このブログを始めるずっと前から知ってますよ。
本当に、お上手ですね。
とみさん、
一緒に、頑張りましょう。
もう、おやすむね。
ありがとう。
隼人さん
隼人さんの身体は男だったが
心は女だった
どこまでも気の優しい人だった
恋人と別れるとお店に出てこなくなる解り易い人だった
あちらのことはよく分からないが
少数派の世界では
恋人を失うことというのは大変なことらしい
3日も4日も塞ぎこむ
「隼人さん、またらしいよ」
この一言でみんな状況を察知した
沖縄の出身で琉球グラスをこよなく愛する人だった
その昔
隼人さんは東京からオネエ軍団を引き連れて
沖縄でのライブを観に来たことがある
帰郷も兼ねて観に来たのだ
ライブでの盛り上がり方は常軌を逸していて
僕たちが怖くなったのは想像いただけたと思う
翌日
お礼も兼ねて「兄妹」織り交ぜてゴルフコンペをやった
隼人さんは年上なのに僕のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ
コンペに際し「お兄ちゃん」から一言約束があった
「キャディさんに知られると僕たちが疑われるから
キャディさんの前では決して素性がバレないように」
オネエ軍団は声を揃えて
「押忍!」
と言った
そして1番ホール
「じゃぁ、〇〇からね、行ってみよう!」
「押忍!」
第1番ドラーバーショットは
「おりゃー!」
から始まった
でもこの約束には無理があった
3番ショートホールで
もはや始まったのだ
オネエのひとりが空振りをした
「おりゃー!いや〜ん!」
隼人さんが咳払いをする
みんなキャディさんを振り返ったが無表情だった
次のホールでも
「もう!なんでっ!バッカン!」
とやり始めたのだ
薄々感じ始めていたキャディさんが声を上げて笑い出した
隼人さんは
「おっらぁ!いくぞー!」
と頑張っていたのだが
お兄ちゃんは約束解除を発令した
伸び伸びやらせて上げたくなったのだ
「うっそー!? お兄ちゃん、いいのー?」
僕は無言で顔を縦に振った
その後のホールはすざましい展開となった
あちらこちらでオネエ言葉が炸裂している
キャディさんは大喜びだった
その後の光景はもう覚えていない
ゲームを終えてキャディさんにチップを渡そうとしたとき
「こんなに楽しい仕事は始めてでした
私たちがチップを差し上げていいですか」
と言われた
隼人さんが逝ってからもう何年経つだろう
肝臓を壊しては病院に入る日々が続いていた
「ダメだよ」
と再三言ったのに
お客さんに煽られるとウケ狙いで
ウィスキーの一気飲みをしてしまうのだ
最後はとうとう肝臓がカチカチに硬くなり
そのまま別の病気を併発して逝ってしまった
もくもくとひとりで生きて来た隼人さん
恋人を失って打ちひしがれることがなくなった隼人さん
もう従業員の生活を心配しなくてもすむようになった隼人さん
男気のあるオネエのような男の中のオネエだった隼人さん
隼人さん
東京の空は今日も晴れていますよ
MTVアンプラグド。「楽しかったか?」。手放しで、楽しかったとは言えません。あの1時間20分は、ただ必死でした。「700番」にも書きましたが、世界的なアーティストが、ライブの不出来で、放送中止になったことが、頭から離れない中でのライブだったからです。このブログでは「縁」や「不思議なできごと」がいくつか登場しましたが、この話もその手のものです。
アンプラグドのリハーサルは、毎日しつこいくらい行いました。外国人ミュージシャンは、その気迫が伝わったのか、毎日僕たちに付き合ってくれました。
ドラムのニール・コンティの話をします。彼は、当時、ヨーロッパを席巻した「プリファブ・スプラウト」のメンバーでした。ピアノのジェス・ベイリーが声をかけ、口説き落として、このセッションに参加してくれたのです。スネアの音色、彼独特のグルーブが売りでした。彼は、スタジオミュージシャンとしての毎日を送っていたのですが、親友のジェスに付き合ってあげるという気持ちでのアンプラグドセッションとなったのです。日本のミュージシャンのサポートには、きっと興味はなかったのでしょう。初日のリハーサルでは、その音色、テクニックに魅了されたのです。しかし、数日間、どこか納得のできないプレイをしました。言葉は悪いですが、上から目線なのです。要求を聞きません。同じ曲を、何度もやることに真摯な態度が見受けられませんでした。
「OK!」
