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北の考古学─日々の着想

2016-08-16

蛇行剣とはなにか


南九州に中心をもちながら、茨城・新潟以西で出土している古墳時代の蛇行剣について2016.4.9記事でのべたが、これが蛇を模した剣である可能性は、その形状から容易に推察できる。「蛇行」の名がついたのも、そのような素朴な認識にもとづくものであろう。そこで、小池寛2003「神話と蛇行剣」『考古学ジャーナル』498を読む(こんなことしてる場合じゃないんだが、とりあえず宿題を二つ終えたので、息抜きくらいしてもよいであろう)。

論文では、この蛇行剣について、「中国における蛇龍の概念が、5世紀の東アジアの胎動のなかで倭国に伝播し、首長が所有するに相応しい武器として生成」したものであり、「古墳時代中期に出現する大陸起源の概念を有する威儀具」であったとする。俯瞰的な視点は重要であるが、分布からすれば南九州ローカルの刀が全国展開したようにしかみえないのであるから、この結論は説得力を欠く。

小池は、蛇龍の信仰が縄文時代から弥生時代にかけて存在したらしいことを考古資料から論じている。では、なぜそのような在来信仰が蛇行剣と結びつかなかったといえるのか。

同論文では、弥生時代の蛇が稲作に被害をもたらすネズミの捕食者であり、さらに蛇が男根を連想させ、したがって種の神や豊饒を連想させることから、「農耕神」になっていたと説く。そして、この農耕神としての蛇龍の概念は、古墳時代前期の首長にはふさわしいが、「司祭者から武人へ」変貌を遂げた古墳時代中期の首長が、「牧歌的な農耕神と深く結びつく蛇龍の概念を武器に写し取ることは、著しく蓋然性が低い」とするのである。後段の論理はどうみても無理筋である。

谷川健一は、古代海民の蛟蛇信仰についてくわしく論じているが、そのような海民の信仰にもとづいて、蛇行剣が海民である「隼人の剣」として成立したと考えるのが、考古学的な状況をみれば、もっとも自然なのではないか。そして、強い霊力や守護の力を帯びていたにちがいない蛇行剣が、各地の海民系集団以外の首長にも強く求められたであろうことは、隼人が畿内およびその周辺に移配され、その呪能によって王権を守護していた事実からも、容易に察することができる。

ところで小池は、『古事記』『日本書紀』の、スサノオが出雲国の肥川・簸川の上流でヤマタノオロチを退治した記事中、その体からあらわれた草薙剣に注目し、蛇龍と剣は密接な関係にあるとしながら、日本神話に登場する蛇龍は中国神話に酷似することから、そこには「記紀成立以前の伝統的な概念は反映されていない」とするのであるが、これはいかがなものであろうか。

出雲もまた海民の拠点であり、さらに縄文時代から古墳時代にかけて、天草地方など九州西海岸の海民集団と深い関係を結んでいたことが、土器や古墳の石室構造などからうかがえる。両地域の海民間の関係は、『肥前国風土記』と『出雲国風土記』の、海の神が山の女神を求めて毎年川を上るという同一モティーフの海民伝承にも認めることができる。龍と剣の関係は、これら海民集団のなかに存在した信仰にもとづくものだったのではないか。

そこで注目したいのは、海幸彦・山幸彦の神話において、海の神であるワニに小刀を帯びさせて帰したことから、海の神が「佐比持神」(刀剣をもつ神)と呼ばれていたこと、さらに稲飯命が、熊野の海で暴風雨を鎮めるため剣を抜いて海に入り、「鋤持神」になったという(『日本書紀』)、海民の伝承がもとになったとおもわれるモティーフである。つまり海民のあいだでは、海の神が剣を帯びた神と認識されていたのであった(2016.6.16「アイヌ伝承の海幸彦・山幸彦について考える2」記事)。

剣を身中に蔵していたというヤマタノオロチの記事は、このような海民の伝承が反映・脚色されたものなのであろう。そもそも、山の神の娘を食うため、毎年(おそらくは海から川を上って)上流域へやってくるというヤマタノオロチのストーリー(『古事記』)は、先の『肥前国風土記』と『出雲国風土記』における、海の神が山の女神を求めて毎年川を上るという海民伝承のモティーフを踏襲しているのである。

隼人の蛇行剣とは、このような海民の思想を具現化したもの、すなわち海の神が帯びる剣であり、それゆえ海の神の霊力の源泉であり、したがって海の神そのものであった、ということができるのではないか。

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