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黒色中国BLOG

中国について学び・考え・行動するのが私のライフワークです

知られざる「難民受け入れ国」としての中国

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 3ヶ月前のことになりますが、こちらのニュースが一時話題になりました。意外な調査結果に驚く人が多かったようです。日本ではあまり知られていませんが、中国は今まで少なくない難民を受け入れてきた国で、最近でもロヒンギャの難民を受け入れており、北朝鮮の難民を受け入れるための準備も行っているそうです。

そこで、この半世紀ぐらいの、中国の難民受け入れの歴史を簡単に紹介してみようと思います。

目次

前世紀60年代以後の中国の難民受け入れの状況

▲こちらを要訳してみます。

インドネシア、ベトナム、カンボジアからの華僑難民

1)1960年代から70年代にかけて、中国はインドネシアとベトナムから追い出された大量の華人を受け入れた。その多くは広西、広東、海南、雲南の華僑農場に収容された。
2)1975年、カンボジアのクメール・ルージュの統治の時に、華人が粛清対象となったため、フランスやカナダに逃げたが、その多くは中国に収容された。広西チワン族自治区の北海、海南省の万寧に最も多く収容され、一部は貴州に収容された。

この頃は、「難民」を受け入れた…と言っても「華僑」だったわけですね。基本的に同じ民族ですから、それほど違和感を伴う「受け入れ」ではなかったでしょう。

アフガニスタンからの難民

3)ソ連のアフガン侵略(1979年)の際、大量のアフガン難民は南に逃げてパキスタン国境で阻まれ、中国との国境地帯に滞留した。米国と国連難民高等弁務官事務所を通じた斡旋により、中国は国境を開放し、6万人のアフガン難民を暫定的に受け入れ、その後パキスタンのアフガン難民キャンプに送ったが、1万あまりのアフガンのキルギス族とタジク族が中国に帰化し、新疆に留まった。

中国はアフガニスタンやパキスタンと国境を接している上に、1971年に国連へ加盟し常任理事国となっていますから、要請を断りきれなかったのでしょうか。それと、キルギス族とタジク族は、元々中国の少数民族の中に含まれていますから、難民としての受け入れや帰化などもやりやすかったと思われます。

ベトナムからの難民

4)北ベトナムが南ベトナムを統一した際(1976年)、大量のベトナム難民が逃げ出した。英国は香港当局の反対を顧みず、香港をベトナム難民第一収容港にすることを国連に承諾。最も多い時期で香港は60万人のベトナム難民を収容し、香港に非常に重い財政と社会的負担を与えた。その後、英中会談(1983年~)で香港返還問題を話し合い、英国は1997年(返還の年)までに徹底してベトナム難民の香港滞留問題を解決すると回答。その後、大量の難民が米国、カナダ、オランダ、ドイツ、フランス、スペイン、オーストラリア、ニュージーランドに移った。ベトナムは中国の圧力で、難民の帰国を許可し、約15万人の難民がベトナムへ戻った。最後、5万人の難民が行くところなく、香港居民に帰化し、香港身分証を取得して、香港のベトナム難民問題は解決に至った。

香港には、ベトナム料理の店が多いのですが、こういう事情があったのですね。

インドのシク教徒、スリランカのタミール族の難民

5)1980年から1988年にかけて、国連難民高等弁務官事務所の指導と欧米の財政支援の下で、中国は南アジアから2万以上のインドのシク教徒難民と、スリランカのタミル人難民を受け入れた。これらの難民は国連難民高等弁務官事務所の難民証明を持ち、毎月の生活費は欧米などの国々から寄付されていた。その後大部分は米国、カナダ、ドイツ、イタリア、スペインに移り、少数が北京、広州、昆明に留まった。

