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「八月十五日」の直接の始まりは1941年12月8日だし、これの原因は1937年7月7日だ。
「始まり」を決定する「聖断」がなければ「終戦の詔勅」もなかった。
すなわち「戦争を終わらせるご聖断」もなかったということ。
もちろん天皇だけでは戦争ができないし、昭和天皇は好戦者ではなかった。
「開戦の詔勅」(1941年12月8日):昭和天皇は、国民に向かって戦争の目的が「自存自衛」であり、それを遂行することは天皇の祖先の遺業を広めることになるので、臣民は心を一つにして総力を挙げ、忠誠心と武勇心を発揮してくれ、信頼していると述べた。
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開戦の決断もまた「聖断」。
国家の艱難にあたっては近代の天皇はたびたび国民にむかって呼びかけた。
とくに戦争の時はそうであった。
呼びかけたのは兵士だけではなく、男子だけでもなく、数千万人が住む植民地も含めた帝国臣民すべてであった。
統治権の総攬者である天皇であったが、総力戦になるほど国民との一体化を言葉にした。
武装解除して戦争犯罪人を罰し民主的な政府樹立などを盛り込んだポツダム宣言受諾を回答したのは8月14日だが、「終戦」を記念する日は8月15日。
昭和天皇が直接臣民にラジオで「終戦の詔勅」を読み上げたのが8月15日だからだ。
天皇は「国体ヲ護持シ得テ」「臣民ト共ニ在」ることを述べた。
戦争遂行の象徴としての軍部を切り捨てながら、一方で天皇と国民との間の紐帯は戦前型の共同神話には無いとの新たな神話を創生していくことになるので、敗戦は同時に「終わり」であると同時に「始まり」でもあった。
そのうえに国民主権が成立した。
かつて天皇が呼びかけた臣民が主権者になった。
敗戦にいたるまでの間、天皇側近の木戸幸一の日記によれば昭和天皇が気に掛けていたのは、皇統が途絶えないか、皇室の存続は可能か、三種の神器が占領軍に奪われないかであり、皇祖皇宗や明治天皇にすまないという気持ちも見せていた。
だが護持しえたと神話化されたものは天皇と国民の共同体であった。
主権者・大元帥と臣民という関係ではなく戦前の共同神話から君民一体だけを救済して主権在民を謳っていくことになる。
言語化されなかったが、それは、戦前の国体思想の一部を継承しながら、それを象徴天皇制として肥大化させ、主権在民の「民」を実体化する、生まれ変わった国体に他ならなかった。
そういう新たな国家の共同神話が形成されていくはじまりが「八月十五日」であった。
先ほども言ったとおり救済=護持されたのは天皇と国民であった。
「終戦記念日」として「終わり」を記念するのではなく、何かが「始まった」日として(単なる民主国家が生まれたとかではなく)想起する日でもある。
>わたり たかのり 当時は立憲君主の時代。いまのような民主主義は認められてなかった。故に終戦も昭和天皇の「聖断」なくしては終われなかったのだ。その後、価値観は180度転換した。
宣戦布告もまた天皇大権(明治憲法13条)であり、開戦は天皇の「聖断」なくしてはなしえなかった。
Nスペ「決断なき原爆投下」を見た。
米軍は原爆の威力を示すために投下しようとし、その意図を知ったトルーマン大統領は反対することもできず、ずるずると8月6日と9日を迎えた。
米軍兵士や日本の子供を救ったというのは事後できた神話であったと。
>ばる 今日の朝日新聞の天声人語から。『作家の保坂正康さんが、特攻機の整備兵だったという老人のことを述べている。突然訪ねてきた彼が語ったのは、飛び立つ日の特攻隊員の姿だった。失神する、失禁する、泣きわめく。きれいなことを言って飛んでいった人もいたが、ほとんどは茫然自失だった。
