光秀は美濃の名族だった
※画像はゲーム「太閤立志伝5」から引用しました。
明智光秀は、突然のクーデターで主君・信長を倒したので、
野心家で怖い人というイメージがあります。
そもそも、信長に反旗を翻した理由も、
パワハラ説や朝廷勢力などの陰謀説もあり、
確かなことはよくわかっていません。
そんな光秀は美濃の土岐氏の一族で、
彼の叔母は下克上で有名な斉藤道三の妻だったといいます。
しかし越前の朝倉家に仕官する前の光秀は、
まったく鳴かず飛ばずの日々が続き、
妻が長い髪を切ってお金を工面して生活を支えたこともありました。
明智光秀はこのことに感謝して、
側室があたりまえだった時代に彼女だけを愛したといいます。
(異説あります)
ちなみに、この夫妻の間に生まれた娘が、
女性キリシタンとして有名だった細川ガラシャです。
さて、そんな光秀ですが、
なかなか柔軟な発想を持っていたようですね。
ちょっといい話があったので、ご紹介しますよ。
仕事場は耕せない土地
光秀が足利家臣の細川藤孝という武将のもとで働いていた頃、
米田という侍から、嫌がらせを受けたことがありました。
彼は主君の藤孝から、
光秀の面倒を見るように言われていたのですが、
どうにも反りが合わず、ことあるごとに辛く当たっていたのです。
あるとき、光秀は開墾の仕事を命じられたので、
担当の場所である畑に出かけました。
ところがそこは、石ころばかり出てくるやせた土地で、
作物を育てるには非常に難しい環境でした。
困った光秀は、
「仕事にならないので、違う畑を与えてください」と言ったんですが、
米田は「浪人あがりの新参者のくせに、生意気な 」と、
まったく取り合ってもらえませんでした。
そんな折、光秀は織田信長の噂を聞きました。
信長は「才能がある者には身分を問わず仕事を与える」という、
開明的な思考を持つ大名だったので、
光秀は彼に仕えようと、一大決心します。
そして・・・
光秀は信長のもとで異例の出世を果たし、
近江の国(いまの滋賀県)にある坂本城を任せられるようになりました。
めぐり合わせとは不思議なもので、
光秀は米田と再会することになりました。
かつてバカにしていた侍が一国一城の主になったので、
米田は慌てて逃げようとしましたが、
光秀は、彼を呼び止めると次のように言いました。
『米田殿、あのときの貴公の仕打ちを、わしは恨んでなどいない。
いや、むしろ貴公があのように言ってくれたおかげで、
決心がつき、織田家に仕えることができた。
今日、わしがこうしてあるのは、貴公のおかげやもしれぬな』
米田は思いがけない光秀の言葉に、
ただ恐縮するばかりだったそうです。
家康をサポートした光秀?
転職はいつの時代も難しいものですが、
光秀はたぶん、織田家も辞めようと考えていたんでしょうね。
信長が目指すものと、自身の考えがまったく違うことに、
気づいてしまったからなんですよ。
実は、本能寺の変の直前に、
明智領の丹波が召し上げになってるという説があります。
信長は「戦って敵の領地を奪えばよい」と言ったそうですが、
必ず勝てるという保障はありません。
光秀は羽柴秀吉との出世競争にも疲れたらしいですし、
諸々の複雑な政治的事情が絡み合って、
「敵は本能寺にあり!」と叫んだんでしょうね。
もし、彼が三日天下ではなく、
征夷大将軍になって国を治めていたら、
現代日本はどんな風に変わったのか、かなり興味があります。
秀吉との山崎の戦いのあと、
小栗栖の竹薮で死んだといわれる光秀ですが、
天海という僧侶となって、徳川家康のブレーンになったといいます。
これが真実かどうかは今後の研究が待たれますが、
歴史のIFを考えることは面白いですよね。
妙香のまとめ
光秀の話には参考になることがたくさんありました。
「貴公の冷たい仕打ちのおかげで、
信長に仕えることができた」というのは、
「あのまま細川家にいたら、
俺はこんなに出世はできなかったぞ」という意味です。
感謝の気持ちもあるとは思いますが、
自分を低く見ていた者に対するリベンジとも言えますね。
私の話になってしまいますが、
ツイッターまとめブログに検索流入を奪われて、
一度はてなをやめる事態になりましたが、
先日、そのことを記事にしたらものすごいPVを記録しました。
3日間で約2200です。
元のブログで失った分を取り返せてはいないと思いますが、
まさに「災いが転じて福となった」現象でした。
失敗をいつまでも引きずっていては進歩がありません。
おかげ様で、同じ轍を絶対に踏まないと決意できましたよ。
何事もそうですが、マイナスをマイナスのままにせず、
プラスに変えてやろうという心意気が大切ですね。
※ご注意
名将言行録等の逸話に基づいた記事ですので、
内容は史実と異なる場合があります。