とは、言うものの、僕らに寄り添ってこないのです。リハーサルにもいちばん最後に現れ、終わるとカットアウトのような帰り方をしました。それでも、音の鳴りはさすがでした。腫れ物に触るような存在でしたが、それでも彼とやれるという喜びでリハーサルは行われました。集められたミュージシャンは、ロンドンのトップクラスのメンバーです。他のメンバーは、僕らに敬意を払ってくれましたが、ニールだけはそうではありませんでした。1曲、1曲の完成度は高かったのですが、途中から思うことがありました。歌いづらいのです。ボーカルが伸び伸びとできないのです。サウンドに気を遣いながら、やっと歌っているという状態でした。毎日が不完全燃焼でした。僕は、歌を歌うとき、歌を揺らします。
この瞬間は、溜めて歌ったり、または突っ込んで歌ったりと、様々に変化させながら歌います。それが、どうしてもできないのです。僕の歌が歌えないのです。
エモーショナルな表現ができません。安全に言葉を置きにゆくという歌い方になってしまいます。歌い終わった後に満足が残らないのです。1週間を過ぎた辺りで、それが何故なのかに気がつきました。ニールです。ドラムです。彼はプロ中のプロです。ニールの叩く鳴りは最高なのですが、ひとつひとつの楽曲のキャラクターを無視して、叩いてることに気がつきました。プライドの高いニールに、どう伝えようかと悩みました。ニールの持ち味はグルーブなのですが、そのグルーブが邪魔しているのです。揺らしながら叩くのは、楽曲に味をつけますが、揺らしすぎるとリズムはリズムではなくなり、ずれているだけのものになります。僕は縦の線がしっかりしたドラムを好みます。その縦の線をかいくぐるように歌を表現いたします。ドラムが揺れていては、それができないのです。日本のミュージシャンをバカにしてるとは言いませんが、「こんなもんだろう」という、彼の演奏に我慢ができなくなりました。ジェスを介して伝えてもらうのが最善だったのでしょうが、とうとうリハーサルの途中で歌を歌うことを止めました。僕が、途中で歌を止めることは、それまでなかったことなので、みんな驚いて、演奏が止まりました。
「どうしたの!?」
ジェスが言います。
「ごめん。もう一回最初からやろう。」
そして、もう一度イントロから始めました。気を取り直して歌ってはみたものの、やっぱり歌えません。また、途中で歌うのを止めました。スタジオの空気が変わります。ジェスが駆け寄って来ます。少しの間考えましたが、上から目線のプレイに、もうこれ以上気は使えないと。僕は、振り返りました。
「ニール。リズムが悪い!歌が歌えない。集中して欲しい。」
これまでの音楽生活の中で、こんなことを言ったのは初めてのことでした。
ニールの表情が変わりました。
「集中してるよ。」
「ニールの音は大好きだけど、揺れすぎて歌えないんだ。」
周りのミュージシャンは黙ったままでした。ジェスがニールのもとへ駆け寄り、小声で何かを喋っています。聞こえませんでしたが、僕の説明を柔らかく伝えているのでしょう。そして、ニールが僕に言いました。
「ASKA、もう一度最初からやらせて。」
実は、ニールは他のミュージシャンからも同じようなことを言われていたのです。それを見抜かれてハッとしたのでしょう。その後のプレイは変わりました。
とてもタイトに、そしてニール独特のグルーブが加わった演奏になりました。
立場関係が変わったのです。翌日からのニールは、とても紳士的になりました。
休憩中も僕らに交わるようになりました。日本のミュージシャンへの偏見がとれたのです。アンプラグドライブ本番でのニールの演奏は素晴らしかったですね。その後、ニールは日本での僕らのアルバムにも参加してくれました。ハイハットを叩く腕の柔らかさ、腕のしなりなど芸術的でした。最高のドラマーです。
それから、数年後。ある日、僕はASKAバンドの連中と六本木の外人クラブに居ました。前に紹介したママさんの店です。メンバーと、あの時のニールとのやり取りを話していました。悪口ではなく、ミュージシャンが力量を発揮したときの演奏は凄いという話で盛り上がりました。
明け方、5時頃に店を出ました。外は、もうすっかり明るくなっていました。僕は、お酒を呑んでいませんでしたので、駐車場に向かおうとしたときでした。外国人がひとりで歩いてきたのです。六本木は溢れるほど外国人が居ますので、珍しい光景ではありません。すれ違いざまに「ハーイ」と、声をかけました。外国人も「ハーイ」と返してきました。何気に目が合ったのです。もう、ビックリしたのなんのって・・。
