読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

調律

調律

 

 

ピアノの調律には資格が要るが

自分の調律に資格は要らない

 

最近心のどこかで

小さな歪みを感じていたが

 

そう思えたら大丈夫

心を調律すればいい

 

調子が良い

とは

超詩が良い

と書く

 

自分で自分の背中を押してみる

ひとりで詩を書いていると
ひとりではないことに気がつく

 

僕にはボキャブラリーの欠如が見られるから

それを補うためにメロディの力を借りる

それも調律

 

外は晴れているが晴れすぎだ

会話は必要だが語りすぎだ

これも調律

 

人も自然もバランスの中で生きている

悲哀と歓喜の中で生きている

 

何もしない一日はあまりにも長く

夢中になって過ごす一日はあまりにも短い

 

終電車が都内をブルースで走って行く

疲れたビジネスマンにはクラシックな眠りを

 

始発電車が郊外をカントリーで走って行く

新しい街並みにはミュージカルな装いを

 

僕は少しの間

悪い夢を見た

 

夢から起きたら

サラダな朝だ

 

美しいものには理由がある

素敵な言葉には自由がある

 

バランスとは調和

調律とは呼吸合わせ

 

そうやって

命を育みながら僕たちは生きている

井上カメラ店

先日「春日原」(かすがばる)という詩を掲載しました。僕が、生まれ育った街の駅名です。福岡の「西鉄大牟田線」にその駅はあります。僕の家から線路を渡り、右に歩いて行くと、直ぐ左に小さなアーケード街がありました。そのアーケードを入って15メートル程歩いたところの右側にその写真屋はありました。小学生の頃、父から貰ったお下がりのカメラがありました。縦型の長方形をした二眼レフカメラです。レンズが上下に二個ついたカメラです。数字の「8」のようです。

そのカメラは、上から覗き込むと、磨りガラスのような画面に十字の線があり、その線の中心に被写体を映しだしてゆくという仕組みになっていました。

 

フィルムは「12枚撮り」「24枚撮り」と、二種類売られておりましたが、小学生の僕は、12枚撮りしか買えませんでした。今はデジタルカメラの時代です。撮影に失敗しても、それを削除すれば、何枚でも撮れます。当時は、12枚フィルム。ピンぼけしたら、それで1枚は終わります。1枚を慎重に撮っていました。

 

そのアーケード内の店には、数回フィルムを買いに、または現像をお願いに行ったことがあります。

ある日、その店を訪れると、おじさんが居ました。背中を向けていました。

 

「こんにちは。」

 

振り向いてくれないのです。もう一度、挨拶をしました。それでも背中のままです。僕は、困ってしまいました。気がついてくれるまでに、数十秒かかったでしょうか。僕は、言いました。

 

「このカメラのフィルムを下さい。」

 

おじさんは、カメラを手にすると、カメラのカバーを外し、逆さにしたり、元に戻したり、レンズを覗いたりしています。どうやら、カメラが壊れたと思っているようでした。

 

「違うんです。フィルムを下さい。12枚撮りのやつを。」

 

黙っています。僕の顔をじっと見ています。笑顔はありません。僕は、店を見渡し、そのフィルムを見つけました。そして、それを指さし、

 

「あのフィルムを下さい。」

 

おじさんは、ようやくフィルムを手にし、それを僕に手渡してくれました。財布から、お金を取り出し、差し出すと、無言でお釣りだけをくれました。店のドアを閉めて出て行くまで、一言も口を開いてくれませんでした。あれ以来、その店には行っていません。子供心にわだかまりを覚えたのでしょうね。

 

時は過ぎ、大人になり、僕は歌手デビューをしました。活動25年目を過ぎた頃でしょうか、もっと後のことだったでしょうか。僕の目に、一冊の写真集が飛び込んで来ました。昭和30年代の街の風景です。「こどものいた街」というタイトルでした。それをめくって驚いたのです。「春日原」の風景でした。昭和30年から40年にかけての春日原の風景でした。主役は、景色ではなく子供たちでした。その街を背景とした、当時の子供たちが、その写真集にいっぱいに収められておりました。食い入るように見つめました。自分が写っているのではないかと思ったのです。最後まで、めくりましたが、僕らしい人物はありませんでしたが。「そうそう、こうだった」「春日原駅は、こうだった」と、懐かしさ、タイムスリップ感で、その写真集を買いました。「龍神池でケンカする子供」と、いう写真もありました。当時、その龍神池は、向こう岸が、遥か遠くに見えるくらいに大きかったのです。現在は、埋め立てをされ、小さな池になっています。知った顔が現れるのではないかと、一枚一枚、じっくり眺めましたが、もう遠い、遠い記憶のこと。知り合いを見つけることはできませんでしたが、忘れてしまっただけで、その中には間違いなく知った子がいるはずです。

