大学等連携事業

早稲田大学オープンカレッジ秋期講座 「渤海と古代の日本」


2004年度 早稲田大学オープンカレッジ秋期講座
日本海学推進機構連携講座
2004年10月19日
早稲田大学

講師 講師國學院大學栃木短期大学教授
   早稲田大学講師
        酒寄雅志先生

 

1.渤海の成立

 渤海のことを「海東の盛国」という。「海東」とは一般に中国から見て東の朝鮮半島を指すが、9世紀には渤海のことであった。

 石川県埋蔵文化財センターが調査した金沢市の畝田ナベタ遺跡から、唐草模様の文様(宝相華唐草文)の透し彫の青銅製の帯金具が出土した。日本列島では、この文様の帯金具はほかには発見されていないので、渤海史に詳しい考古学者の小嶋芳孝先生は、「これは渤海人が持ってきたのではないか」と指摘している。渤海があった地域は、中国の東北地方の吉林省、黒竜江省が中心で、遼寧省も一部入る。またロシア沿海州、ウラジオストク辺りも含み、北朝鮮はすべて入る。

 渤海は698年に建国された。ちょうど中国の則天武后の時代に当たる。668年に滅んだ高句麗の生き残りの人々と、もともと中国東北部に住み、高句麗人とともに営州(遼寧省朝陽市)に強制移住させられていた靺鞨という民族が中核となり、則天武后の時代に起こった唐国内の反乱を契機に、振(震)国が建設された。しかし、926年に契丹という遊牧民族によって渤海が滅ぼされ、そのときに歴史書などをすべて失ってしまっようで詳しいことはわかっていない。

 この振(震)国が、渤海と呼ばれるようになったのは、713年、大祚栄(だいそえい)のときだが、大祚栄は朝鮮民族なのか、靺鞨人なのかは議論のあるところである。ともかく713年には、大祚栄が唐の皇帝の支配下に入り「渤海郡王」という称号をもらって、それが国の名前となった。渤海の国境は、現在の平壌と日本海を結ぶラインが新羅と接する南の境界であることははっきりしているが、北の国境はよくわかっていない。ハンカ(興凱)湖という大きな湖付近とする考えもあるが、私はさらに北のアムール川以南だと思っている。また渤海には、南京南海府、西京鴨緑府を含め、中京、東京、上京の五つの都があったが、最初の二つに国王が居たことはなく、都となったことがあるのは後者の三つである。

 渤海は多民族が割拠する国家であり、現在の中国東北地方や北朝鮮、ロシア沿海州に国家として一つのものができた初めての国家である。そして、この国ができて間もない727年から、日本に使者が来るようになり、交流が盛んになった。しかも、日本の遣唐使は20年に1回ぐらいの割合でしか派遣されないのに対し、渤海からの使者は200年の間に34回来ており、日本からも十数回行っている。したがって、奈良時代の外国文化は遣唐使以上に渤海使によってもたらされたものが多いといえよう。契丹犬も2匹来ているが、最近はもっと西の中央アジアに住んでいるソクド人の影響もあったのではないかともいわれている。また、ロシア人のシャフクノフ先生という渤海史の大家は、シルクロードの北方地域にシルクならぬクロテンの道があり、その終着駅が日本だったともいっている。

2.渤海を取り巻く国際情勢

 渤海の初代の国王である大祚栄は、705年に中国の皇帝中宗に招かれたが、契丹や突蕨などの遊牧民族が唐の辺境に侵攻したので断念した。その後713年に、初めて大祚栄のもとに彼を渤海郡王に封ずるための中国人使節、崔忻が来ている。唐と渤海を結ぶ道は二つある。その一つは高句麗滅亡後に営州に移されていた人が、唐の攻撃を受けない所に国をつくろうとして逃げた「旧国」から長安へ延びる「営州道」で、もう一つは遼東半島沿いに進む「朝貢道」である。713年に渤海へ行った崔忻は朝貢道を通って往来したと思われる。なお、崔忻が帰り道に喉が渇いたのか、井戸を掘った記念に書いた「鴻臆井の碑」というのが旅順にあったが、これを日露戦争の直後に戦利品として海軍が日本に持ち帰り、今、皇居の奥深くに保存されている。

 第2代王である大武芸は、719年に王位に就くと「周辺の民族が恐れをなして従った」と記録にあるように、領域の拡大に力を入れた人物である。例えば、新羅が721年に渤海の南下を恐れて長城を造っているが、それは渤海は朝鮮半島の日本海側を南下したことを示す。現在の北朝鮮に南京南海府が置かれたのもそうしたことと関わりが深い。

 渤海が建国後しばらくたって「旧国」から都を顕州に移した。現在、顕州の候補地と目される所が二つある。第一が延辺朝鮮族自治州和竜の河南屯古城で、その前の道を東に行くともう一つの候補地の西古城に至る。