外国人はニールだったのです。
「ニール!!」
「ワオ!ASKA!!」
「何で、日本に居るの?」
「ライブで来てるんだよ。」
「信じられない!」
「実は、今日一日中、日本のレコード会社のスタッフに、ASKAと連絡は取れないか?と、言ってたんだよ。でも、みんなASKAは知ってるけど、連絡先は分からないと言われてさ。」
こんなことってあります?店を出るのが、10秒遅かったら、ニールとは遭遇してないわけですから。僕らは抱き合いました。
「ニール、これらどうするの?」
「良い店はないかと探してたんだ。」
もう、明け方です。多くの店は閉まってます。それでも、こんなハプニングで高揚した僕は、ニールをどこかに連れて行ってあげたくなりました。探しましたねぇ。1時間ほど探したでしょうか。もう、ビジネスマンが、歩き始めていました。僕たちは六本木の交差点まで戻り、客引きのひとりを見つけました。
「この時間に空いてる店はない?」
「早朝から、やってる店が一軒あるよ。」
教えられた店は、直ぐ近くのビル内にありました。「早朝キャバクラ」と、書いてありました。もう、どこでもよかったんです。2時間ほど盛り上がったでしょうか。あれ以来、ニールとは会っていませんが、今も、ヨーロッパを股にかけて、プレイしていることでしょう。ホント、こんなことってあります?
先ほど、ふと目が覚めて、みなさんのコメントを読んでいました。
「有名人だから、調べられる。」
これは、ちょっと違います。「アガスティアの葉」を持ちかけてくれた知人も有名人で、僕も同じようなことを、知人に言ったのです。その知人は、行く前日に僕のところに電話をかけてくれました。どこか、引っかかるから僕に相談の電話をかけてきたのです。知人はコーディネーターと話したときに、自分の身分を明かさなかったと言います。コーディネーターは、知人がそこを訪れた時に、驚いたのだそうです。もちろん、インド人は、その知人のことを知りません。
その夜です。電話がありました。
「どうだった?」
「私の両親の名前は、日本人でも珍しくて、これまでプロフィールでも一切証してきていないので、調べられることはできないの。アガスティアで私が役者だと分かった瞬間に、写真とかお願いされちゃった。」
「コーディネーターが、伝えたんじゃない?」
「その人は、直ぐに私だと分かったけど、相手(ヒーラー)には何も喋らなかったから。その人(ヒーラー)が、奥の部屋に入るまで、ずっと一緒に居たんだよ。だから、何も伝えてないのは、私が知ってる。」
「そうか。オレの話はした?」
「いえ。行くという返事はもらってないから、何も話してない。でも、行くことになった時のために、予約だけはして来たよ。キャンセルは、当日でも構わないって言われたので。」
僕は、飛び込みで行ったのです。コーディネーターが僕だと気づいたのは、僕が音楽をやっているという話が出てきたときです。名前が出てきたときに、迷ったことがありました。
「あなたの名前の最初の文字は『A』ですか?」
と、言われたときです。『A』でも合っています。僕は、その時『No』と答えました。次の葉に行きました。もし、『ASKA』で、出ていた場合は、僕はその葉を逃したことになります。
「『M』ですか?」
「Yes。」
しかし、その後の質問で、その葉は僕のものではありませんでした。僕は、迷っていました。どちらの名前で反応してよいものなのか・・。そして、こういう質問が出てきたのです。
「あなたは名前をふたつ持っていますか?」
「Yes。」
「ひとつは『M』ですか?」
「Yes。」
「もうひとつは『A』ですか?」
「Yes。」
「ASKAですか?」
「Yes。」
そして、本名が告げられたのです。そのまま、父や、母。家族の名前が出てきました。
なので、事前に調べるという行為、時間は与えていません。「64歳に、あることがある」というのは、『死』では、ありません。それに向かって一生懸命生きれば、そういうことがおきるのかもしれません。僕の中では「あの事かもしれないな」と、いうものがあります。僕の心の中にある大きな目標です。それが、達成されるのでしょうか?今、ここで書きながら、もう一度願ってみようという気持ちになりました。これを思い出すためのブログだったのでしょうか?事件は、僕に課せられた試練だったのでしょうか?いずれにせよ、後、約5年半後のことです。夜中に起きて、みなさんのコメントを読んだことで、その気持ちを思い出しました。