 

その頃の道路は土道で、ときに馬や牛が歩いていました。馬や牛の糞を踏まないように、気を付けながら歩いていました。その頃の、男の子の多くは坊主頭でした。女の子は、みんなおかっぱでした。誰もが、貧しかった頃です。なので、それを貧しいと思ったことはありません。みんなが同じでしたから。写真を撮ったのは誰でしょう?写真誌の表紙には「井上孝治」と記されてありました。昭和の風景を撮り続けた写真家であったことが分かりました。井上さんが、亡くなった後、井上さんの息子さんが、仕舞い込んであった膨大のフィルムを現像したところ、これらの写真が出てきたというエピソードが綴られていました。昭和30年代が、現代に蘇ってきたのです。井上さんは、春日原で写真屋を営んでいたとのことでした。聴覚に障害を持たれ、他の写真家たちからは、

 

「井上の写真には勝てない。音の無い世界から写された写真だ。あの集中力には誰も勝てなかった。」

 

と、言われていたのです。あの、温かく、また鋭く切り取られた一瞬の光景は、耳に障害を抱えた、井上さんならではの作品なのでしょう。そうして、思い出したのです。「春日原の写真屋?」2、3軒しかありません。記憶を、解いて行きました。

 

「あ、あのときのおじさんだ!」

 

そうです。一言も喋ってくれなかった、あの時の、あのおじさんに違いありません。間もなくして、井上さんの息子さんと繋がりました。あのアーケードで写真屋を営んでいたとのことです。あの日のわだかまりが、約40年を経て解決されました。

 

「耳が聞こえなかったんだ・・。」

 

その写真等は、先ほども言いましたように、息子さんの手によって現代に蘇り、そして、数々の賞を獲りました。昭和のあの風景、子供たち。その後、2冊目も手にしました。今でも、時々眺めています。作品は、時代を超えて残って行く。僕の楽曲も、そうなれば幸せなことだなと、感傷にふけっています。

ASKA

賭け

賭け

 

 

海は赤かった

 

そのはずでいたことがそうではなかった

血で洗い流す夢

 

一瞬も死ねなかった

読み返すと間違っていた

誰かが叫んで初めて気がついた

 

太陽は寒かった

 

予測していた痛みじゃなかった

言葉は黙された

 

最初に明日があった

昨日を語らなかった

誰かが転んで初めて気がついた

 

空は狭かった

 

気がつけば屋根の上にひとりだった

ハシゴは外されていた

 

やったやつがやったんだ

死んだやつが死んだんだ

誰かが歌って初めて気がついた

 

墓穴の大きさを正しく知ってるやつはいないか

弔いは儀式だ

やらねばならないだろう

 

夢にアリバイがなかった

愛には証拠がなかった

 

結局信じるといつもこうだ

最後に砂を噛まされちまう

 

だが

性分ってやつは消えないもんで

また未来を信じてしまいやがる

 

オレは賭けで生きている

誰かオレに賭ける物好きはいないか

 

人気絶頂の俳優が

撮影中に落馬した

その程度のことだと思ってくれ

 

いまは偶然ひとりだが

いつかは自分をもっと増やすつもりだ

この意味がわかるか

 

なぜだ

誰が

どうして

こうなった

 

なぁに

味方がいなかった

それだけのことさ

 

誰かオレに賭ける物好きはいないか

木の気

あれは、30年ぐらい前のことかなぁ・・。未だに、なぜそうなったのか、理由が分からないのです。四国の松山でした。朝、ベッドから起き上がろうとした時に、激痛が走ったのです。それまで、味わったことのない痛みでした。肩、背中にかけて、まるで刀で切られたような痛みでした。ベッドから、起き上がろうにも、身体を捻られないのです。そのまま、ベッドに身体をあずけ、しばらく天井を見上げていました。マネージャーに電話しようにも、電話まで、手が届きません。部屋に鳴り響く目覚まし時計を止めることもできません。

 

その日は、ライブが休みの日でした。じっとしていると、痛みはないのですが、

身体を動かそうとすると、その激痛に見舞われます。鳴り止まない目覚ましが、

嫌がらせのように部屋に響いています。そして、やっとそれが止まったとき、部屋に静寂が訪れました。なぜこうなったのか原因を考えていましたが、思い当たる節がありません。ただただ、じっとしていました。昼過ぎに、電話がかかってきました。しかし、電話に出ることができません。それから、1時間ほどして、再び電話が鳴りました。マネージャーからでしょう。電話は、長いコール音の後、途切れました。それから、数分後、ドアをノックする音がしました。

助かりました。声は出せますから。

 

ASKAさーん!」

 

マネージャーです。ここが、福岡や札幌であれば、友人たちと外出していると、すまされたのでしょうが、ここは松山です。不自然に感じたマネージャーが、

心配して部屋に来たのです。僕は、大声で叫びました。

 

