深夜のテンションってあるよね。
なんだか恥ずかしいようなことも書けちゃうような、朝読み返したら後悔しちゃうような、そんなやつ。あるよね。今日はそれ。
スモール化現象
最近はね、「世界中の」とか考えなくなったんだよね。
ん?なにそれ?って人に説明しておくと、すこし前のしみ青年はとってもハピネスな男の子で、夢見がちな学生で、「世界中の人たちが幸せになればいいな」とか「世界中の人たちと肩組んでピースフルに生きたい」とかそんなことを考えるような青年だったんだよね。
もちろんそれは今も考える。今も考えるんだけど、あの頃のソレとはちがくて、今はもう少し思考がスモール化したんだ。そのスケールじゃなくなったというか、いい意味でね。
幸せなスモール化。それが今日のテーマ。
小さな個人の集合体
ぼくの呼んでた「世界中」ってのはさ、深く深く掘っていくと結局は「ボクとかキミみたいな一人一人の小さな個人の集合体」のことでさ、
それぞれに個性があって生き様があって家族があって経験があって感情があって、それをひとくくりに「世界中の」って言っちゃうのはなんか違ったというか、もっとバリエーションのあるものだし、もっと深くて色濃いものだろうし、もっと身近なものだよなって思ったんだよね。
たとえば
「みんなが笑ってる世界」とかは理想なんだけど、それぞれに笑う理由はちがくて、そのときの感情はちがくて、笑うことの意味もちがくてさ、そんな大きくて個人差のあるもの、おれには推し量れないなって。そう思ったわけ。意味わかんないよね。深夜だから許してね。
自分が映す世界の中で
世界を映してるのは間違いなく「自分」なんだからさ、「自分」が幸せに笑っていられたら、ともに笑っていられる周りの環境や人ならば、自分には世界は幸せに見えているはずで、その「自分が見ている世界」がすべてだと思うんだよね。
それは自分勝手だとか白状だとかそうゆう問題じゃなくてね。たとえば自分が悲しい気持ちだったら目の前の世界はなんだか悲しく見えちゃうし、自分がハピネスな状態だったらイチローよろしく、悲しいことでもなんでも打ち返せちゃうんだよね。
つまり自分というレンズを通して世界をみていて、ピントを合わせるところも自分で選んでるってこと。だからそのレンズが曇ってたら見える世界は曇るし、透き通っていたら綺麗に見える。
たぶんこれが「すべては自分次第」と言われる所以で、ネガティヴなレンズを付けている人の横でなんともメルヘンチックなレンズを付けているぼくは四六時中ゲラゲラ笑っていたりする。
自分から広げていく世界
でね、ささやかながら少しでも世界を幸せにしたいと思ったしみ青年は考えたわけだ。こんなに無力な僕が、ちっぽけな僕が、なにかすこしでも世界にハピネスな動きを与えていくにはどうしたらいいのか。
そんな果てしなく壮大なスケールの中で考えて出た答えが、「自分」を幸せにするところからだな。ということ。なんだかスケールがすんごく小さくなっちゃったんだけどこれが僕なりの全力の回答だった。
ぼくは、友達が幸せな状態でいてくれたら嬉しい。いつもネガティヴなあいつがニヤニヤしていたら嬉しい。メンヘラなあの子がクシャクシャな笑顔で笑っていてくれたら嬉しい。大好きな家族が元気でいてくれたら、幸せでいてくれたら嬉しい。
この「幸せでいてくれたら嬉しい」という気持ちに気付けちゃったときに、ぐるんぐるんと考えがめぐって、すぐさま全員着席させて脳内会議を始めたわけだ。その議事録がこの記事なわけだ。付き合わせてごめんな。
ぼくが誰かに対して「幸せでいてくれたら嬉しい」と思うってことは、誰かがぼくに対しても「幸せでいてくれたら嬉しい」と思うはずなんだよね。
ぼくのことを大切に想ってくれる人たちはたぶん、「ぼくが幸せでいてくれたら嬉しい」わけだ。ぼくが相手にそう思うのと同じように。
つまりぼくが幸せでいることが、誰かを幸せにしているんだよね。
