ・ファンクの第一人者として活躍。1973年にドクター・ジョンが発表した『In The Right Place』(プロデュースはアラン・トゥーサン)ではバックを務めた。77年の『New Directions』で当時の流行ディスコに接近。バラカン氏曰く「ミーターズがそんなことしても、おもしろいわけがない」。本ベスト盤は、既発作品から代表曲を集めた1枚。

アラン・トゥーサン『ザ・ブライト・ミシシッピ(The Bright Mississippi )』

自身の活動以外に、多くのアーティストのプロデュース、作曲、編曲を手がけ、ニューオーリンズ・シーンを支えたトゥーサン。本作はノンサッチ移籍第1弾で、第52回グラミー賞最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・アルバム・ノミネート作品。「トゥーサンという人はすごく上品な人。絵に描いたような紳士。声は小さいし、決して汚い言葉は使わない。こんな紳士が音楽業界にいたの?というくらい」とバラカン氏。2015年11月死去。

ジョン・クレアリー『モー・ヒッパ(Mo’ Hippa)』

イギリス出身ながら10代で渡米、現在ではニュー・オーリンズを代表するピアニストとして認知される。一時期、ボニー・レイットのバンドのバンマスとしても活躍。2008年発表の本作は、初のライヴ盤で、プロデュースはルーツ系音楽を多く手掛けるジョン・ポーターとクレアリーが共同で行なっている。ザ・ミーターズやプロフェッサー・ロングヘアのカヴァーも収録。2016年、アルバム『Go Go Juice』で、初めてのグラミー賞を受賞。

ダーティ・ダズン・ブラス・バンド『マイ・フィート・キャント・フェール・ミー・ナウ(My Feet Can’t Fail Me Now)』

1977年にニュー・オーリンズで結成され、1984年にコンコード・レコードより本作でデビュー。伝統的なマーチング・バンドの要素を残しつつ、ファンクやソウルを取り入れ、また積極的に自作曲を演奏する彼らは、今もなお、ニュー・オーリンズきっての人気バンドのひとつだ。89年の『The New Orleans Album』にはエルヴィス・コステロがゲスト参加、バンドはそのお返しにコステロの『Spike』に参加した。

