シン・長谷川博己

公開中の映画『シン・ゴジラ』。今週、この話題作を劇場で見てきた武田砂鉄さん。絶賛の声ばかりの中一体どのようにこの映画を評するのか?という連載ではないので、今回のテーマはその主演俳優・長谷川博己です。どうにも彼を言い表す言葉を見つけられない武田さん、その答えは思いもよらない所から出てきました。

「彼でなければならない必然性」はどこにあるのか

インタビュー・対談記事のイントロで、これまで様々な役をこなしてきた俳優の印象を手短に形容するのは簡単ではない。だからこそ、『シン・ゴジラ』の宣伝で登場した長谷川博己と石原さとみの対談記事のイントロを、「映画やドラマ、舞台、CMに大活躍の長谷川博己さん、可愛らしさと色っぽさを併せ持ち、幅広い世代に大人気の石原さとみさん」(『東京カレンダーMOOKS 夏の情緒レストラン』)としてしまう気持ちはよく分かる。「可愛らしさと色っぽさを併せ持つ」の守備範囲は抜群に広い。主役を張る若手女優ならば、概ねこの掛け合わせを嫌がらないだろう。実務的な話をすれば、事務所からの赤字は入らない。

先述の長谷川の記載には、彼の特性を絞り込む形容が一切無い。何たって「映画やドラマ、舞台、CMに大活躍の長谷川」である。『シン・ゴジラ』で内閣官房副長官・矢口蘭堂役を演じた長谷川は、その役どころについて「熱くならない。でも、調整力はある」(『サンデー毎日』8月7日号)と分析している。映画を観終えた後では、その「調整力」が極めて選び抜かれた表現だと納得する。絶賛が連なる『シン・ゴジラ』論をいくつか読んだが、不思議と、メインキャストの長谷川について「彼でなければならない必然性」を語る人がいない。疑義を呈する人も見当たらない。異例とも言える328人ものキャストのトップに立つとなれば、それが誰であろうと「あいつで良かったのか」との議論が巻き起こるはずなのだが、そういう声が聞こえてこない。昨年、『釣りバカ日誌』のハマちゃんが西田敏行から濱田岳に切り替わると聞いた時の、「あぁもう彼しかいないよ!」というような積極的な声もさほど聞こえてこない。

若干の「We Are The World」感

『シン・ゴジラ』はカット割が激しい。会話も早口で、ゴジラへの対応を迫られる政府首脳には、30秒ほど答弁を聞いているだけで眠気が襲ってくる石破茂のようなゆったりとした話者はいないし、滑舌の悪い首相もいない。回避も、躊躇も、追及も、決断も、万事がスピーティに行なわれる。立場をめぐるトラブルは多々あれど、とにかく「対ゴジラ」の姿勢が貫かれるので、大物と曲者が限られた部屋に連なる様子には若干の「We Are The World」感、つまり、バラバラの一体感がある。『シン・ゴジラ』への最も稚拙な感想を豪快に吐けば「出てる人がめっちゃ豪華」だが、「あっ、今の○○じゃん」の連鎖がその稚拙な感想を肯定し続けてくれる。だからこそ、「バラバラの一体感」の中心にいる長谷川博己が、自らの役を「調整力」と語ったのには納得がいく。

監督・特技監督を務めた樋口真嗣は、もしも自分が今、50歳ではなく60歳だったら、内閣官房副長官ではなく首相を主人公に据えたくなったと思う、と語っている(前出『サンデー毎日』)。総監督の庵野秀明含め、自分たちの感覚や感性を投影しやすい配役にし、震災や原発事故への対応をはじめとした、昨今の社会情勢に向けた風刺を盛り込みやすい態勢を作った。長谷川は、政治関係の仕事をしている大学時代の友人に「内閣官房副長官という役がこういう時、どういう状況なのか聞いたり」したという(『BARFOUT!』)。ギラついた個性ではなく、その役回りにどこまでも従順であろうとした。

「クールで知的、ノーブルな雰囲気」

ゴジラファンは『シン・ゴジラ』を旧作のあれこれと結びつけるのだろうが、こちらは官房副長官役の長谷川を観ながら、どうしても、ドラマ『セカンドバージン』で演じた金融庁若手キャリア官僚の姿を思い出してしまう。同じエリートでも、前者は日本を救う立場、後者は鈴木京香と不倫する立場。後者は、どうにかこうにかして官能的なシーンを反復させようとするドラマだったので、脚本の密度はそれこそ『シン・ゴジラ』の対極にあったが、長谷川から受ける印象はさほど変わらない。若きエリートが抜群に似合う。かといって、ドラマ『デート』で演じた働かない高等遊民も、映画『地獄でなぜ悪い』のハイテンションも似合う。コミカルでもシリアスでも印象が変わらない。普通、印象って変わる。でも、彼は変わらない。変わらない印象、それは決して「いつも同じ演技」というわけではない。一体、どういうことなのだろう。

やはり、「映画やドラマ、舞台、CMに大活躍の長谷川博己さん」で済まさない適切な言葉を探らねばならない。大きな図書館にこもり、様々な本や雑誌を探ること2時間、共通する且つ腑に落ちる言葉がようやく発掘された。まずは『セカンドバージン オフィシャルビジュアルブック』の一節。「本作が出世作となった長谷川博己のノーブルで透明感のある存在感」。続いて『蜷川幸雄の稽古場から』の一節。「蜷川作品に初登場したのは、2005年の『KITCHEN』。クールで知的、ノーブルな雰囲気がひときわ目立っていた」。

新宿ピカデリーの7階から降りるエレベーターの中で

もちろん、ひっかかったのは「ノーブル」。日頃、さほど使われない言葉だ。「気品のある、高貴である」を意味する言葉に大いに納得する。役柄の社会的立場の高低に限らず用いることができる。及川光博が能動的ノーブルなら、長谷川博己は受動的ノーブルだろうか。『シン・ゴジラ』での矢口は、決してヒーローではない。彼の発言を思い起こせば「根拠の無い楽観は禁物です」「事態の収束には程遠いからな」と、勇んだり強がったりする周囲を落ち着かせる存在である。まさに「調整力」。彼ならでは受動的ノーブルは「対ゴジラ」という構図を若干の「We Are The World」感の中で維持し続ける上で必須だった。

この映画の長谷川に対する見解として最も納得したのは、熱い論評記事でも、映画情報サイトのコメント欄に並ぶ雑言でもなく、8月15日午前11時すぎに、新宿ピカデリーの7階から降りるエレベーターの中で、自分と同年代くらいの女性が彼氏に向かって言った「小栗旬じゃなくて良かった~」である。ああそうか、と思わず振り返ってしまった。「じゃなくて良かった」と言われたご本人からすればいきなりの飛び火に面食らうだろうが、この一言は、「ノーブル×調整力」の意味を端的に表す、逆説から導き出された正論だと思えた。

(イラスト:ハセガワシオリ

cakesの人気連載「ワダアキ考」、5人の書き下ろしを加えてついに書籍化!!

この連載について

初回を読む
ワダアキ考 〜テレビの中のわだかまり〜

武田砂鉄

365日四六時中休むことなく流れ続けているテレビ。あまりにも日常に入り込みすぎて、さも当たり前のようになってしったテレビの世界。でも、ふとした瞬間に感じる違和感、「これって本当に当たり前なんだっけ?」。その違和感を問いただすのが今回ス...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

GP03K 滑舌の悪い首相ww   約4時間前 replyretweetfavorite