球界のご意見番・豊田泰光さん、死去
1950年代に“野武士軍団”といわれた西鉄(現西武)の中軸打者として活躍し、引退後はテレビ、ラジオ、野球専門誌などでの評論で人気を博した豊田泰光(とよだ・やすみつ)氏が14日午後、誤嚥(ごえん)性肺炎のため、川崎市内の病院で死去した。81歳だった。茨城・水戸商から53年に西鉄入りすると、すぐに遊撃手のレギュラーとして活躍し新人王に。56年には首位打者(3割2分5厘)にも輝いた。現役引退後は舌鋒(ぜっぽう)鋭く球界のさまざまな問題に斬り込んだ。
58年の日本シリーズ、3連敗4連勝で巨人を倒すなど、西鉄の黄金時代を支えた強打者が静かに逝った。
長男・泰由さん(57)によると、豊田さんは5年ほど前から認知症を患い、ここ数年は表舞台に出ることはほとんどなかったが、昨年7月から川崎市内の老人ホームで元気に暮らしていたという。亡くなる3日ほど前に40度の高熱を出して緊急入院。その後はテレビで高校野球観戦できるほどに回復したが、14日には「もういいかな、というようなことを言い出した」(泰由さん)。その夜、眠るようにして亡くなった。
水戸商3年時の52年夏の甲子園に出場。開会式では選手宣誓を務めた。高校ナンバーワン遊撃手として高い評価を得て西鉄入り。1年目からレギュラーとなったが、シーズンで45失策を記録するなど守備の不安を露呈。投手陣から不満の声が上がったものの、三原脩監督が我慢の起用を続け、最終的には打率2割8分1厘、27本塁打で新人王を獲得。27本塁打は86年に西武・清原和博に破られるまで高卒新人の最多記録だった。
56年には打率3割2分5厘で初の首位打者に。わずか5毛差で同僚・中西太の戦後初の3冠王を阻んだ。日本人遊撃手として初めての首位打者でもあった。日本シリーズでは56年にMVP、57年に優秀選手賞に輝くなど、56年からの3年連続日本一にも貢献。球界の常識を覆す「強打の2番打者」として“流線形打線”の中核をなし、中西、大下弘、仰木彬らがそろう野武士軍団を引っ張った。当時の野球評論家・小西得郎氏は巨人・広岡達朗、阪神・吉田義男、豊田さんという球界を代表する3人の遊撃手を「吉田は絹糸、広岡は麻糸、豊田は木綿糸」と例えた。
その後、63年に国鉄(現ヤクルト)に移籍。65年に右肘手術を受け、徐々に出場機会を減らしたが、68年には中日戦で史上初の2試合連続代打サヨナラ本塁打をマーク。勝負強さの片りんを見せた。
69年を限りに現役を引退。72年に1年間だけ近鉄で打撃コーチを務めたが、主な活躍の場は評論活動だった。球界の御意見番としてさまざまなメディアで、その時々の野球界の問題に鋭く斬り込んだ。時に辛辣(しんらつ)だったが、これも野球界への愛情の裏返しだった。「週刊ベースボール」では「豊田泰光のオレが許さん!」のタイトルで94年から13年まで、日本経済新聞でも「チェンジアップ」のタイトルで足掛け16年、コラムを連載した。日経新聞の連載は13年12月26日付が最終回となり、最後のテーマは「球界は永遠ならず」だった。
◆豊田 泰光(とよだ・やすみつ)1935年2月12日、茨城県生まれ。小学生の時から野球を始め、水戸商では52年夏の甲子園に出場して16強。立大、早大から声が掛かったが、西鉄から熱心な勧誘を受けて福岡へ。新人王をはじめ、首位打者(53年)、ベストナインを6度(遊撃手として56、57、59~62年)獲得。日本シリーズでは56年に打率4割5分8厘、1本塁打、4打点でMVPに。63年に国鉄(現ヤクルト)に移籍し、69年限りで引退。57年にはプロ野球選手として初めてレコードを吹き込み、映画の出演経験もある。06年に野球殿堂入り。
訃報・おくやみ