ピーター・バラカン選曲プレイリスト

『ピーター・バラカンが選ぶニューオリンズ』

『ピーター・バラカンが選ぶニューオリンズ』

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プロフェッサー・ロングヘアは伝説のピアニストと言われますが、録音は多くありません。40年代の後半に幾つかのセッションがあって、50年代の前半にもセッションがあるくらいで、ヒット曲もありません。「Mardi Gras In New Orleans」と「Go To The Mardi Gras」という曲は、毎年マルディグラの時期になるとニュー・オーリンズのラジオでかかります。だから、ニュー・オーリンズでは知れた名前でしたが、ニュー・オーリンズ以外ではそうでもなかった。音楽だけでは食べていけず、賭博師で稼いでいたそうです。『Gumbo』が出たのとほぼ同時に、同じアトランティック・レコードが、昔のブルーズの音源をアルバム・シリーズ化しました。そのうちの1枚が『New Orleans Piano』というプロフェッサー・ロングヘアのアルバムです。ちょうどドクター・ジョンも『Gumbo』の中で「Tipitina」を取り上げていたので、それでプロフェッサー・ロングヘアの名が広く認知されるようになりました。「Longhair’s Blues Rhumba」は、雰囲気はブルーズだけど、リズムは完全にルンバという素敵な曲。『Piano Players Rarely Ever Play Together』というDVDがあって、それはまだプロフェッサー・ロングヘアが生きている時に撮られたもので、彼とトゥッツ・ワシントンとアラン・トゥーサント、世代の異なる3人が色々な話をし共演もするドキュメンタリーで、とてもおもしろいです。
ジェイムズ・ブッカーという人は、みんなが口を揃えて天才だと言います。ブルーズもジャズもクラシックも出来る。ピアノのタッチがユニークで、プロフェッサー・ロングヘアの影響がありつつ、ショパンの曲も難なくこなす人だったけれど、ヘロイン中毒だった。素行問題があったり、コンサートをドタキャンしたりしているうちに仕事がなくなって。才能のわりにはレコードも少ない。彼を追ったドキュメンタリー映画『Bayou Maharajah』というのがありますから、これもお薦めしておきましょう。「Tipitina」はプロフェッサー・ロングヘアの最も有名な曲です。また、ニュー・オーリンズ特有の8小節のブルーズというのがあって、「Junko Partner」はその典型的な曲です。『Gumbo』で聴けるドクター・ジョンのヴァージョンはまさにそれですが、ブッカー・ヴァージョンは彼独自の解釈で演奏されています。
ファッツ・ドミノはプロフェッサー・ロングヘアより若いけれど、活動していた時期はわりと重なります。デビューは1949年、チャック・ベリー、ボ・ディドリー、リトル・リチャードなんかと同じ時期にヒットを飛ばしました。今思うと彼も、いかにもニュー・オーリンズのピアノ・スタイルなんだけど、当時はまだ誰もそんなことは知りませんでした。最初はブギウギ・ピアニストだったんです。ファッツ・ドミノという芸名から分かる通り太っていて、陽気な人で、歌い方も軽いし、ちょっとスウィングしていて、いつもニコニコ、肌の色もそれほど濃くない。黒人の音楽がそれほど白人に聴かれていない時代、初期のロックンローラーの中で彼の曲はダントツにヒットしていますが、それは、彼が危険な人に見えなかったからだろう、とも言われています。「Blue Monday」や「I’m Walkin」は50年代半ばの大ヒット曲。「Walking To New Orleans」は、ボビー・チャールズという白人のシンガー・ソングライターが作った曲で、これもよく知られた曲です。
ヒューイ“ピアノ”スミスもまた、ニュー・オーリンズ型ブギ・ピアニストです。「Rockin’ Pneumonia and the Boogie-Woogie Flu」は、ニュー・オーリンズの音楽に詳しくない人でも知っているかもしれません。ごきげんな曲です。50年代半ばの曲で、ドクター・ジョンが『Gumbo』で取り上げていますが、その少し前にジョニー・リヴァーズがシングルで出しています。ヒューイはノヴェルティっぽい曲が多かったですね。「Pop-Eye」もそんな感じの曲。彼自身はピアニストで、ヴォーカルはボビー・マーチャンが担当することが多かったです。ボビーは女装をしたコメディアンみたいな人で、こういうノヴェルティっぽい曲を歌うのが得意でした。Huey ‘Piano’ Smith & His Clownsですからね、道化師(Clown)みたいな役割だったのでしょう。
ダヴェル・クローフォードは、もっと若い人です。彼のおじいさんは、ジェイムズ・"シュガー・ボーイ"・クローフォードといって50年代に「Jockamo」という曲を出しています。その曲が、後に「Iko Iko」という曲になりました。ハリケイン・カトリーナの後、『Our New Orleans』というチャリティ・アルバムがあって、その中でダヴェルが1曲歌っていました。僕はそれで彼を知りました。ゴスペルっぽい歌い方が独特でピアノもうまい。今年11月に小さなグループでニュー・オーリンズに行くんですけど、その時には彼のライヴを観ることができそうで、とても楽しみです。「Stranger In My Own Home」は、ブルーズ界の詩人と呼ばれたパーシー・メイフィールドの曲で、彼もルイジアナ出身なんですけど、とても良い曲です。「Southern Nights」はアラン・トゥーサントの曲で、ジミー・クリフの「Many Rivers To Cross」とメドリーになっています。
11月の旅行で、もう一組ライヴを観るのが、ドナルド・ハリスンJr.です。ジャズのサックス奏者、基本的にはアルト・サックスです。マルディ・グラ・インディアンって分かりますか?その昔、黒人奴隷が逃げた時に匿ってくれたのがインディアンでした。その感謝の気持ちもあり、マルディ・グラになると黒人がネイティヴ・アメリカンの儀礼服にも似た派手な出で立ちで「トライブ」と名乗り、朝早くから街を練り歩きます。ドナルドもそういうトライブの中の一つのビッグ・チーフなんです。また彼は教育者でもあるので、秋のニュー・オーリンズ旅では、彼にニュー・オーリンズの音楽について講義をしてもらい、その後で演奏を聴かせてもらいます。「Ja-Ki-Mo-Fi-Na-Hay」というのは、クレオール語なのか何なのかよくわからないんですけど、「Kiss My Ass」のような意味なんだそうです。
僕がまだニュー・オーリンズのことを全然知らない頃、一番聴いていたニュー・オーリンズの歌手が、リー・ドーシーだと思います。ソウル歌手の一人として、ヒット曲が結構ありましたから。中でもこの2曲ですね。風変わりな声をしていて、ちょっとキャラクターっぽい。ヨーデルみたいにひっくり返るのもおもしろいです。
最後はボビー・チャールズ。彼はソングライターとしていい曲をたくさん書いています。「The Jealous Kind」は、ジョー・コッカーも『Stingray』というアルバムでやっています。あまり注目されないアルバムだけど、これは、知られざる名盤と言っていいでしょう。ボビーは50年代に「See You Later Alligator」という曲を書き、それをビル・ヘイリーがヒットさせています。「Why Are People Like That」にはデレク・トラックスが、「The Jealous Kind」には、サニー・ランドレスがそれぞれ参加していますが、サニーは今年の《ライヴ・マジック》に出演してくれます。