シク教徒難民について調べてみると、1980年にインドでシク教徒弾圧があったそうなので、その関係かも知れません。

タミル人難民は、スリランカ内戦(1983年~2009年)の際のものと思われます。

中国はあれでも一応、国連で代表権を持つ常任理事国なので、国連加盟後に中国の周辺で難民問題が発生すると、対応せざるを得ない…という事情があるのでしょう。

北朝鮮からの難民

6)1997年の北朝鮮の大規模飢饉が発生し、数十万の難民が中国に越境逃亡し、主に吉林省の朝鮮族地域に隠れたが、中国政府は基本的に黙認政策を取った。多くの難民は結婚などの方法で中国国籍を取得した。その後、米国、日本、韓国などの非政府組織の計画により、一部の難民が北京の大使館などで頻繁に悪性外交事件を引き起こした。中国は北朝鮮との交渉と国際社会との二重の圧力の下、難民の捜索・逮捕と朝鮮への送還を行ったが、強制送還された難民の数は少なく、多くは継続して中国に潜伏した。一部の難民は国連と中国の協力により、モンゴル、フィリピン、カザフスタンに移され、一部は新疆へ移った。

 文中に一部「むむ!」というところはありますが、何卒ご容赦下さい。私は中国語を訳しているだけです。

中国の「難民受け入れ」の立場

上掲の中国語の説明は下記のように締めくくられています。

中国は人口が多いため、大量の外国難民を長期に渡って受け入れることができない。そのため、中国は継続して難民を受け入れてきた国ではないが、中国は長期的に国連の難民支援活動に財政的支持をしており、毎年大量の寄付と物資提供を行っている。1979年から1989年の10年間で、中国がアフガン難民に提供した寄付は平均で毎年1.2億米ドルである。

 その他の難民

他に私が知っている中国が受け入れた難民の事例は3つあります。

ロシア・ソ連からの難民

中国には55の少数民族がいると言われていますが、その中に「ロシア族」というのがあります。

百度百科で「ロシア族」の説明を見てみると、「中国籍ロシア族」は十月革命の後、戦乱を逃れて中国へ移民した末裔である…とあります。

1929年にソ連で集団農場が実施された時にも、ロシア人が中国に逃れてきたそうで、私もその時の難民に会ったことがあります。

「ロシア族」は主に新疆のイリ、黒竜江省、内蒙古などに分布しており、2000年のデータで15609人が確認されています。

ミャンマー:コーカンからの難民

2009年8月にミャンマーのシャン州北部のコーカン特区で内戦が発生。この際に1万人近く(一説によれば数万)が中国側に難民として避難しましたが、この時の難民の多くは「コーカン族」と呼ばれる華人と思われ。

そういう点では、1960~70年代のインドネシア、ベトナム、カンボジアからの華僑難民と似ていますが、コーカンの難民の大半は内戦後、短期間で中国からミャンマーに戻っています。

ミャンマー:ロヒンギャの難民

ミャンマー・ヤカイン州に居住するロヒンギャ人はイスラム教徒です。ミャンマーでは仏教徒が多数派であるため迫害を受けており、本来バングラデシュなどとの間で頻繁に移動していたため、ミャンマー側では「存在しない人々」として扱われ、無国籍の状態。

2012年にミャンマー人との間で民族衝突が発生し、迫害や殺害を恐れて多くのロヒンギャが国外へ逃れました。

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百度百科より

雲南省の2ヶ所で計2万人のロヒンギャ難民が収容されている…といわれていますが、実態は不明。2万人は多すぎるという説もあれば、4万人という説もあります。

「難民受け入れ国」としての中国

こちらで取り上げた中国の難民受け入れの事例を整理してみると、

  • 国境を接している周辺の国で政治的混乱や内戦、飢餓などがあれば中国に逃げてくる人は今も昔もいる。
  • ロシア・ソ連からの難民は中国に帰化して、中国の「少数民族」に加えられている。
  • 中華人民共和国になってから国連加盟前の難民は主に華人。
  • 国連加盟後には、常任理事国の立場もあってか、周辺国で難民が発生すると受け入れることもあるが、基本的には元の国に戻るか、別の国へ移動してもらっている。一部の難民は中国に帰化している。
  • 北朝鮮からの難民は基本的に、黙認政策をとっている。

…となります。

現在の中国の難民受け入れ数

▲現在、世界には6530万人の難民がおり、

▲よく話題になるEU加盟国への難民は125万5千人。

▲全国難民弁護団連絡会議のウェブサイトを見ると、中国の難民受け入れ数は30万とあります。

この数を多いと見るか、少ないと見るかは、人それぞれの判断によると思いますが、日本より遥かに多いのは明確です。日本ではあまり報道されていないためか、印象が薄いのですが、中国が難民を受け入れているのは確かな事実なのです。