 この大武芸のころ、渤海と対立したのが北のアムール川付近に住んでいた黒水靺鞨であった。黒水靺鞨は、渤海が領土を拡大して自分たちを呑み込むのを恐れ、722年に唐に使いを派遣し、「渤海を唐と北の靺鞨で挟み打ちしよう」という計画を立てた。渤海の大武芸はそれを大変恐れ、弟の門芸に征討を命じたが、門芸はかつて長安に人質として行っていた経験から、唐と戦うことは不利であると兄を諭し、逆に兄の怒りを買って唐に亡命することになった。兄の大武芸は門芸のための暗殺団を長安に派遣するが、それが唐に露見して処分され非常な緊張状態となった。

 ちょうどこの時期の727年に渤海の使者が日本に来ているが、それはこういう緊張した外交関係を打開するために日本の力を借りようとしたと考えられる。渤海は南側にあった新羅とずっと対立していたが、一方で新羅は唐と仲がよく、油断をすると新羅が渤海を攻撃してくるかもしれなかった。事実、新羅は唐の命令で渤海を攻撃したのだが、この時は、山が峻険で雪が深くうまくいかなかった。したがって新羅の南にある日本は、新羅にプレシャーをかける有効な外交戦略の対象だったわけである。

 そして732年、武芸は中国の山東半島の登州に攻撃を仕掛け、新羅は渤海の南京を攻撃する。まさに日本へ使者を派遣してたのはこうした時期であった。そして防衛力の脆弱な旧国からもっと山に囲まれ防衛力のある顕州に都を移して長城を築いたのである。

3.唐との和解と上京竜泉府の造営

 大武芸が亡くなると、渤海は唐と和解する。それは渤海にとって唯一支援を期待していたモンゴル高原の遊牧民の突厥で内紛が起こり、間もなく滅びてしまう。つまり突厥は当てにならず、また日本にもあまり期待できないということから、渤海のほうから唐に頭を下げて和解にこぎ着けたのである。以後、唐との関係を強化して、唐の諸制度を取り入れ、天宝末年に当たる755年に上京竜泉府に都を移した。

 この都は現在も発掘されているが、中央に宮殿があり、その周りに城壁が巡らされ、周囲16kmと、ほぼ平城京と同じ規模である。奈良文化財研究所の井上和人氏は、この都の衛星写真を分析したところ、平城京造営と同じ物差しを使っていることを指摘してる。つまり、これまで渤海の都は、中国の長安を真似たものだと思われていたが、平城京造営の物差しと一緒ということは、日本から学んで都を造ったということになる。ちなみに平城京の造営は710年、一方、渤海の都は755年なので、727年に初めて来日した渤海使が日本から都造りを学んだのかもしれない。

 そのほか第5宮殿は煙道を備えており、宮殿の中にもオンドルがあったことがわかっている。実はそこから、1934年(昭和9)6月20日に1枚の和同開珎が見つかり、東京に持って帰った。その後、満州国の国立博物館を奉天(瀋陽)に作ろうと再び大陸へ持って行ったが、1940年(昭和15)に昭和天皇が東京帝国大学に紀元2600年記念行幸をするというので、また発掘隊長の原田淑人氏が奉天まで取りに行き、昭和天皇が12分間見たあとで駒井和愛氏が返しに行った。それが、1945年8月にソ連軍が満州に侵攻してきたときのどさくさで行方不明になった。また、宮殿の東側には庭園があり、そこには大きな池と二つの中の島があって、池の東西両脇に築山がある。そして、池の北には翼廊を持つ建物が配置されているが、これが寝殿造りではないかといわれるものである。私などは日本の平安時代の寝殿造りは中国、渤海から伝わったと思っているが、今の日本の建築学者は、平城京にある貴族の邸宅が変化して寝殿造りになったもので、日本独自の展開だといっている。とすれば平城京のプランと同じく、日本の寝殿造りが外国に輸出された可能性も考えられる。この池は2万㎡もある。私はここを発掘すれば木簡が出てきて、渤海の歴史は大きく変わるかもしれないと思ているのだが、発掘するような気配は全くない。さらに渤海の上京竜泉府には寺跡が9か所もあるので、仏教をよく信仰していたことがわかっている。

 そして第3代目の大欽茂のとき、渤海は靺鞨を服属させている。「払捏(ふつでつ)または大払捏と称す。開元・天宝八来。(中略)鉄利、開元中六来。越喜、七来。貞元中一来。虞婁(ぐろう)、貞観間再来。貞元一来。後に渤海盛んにして靺鞨皆之に役属す」(『新唐書』靺鞨伝)とある。それまでは靺鞨といわれるいろいろな部族の人たちが唐に何回も来ていたのが突然来なくなった。それはみんな渤海に服属したためである。渤海はこれらの諸民族を支配するため、城を各地に造り、川を利用して領域を拡大した。そして一時期、都を東京竜原府(延辺朝鮮族自治州琿春)に移している。しかし、大欽茂は長命で57年もの長きにわたって王位に就いていたため、次の世代が大欽茂より早く死んでしまい、さらに孫の世代はまだ幼かったことから、王位継承をめぐって混乱してしまった。それでもう一度、大欽茂の孫を即位させたときに都を元の上京竜泉府に戻すことになった。したがって、東京に都を置いたのは785~794年の10年間で、日本で長岡京から平安京に移るころであった。この東京竜原府は、中国と北朝鮮との国境を流れる図們江に近い琿春の八連城が想定されている。この東京竜原府からロシアのポシェト湾のクラスキの土城を経て日本に向かう道を「日本道」といった。八連城は四角い城壁の中に宮殿があり、その南に朱雀大路に該当する南北の道と、東西の二条路に該当するものが復元できる。東京竜原府のあった時期に、渤海から日本に毎年のよう使者がやって来ていることから、東京竜原府は、日本との貿易に着目して置かれた都とも考えられる。