プロフェッサー・ロングヘア 「Mardi Gras In New Orleans」
プロフェッサー・ロングヘア 「Longhair’s Blues Rhumba」
プロフェッサー・ロングヘア 「Hey Now Baby」
プロフェッサー・ロングヘア 「She Walks Right In」
ジェイムズ・ブッカー 「Tipitina」
ジェイムズ・ブッカー 「Junko Partner」
ファッツ・ドミノ 「The Fat Man」
ファッツ・ドミノ 「Blue Monday」
ファッツ・ドミノ 「I’m Walkin’」
ファッツ・ドミノ 「Walking To New Orleans」
ヒューイ・"ピアノ"・スミス & ヒズ クラウンズ 「Rockin’ Pneumonia and the Boogie-Woogie Flu」
ヒューイ・"ピアノ"・スミス & ヒズ クラウンズ 「Pop-Eye」
ダヴェル・クロフォード 「Stranger In My Own Home」
ダヴェル・クロフォード 「Southern Nights/Many Rivers To Cross」
ドナルド・ハリソン 「Ja-Ki-Mo-Fi-Na-Hay」
ドナルド・ハリソン 「Indian Red」
リー・ドーシー 「Get Out Of My Life Woman」
リー・ドーシー 「Working In A Coal Mine」
ボビー・チャールズ 「Why Are People Like That」
ボビー・チャールズ 「The Jealous Kind」

追記: カタカナの固有名詞はバラカン氏の意向に基づいた表記となっています。


ピーター・バラカン (Peter Barakan)

1951年 8月20日ロンドン生まれ
1973年 ロンドン大学日本語学科卒業
1974年 来日、シンコー・ミュージック国際部入社、著作権関係の仕事に従事。
1980年 同退社 • このころから執筆活動、ラジオ番組への出演などを開始、また1980年から1986年までイエロー・マジック・オーケストラ、後に個々のメンバーの海外コーディネーションを担当。
1984年 TBS-TV「ザ・ポッパーズMTV」というミュージック・ビデオ番組の司会を担当、以降3年半続く。
1988年 10月からTBS-TVで「CBSドキュメント」(アメリカCBS制作番組60 Minutesを主な素材とする、社会問題を扱ったドキュメンタリー番組)の司会を担当。音楽番組以外では初めてのレギュラー番組。2010年4月からTBS系列のニュース専門チャンネル「ニュースバード」に移籍、番組名も「CBS 60ミニッツ」に変更。2014年3月終了。

1986年から完全に独立し、放送番組の制作、出演を中心に活動中。

自身が監修する音楽フェスティバル「LIVE MAGIC!」が10月に開催される。