>ばる 「それを私たち整備兵が抱えて乗せたんです」(『戦争と天災のあいだ』) これ読んだ時、気が変になりそうだった。「抱えて乗せた」…どちらも地獄。でも、これが現実なんだろう、こんなもんだったんだろう。本当に戦争は地獄でしかない。
>Mighty Jack 亡き父から同様の話を聞いた。 「明日出撃」と聞くと、端から見てもみるみる顔色が真っ青になったと。 前夜、赤線で泥酔し暴れるものもいた。憲兵がやってきても「特攻隊」と聞くとそのまま帰った。 そして、最後は覚醒剤を使った、と。
特攻兵器「桜花」での出撃兵を指名する任務、なかには親友も。
指名された親友は「光栄の至りです」と(若い人は想像できるでしょ、自分の親友を指名するんだよ) 〜特攻命じた苦悩、贖罪の旅 娘ら3世代、足跡たどる:朝日新聞デジタル
https://t.co/d71DeuGDQj
>シン・鳥 フォルダーに入ってた写真から。 本物の掩体壕の中に展示されている、特攻兵器「桜花」のレプリカ。機首に1.2トンの爆薬を積んで、目標物に体当たりするだけ、着陸用の車輪ナシ、脱出装置ナシ、この発想、何度見ても鬼畜の所業だと思うわ。


>曽我逸郎 桜花は固形燃料数秒噴射し落下速度上げるだけ、自力で離陸できない。母機につり下げられ高高度で敵艦めがけ切り離す設計。遙か手前でレーダーに捉えられ戦闘機が待ち伏せ。重量オーバーの桜花下げてよたよたの母機もろとも七面鳥撃ちの餌食。愚策
8月15日の安倍首相の戦没者追悼式式辞は加害責任に触れていない?
そうでしょう。
わかっていること。
だがあの戦争、明らかに国が自国の兵士を殺している。
なのに首相の言葉は「祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥かな異郷に亡くなられた御霊」とは。
追悼の首相の言葉は表面的に綺麗なだけだ。
追悼する自己に酔っている。
なぜなら加害責任だけではなく、自国の兵士や市民をみすみす殺したことへの敗戦責任すら口にできないのだから。
その犠牲は「平和と繁栄」のためだったと言うのが空々しい。
敵に撃たれるわけでもなく戦地で餓死した兵士は日本兵の全戦死者の6割強(藤原彰『餓死した英霊たち』)。
泣きわめき失神する若者を整備兵たちが特攻機に抱え入れる。
自力で脱出することができない特攻専用機「桜花」に乗り込む兵士を指名する上官。
これら兵士に対する省みる姿勢がないのが今の首相。
敗戦直後の黒塗り教科書を当時国民学校の生徒が回想。
「〔教科書が〕無惨にも黒々と塗られていくのを見て、惜しくて惜しくてたまらなかつた。…少しも感情の動きを見せずにいる先生の態度に、不信を抱いた」唐澤富太郎『教科書の歴史』(創文社 1956年)611頁。
断絶が無かったかのような教師。
とくに1941年から45年の間は、それまでの近代的価値追求の歴史にとって泡沫的な断絶の時代だったのか。
「始められた戦争」が「終わった」とたん、それまでの「近代」の歴史が再起動したという感覚なのだろうか。
少なくともあの戦争への主体的な向き合い方を脇に置けば、そう総括できたのかも。
>正道有理 ありがとうございます。戦後の人権感覚はGHQによって持ち込まれたかのような議論が横行する中で、戦前の日本において、西欧の自然権や社会契約論のような考え方が生まれたのはいつ頃か。また、それが戦前〜戦後にどのように存在し続けたのか。少し興味があったので‥‥。
開明的な知識人や民権思想家たちをはじめ、明治憲法を作った官僚たちも西欧発の自然権思想をちゃんと受容しています。
日本近代史の通史・概説書(岩波・集英社・講談社・小学館・中央公論など)ぐらいでもいいのでご覧になって下さい。

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