4.日本と渤海との交流

 次に日本の中に渤海との交流の痕跡を留めるものについて考えてみたい。まず長屋王の邸宅跡の東脇を流れる溝の中から出土した木簡には、「渤海使」「交易」などと書かれているものがある。727年に初めて渤海の使いが24人、東北地方の北部か北海道に着いたが、言葉がわからなかったためか16人も殺された。この木簡は、その生き残った8人が都に入り、長屋王の邸宅に来たことを示すものではないかと思っている。長屋王は新羅の使いなども自分の邸宅に呼んで宴会をして漢詩の交歓をしていることが『懐風藻』からわかる。そのため、渤海の使節も長屋王邸に来た可能性がある。しかも「交易」と木簡に書かれていることから、彼らは長屋王邸で貿易をしたかもしれない。

 何の交易かといえば、渤海で一番の特産品は毛皮、とりわけ貂の毛皮であった。この貂にまつわる話として、重明(しげあきら)親王という醍醐天皇の皇子が、渤海の使者に毛皮を沢山持っているのを見せた話がある。すなわち親王は黒貂の毛皮を8枚着て渤海使の前に行くと、渤海使は1枚しか着ておらず、貂の産地から来た自分よりも日本人のほうが沢山着ていたということで恥じ入ったという。また、かぐや姫が言い寄る男の一人に「火鼠かわごろも」を持ってくるようにと言った挿話があるが、それも恐らく渤海産の毛皮だろう。さらに『源氏物語』の「末摘花」には、末摘花が若い女に似合わずオールドファッションの「黒貂(ふるき)」の皮衣を着ていたとあるが、『源氏物語』の書かれた11世紀ころには渤海使が来なくなって100年ぐらい経つため、黒貂の毛皮は既にオールドファッションになっていたのであろう。

 また、金沢から少し北の津幡にある加茂遺跡から出た木簡には、「往還人である□□丸は、羽咋郷の長官に、官路を作る人夫として深見関を通過するが浮浪人や逃亡人ではないので召し遂うべからず」と書いてある。これは道路の掃除をする人夫を調達したもののようで、国立歴史民俗博物館の平川南先生は、「渤海の使いが能登半島に着いて都に行く途中の北陸道を掃除する人夫を集めているのではないか」といわれている。さらに、この近くから「示札」といって「早朝から仕事をしなさい」「酒を飲んで遊んではいけない」などと書かれた告知板が出土していることでも有名である。また、金沢周辺の畝田寺中遺跡からは「天平二年」(730)や「津司」、金沢港の戸水C遺跡からは「津」、戸水大西遺跡からは「宿家」と書かれた墨書土器が出土し、さらに畝田ナベタ遺跡からは冒頭に示した帯金具が出ている。これらの遺物からこの辺りに渤海使が来ていた可能性を示唆する。そのほか、奈良の飛鳥の坂田寺から出ている三彩の香炉は、その足が獣足だと思われるものだが、発色があまり良くなく、日本の奈良三彩とも中国の唐三彩とも違うことから、渤海三彩ではないかといわれている。なぜ坂田寺に渤海三彩があったのかというと、正倉院に伝わっている「尼信勝」と書いてある木札から推測できる。「尼信勝」は坂田寺の尼で、この木札は光明皇后に近い人物が東大寺の大仏様に宝物を献納したときの札である。したがって坂田寺が、渤海三彩を手に入れた背景として、「尼信勝」が光明皇后と親しいことを利用して渤海との貿易に参加して買った可能性が考えられている。ほかにも秋田城の便所遺構から豚の寄生虫卵が検出されているが、日本人は基本的に豚食をしないので、これは外国人が便所を使用した痕跡だろうと考えられている。つまり遺構は、8世紀の後半から9世紀初頭頃のものと見られているが、当時豚食をしているのは北海道のオホーツク海沿岸に住んでいた人か、大陸の人ということだが、オホーックの人は当時国家を形成していないので、あのように立派な便所が使用できるのは外国から賓客である渤海人が想定されている。

 さらに多くの渤海との関わりを示す証拠があるが、今日はこのくらいにしておきたいが、日本と渤海のかかわりは大変深かったといえるのではないだろうか。

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