,
本当なのか、トリックなのか、未だに分かりません。
憧憬
僕は迷っていた
もう少し待てば雨は小降りになるのか
それとも土砂降りになるのか
外は戦場のような雨が降っていた
6時限の体育のときだった
僕は雨が降ることに気がついたのだ
雨の匂いがしたからだ
それは土埃と混ざり合った
僕だけにしかわからない匂いだった
授業が終わる頃
校庭を覆うように雲が現れた
僕は傘を持っていなかった
学校から家までちょうど1000歩なのは知っていた
走れば700歩くらいになるのだろうか
僕は確信のない計算をしていた
だけどひとつ疑問があった
走るのと歩くのでは
どちらが濡れてしまうのだろうということだ
そんなことを思い出しながら
駐車場まで走った
車に乗ると
僕は持っていたカバンを助手席に放り投げ
ハンケチで服を拭いた
僕は安全を確保したかのような気持ちになり
ホッとため息をついた
雨はもう外の出来事のようになってる
エンジンをかけてワイパーのレバーを下げる
扇型に現れる視界の中を家まで帰った
あの日の答えはまだ出ていない
走るのと歩くのでは
どちらが濡れてしまうのだろう
あれが本当なのか、トリックなのか、未だに謎です。それは「アガスティアの葉」と、言います。3000前とも言われていますし、5000年前とも言われています。その葉には、そこに訪れた人の分だけの葉が用意されており、訪れた人の一生が、その葉に記述されています。訪れない人の葉はありません。なので、そこに訪れる人は3000〜5000年前から決まっていたということになります。
僕は、運命論者ではありません。大まかな未来予想図は手渡されて、または描いて生まれてくるのでしょうが、その人の生き方で、別なものに変化してゆくのだと思っています。例えば、机の引き出しの中に、小さな小石を放り込むようなものです。そのまま、じっとしていれば、与えられた人生。しかし、空間は引き出しの大きさの分だけあります。移動するごとに、位置は変わります。
隣の引き出しには移動できません。自分が身を置いた、その引き出しの空間分だけの運命がある。自分の行動によってたどり着く位置が変わると言えば分かりやすいでしょうか。
「アガスティアの葉」は、南インドのタミル地方一帯の寺院に保管されています。先ほども書きましたが、そこを訪れた人の分だけしか、用意されていません。聖者アガスティアが書いたことから、その葉を「アガスティアの葉」と呼ばれています。以前から興味はあったのですが、インドの奥地まで行く気にはなれませんでした。と、いうことは、僕の葉はないということになります。
10年ほど前のことでしょうか。知人から電話があったのです。
「アガスティアの葉って知ってます?」
「ああ、知ってるよ。」
「行きませんか?」
「いやぁ、インドまでは行けないなぁ。」
「いえ、その葉が日本に来るんですよ。」
僧侶が、「アガスティアの葉」の束を抱えて、日本に来るというのです。人が、足を運んで来るのも運命、そして、「アガスティアの葉」が海を越えるのも運命。どちらにしても、出会う人だけが出会うもの。なるほどと思いました。
そこは、県境にある建物の一室でした。到着後、間もなく部屋におとされました。恰幅の良いインド人の僧侶?ヒーラー?が、目の前に座りました。適切な言葉がないので、その人をヒーラーと呼びましょう。「アガスティアの葉」に書かれている文字は、古代タミル語であるという説明を受けました。それは、知っていました。以前、テレビの番組で、「アガスティアの葉」が放送されていたのを観ていました。古代タミル語を研究されている方が、その葉に書かれた文字を見て「間違いなく、タミル語です」と、説明していた場面を覚えていたのです。
まず最初に、ヒーラーから言われたことがありました。
「今から、質問をつづけますが、『Yes』か『No』だけで、答えて下さい。」
例えば、僕は1958年2月24日生まれですが、ヒーラーが選んだ葉に、それが書いてあります。
「1960年生まれですか?」
「No」
「では、次の葉にいたします。」
「1958年生まれですか?」
「Yes」
「5月生まれですか?」
「No」
「では、次の葉にいたします。」