そこから波紋のように広げていくんだ。まずは自分から。自分を幸せにするところから。
自分を幸せにする責任
でねでね、自分を幸せにするのは自分の責任なんだよね。誰にあるわけでもない。自分を幸せにできるのは自分だけなんだ。幸せを感じるのは自分だから。
これを分かっていない人が多いし、ぼくも分かっていなかった。「自分が我慢して耐えていれば人が幸せになる」とすら思っていた時期もあった。
そうじゃなくて、自分が幸せだからそれを見ている周りも幸せになる。「誰かのために」と思って自分を犠牲にしてでもおこなったことは、その「誰か」にとっては不本意だったりして、
「自分を犠牲にしてまで私のためにしないでくれ。自分の幸せのために生きてくれ。」と思われたりする。大切であれば大切であるほどそう思うのだとおもう。
たとえば自分の息子が、親(ぼく)ために自分を犠牲にしていたら「いやいやお前は自分の幸せのために生きてくれ。おれなんかのために自分を犠牲にしないでくれ。」と思う。
ようするに何が言いたいのかというと、自分を幸せにする責任は自分にあって、それを放棄して他人のために生きている人が多くて、そのために自分を犠牲にしちゃってる人には気付いて欲しかったりする。
ここでいう他人ってのは、社会とか世間体とか上司とかそうゆうものね。
まとめるね
長くなったからまとめるね。深夜のテンションだから読みづらくても許してね。
おそらく僕が夢見ていた「世界」といわれるものはそんなに遠いところにあるものではなくて、もっと身近にあると思っていて、もう極論を言っちゃうと「自分=世界」だということ。
自分が世界をどう映すか、次第で世界は変わるんだよね。あんたのレンズ次第ってなわけだ。
世界中の人が…じゃなくてね。自分=世界ってこと。「世界中の人たち」と言ってる時点で他人事になっていて、遠い気がして。じゃなくて「自分」だと。
だから今この瞬間から世界(自分)と向き合うことはできて、世界という言葉のスケールを大きくしすぎずに、ひとまとめにせずに、小さく小さくスモール化して、すべてのコトは一人の「自分」という人間のなかの世界で作られているのであって、それが投影されているのが僕らのイメージしている「世界」ってやつで、
いま世界が楽しく見えるのは、自分が楽しいからで悲しく見えるなら自分が悲しいからで、オモシロイ世界だと思うなら自分が見える世界をオモシロがれてるのだとおもう。
つまりのつまり、誰かを変えようとするんじゃなくて、社会を変えようとするんじゃなくて、まず自分を変えるところからかなって。
そして瞬間瞬間の人との出会いが素晴らしいなあとおもうのは、この一人一人の自分(世界)が出会うような感じだからなんだよね。世界が繋がる感覚。
とまあこの記事もメルヘンチックなレンズ全開なぼくが書いた文章なわけで、ぼくはそんな世界の住人なわけです。たぶんずっと。居心地がいいんだ。これがぼくの幸せ。
自分とちゃんと向き合って、自分を幸せにしてあげて、そのことが近くにいるだれかを幸せにしていて、その人も自分の幸せについて考えはじめる。
世界とは自分であって、世界中のことを考えるということは「自分」を考えること。そこから始まっていくんだよ。今この瞬間のあなたから、全部が始まっていく。未来はにやにやしちゃうくらいイイトコロなんだよ。知ってた?
世界はいつも取り返しがつかなくて
— しみ (@shimi_yurutabi) 2016年8月16日
僕たちはいつも思いがけない。
温かいギターは夜を冷やす。
曇った君の声は僕を走らせる。
ハロー、いま、君に素晴らしい世界が見えますか。
ぽあだむ / 銀杏BOYS
「幸せでいてくれてありがとうね。」
そんな言葉がいつかみんなを繋いでいって、世界中のひとが幸せになったらいいなあ、と思うぼくはまだまだスモール化できていないわけで。