こういう風に、自分の葉に間違いないという葉が出てくるまで、延々と繰り返すのです。1時間内に自分の葉と出会す人もいれば、5~6時間かかる人もいる。一日出て来ない人もいる。そういう人は、別の寺院に行くのです。結果、数日、かかる人もいます。しかし、そこに行った人には、必ずあるのです。それが「アガスティアの葉」です。ヒーラーは、言いました。
「右手の親指の指紋をとらせてください。」
その指紋に近い束ごとに分けられた束を探すのです。男性は右手の親指。女性は左手の親指。指紋をとり終わると、ヒーラーはしばらく奥の部屋に入って行きました。20分程待ったでしょうか。ヒーラーが、大きな束を抱えて戻って来ました。これから何時間かかるのでしょうか?丸一日費やすのでしょうか?その葉は、茶色に変化した、薄い板のようになっていました。僕は、言いました。
「信じていないわけではないのですが、この模様を、すべて録音させていただいてもよろしいですか?」
「構いませんよ。」
そして、僕の一生が書いてある葉と遭遇する時間が始まりました。
「この葉ではないですね。次に行きます。」
30分程して、僕の誕生日の書いてある葉が出てきました。ドキドキしましたが、その葉ではありませんでした。
「あなたの生まれは、東京ですか?」
「あ・・。Noです。」
「では、次の葉に行きます。」
今日、出て来ない場合は、明日も来なくてはなりません。翌日も、スケジュールは空いていましたので、覚悟を決めました。
1時間半を過ぎた頃でしょうか?
「出生地はFUKUOKAですか?」
「Yes」
「お父さんの名前はKATSUMIですか?」
「・・。Yes。」
「お母さんはE?EKOですか?」
「Yes。EIKOです。」
心の中で、思いました。「嘘だろ・・。」ヒーラーは、空に向かって呪文のような歌を歌いながら、突然質問をしてきます。
そして、その葉からは、家族全員の名前が出てきました。
「あなたの仕事は、音楽ですか?」
「Yes。」
「はい。この葉が、あなたの葉です。」
僕の一生が書いてありました。日本古来の武道をやってること。若い頃に、世の中に名前が出ること・・。
「海外で、仕事をやることになります。」
「はい。もうやっています。」
ここでは書けない、いろんなことが書いてありました。僕の、一生に沿ったことが書いてありました。直ぐ隣りに座っていたコーディネーターの方から、
「こんなに早く、葉が出てくるのは珍しいですよ。ご縁があったんですねぇ。」
「アガスティアの葉」によれば、僕は64歳までは生きてることが確認できました。その年に、あることがあるのです。良いことも、悪いことも書いてありました。前世が、何という名前であったか。何の仕事をしていたか。どういう経緯で、この世を離れることになったのか。もちろん、今回の事件を思わせるようなことも書いてありました。それでも、歌を歌っていくことが使命のようなことを言われました。希望を失わず、一生懸命に生きれば、この葉に書いてある人生を全うすることができるとのことでした。そして、最後に言われたのです。
「あなたが死ぬ日を知りたいですか?」
「即座に、No.と答えました。」
この世を離れることを知っての人生を送るようなことはしたくなかったからです。金額は、予想以上に高かったです。伝えられたことは、確実性の高いことでしたが、これが商売になっていることに、些細な抵抗があったのです。
お金を、惜しんだということではありません。なぜ、そんなに費用がかかるのかを知りたかったのです。ヒーラーは答えました。
「あなたが前世で犯した過ち。それから、これから起こすであろう過ち。それらの業を浄化させるために、インドの若い修行僧が、あなたの代わりになって、7つの寺院を訪ね、歩き続けます。カルマを落とすのです。その修行僧にとっては、修行。あなたにとっては浄化です。」
僕の代わりに、約2ヶ月間歩き続けると言うのです。腑に落ちました。
「よろしくお願いいたします。」
僕は、運命論者ではありません。しかし、その日までのできごとは克明に書かれておりました。引き出しの箱の中の空間いっぱいに用意された運命のどの位置に向かって進んで行くのか、僕にはわかりません。じっとしていては、与えられた運命。しかし、自分が希望を持って進んで行けば、違うところへ行ける。
つまり、運命は変えられるのだと思っています。
そして、時々思い出すように浮かべています。
「アガスティアの葉」は本当なのか、トリックなのか。未だに分かりません。