「身体が痛くて起き上がれない!!」

「どうしました!?」

 

ドア越しのやり取りです。

 

「わかんない!」

「大丈夫ですか!?」

「フロントに行って、合い鍵をもらって、部屋に入ってきてくれ!!」

 

数分後、ドアは開けられ、ホテルの従業員と、マネージャーが入って来ました。

寝たままで会話をしました。

 

「とにかく、起き上がれないんだよ。」

「病院に行きましょうか?」

「いや、病院ではシップくらいしか方法がないだろうから、整体か針灸院の方がいいと思う。イベンターに連絡して、探してくれないか?」

 

それから、1時間ほどして、針灸院が見つかりました。ホテルの従業員とマネージャーに身体を抱かれるように起こしてもらいました。間もなくイベンターが駆けつけてくれました。顔も洗うこともせず、三人に抱えられるように、廊下を歩き、エレベータに乗り、腰をかがめるようにロビーを歩き、やっとのことで、タクシーに乗り込みました。シートに座る行為にも激痛が走ります。

 

そこは、松山市内から30分程のところにありました。古い木造建築の小さな針灸院でした。6畳程の待合室にはソファがありましたが、座るのにも痛みがありますし、立ち上がる時の痛みを考えると、このまま立っている方がましです。

壁には、知り合いのアーティストのサインが飾ってありました。イベンターに尋ねました。

 

「ここ、有名なの?」

「有名かどうかは、分かりませんが、以前、同じようなことがありまして、○○さんが、治療後に『ここは凄い』と、仰ってたのを思いだしたんですよ。」

 

15分程待たされた後、名前を呼ばれました。治療室に入ります。狭い部屋でしたが、そんな狭い部屋には、そぐわないほどの大きさの鉢植えされた木がありました。

 

医院長は、ご高齢の方でした。痛みの度合い、そして箇所を伝えます。

 

「では、うつぶせになって下さい。」

 

Tシャツを脱ぎ、ベッドに伏せました。そして、医院長は、背中は触らず、左足のふくらはぎを指で押し始めました。

 

「そこではないのに・・。」

 

それから、医院長は背中向きになり、独り言を言ってます。

 

「これかな?いや、こっちの方かな・・?」

 

そう言って、振り返った時には、一本の針を持っていました。畳針のような太さの針でした。30センチくらいの長さをしています。畳針では想像がつかない方もおられますね。そうだなぁ。マドラーぐらいの太さと言えば想像していただけますか?

 

「嘘だろ・・?」

 

中国針でした。中国針は、日本の針よりも、遥かに太いのです。

 

「そ、それを刺すんですか・・?」

「そうですよ。大丈夫、そんなに痛みはないですから。」

 

いや、あるでしょ。医院長は、僕のふくらはぎを数回押しました。ツボを探しているようです。

 

「ここだね。」

 

そう言うと、突然針を刺しました。

 

「うがが−!!」

 

「い、痛い!痛いじゃないですか!!」

「大丈夫、痛くないから。」

 

いや、痛いって。今、みなさんはその針が、僕のふくらはぎに刺されている光景を思い浮かべられているでしょう?話は、これからです。なんと、その針を、引いたり、押し込んだりを繰り返し始めたのです。のこぎりを引くときのような仕草で。ぐちゅぐちゅと音がします。

 

「あたた、あたた!!」

 

30秒程続きました。痛いのなんのって。ふくらはぎと背中の関係が理解できません。そして、その動作は止まりました。針は、深く刺さったままです。痛みはやわらぎましたが、針は刺さっているのです。それでも痛いものは痛い。

 

そして、医院長は、ベッドの横の、疲れたようにだらりと掛けられてる、一本のケーブル?ひも?それを、掴むと、その不自然のように置いてあった木の葉に繋げました。そして、そのケーブル?ひも?の片方を、僕の足に繋げたのです。

 

「何ですか?」

「今から、木の気を流します。」

「木の気?」

 

ギャグ?CHAGEでも使わないギャグです。それを、黙って受け入れなくてはならない僕は、もっとギャグです。「部屋と私と木と気」。

間違ってる。絶対間違いだってば・・。しかし、訪れた以上、受け入れなくてはなりません。10分程、その状態が続いたでしょうか?もんもんとしていました。

 

「そとそろ、いいでしょう。」

 

ふくらはぎに刺されていた、その畳針、いや、中国針は抜かれました。

 

「どうぞ、立ってみて下さい。」

 

立てないってば・・。おそるおそる言われたとおりにしてみました。まず、肘を立ててみました。痛みは感じませんでした。そして、手をつけて身体を起き上がらせてみました。痛みがありません。ベッドから下りました。背筋を伸ばしてみます。嘘でしょ?身体を丸めるように訪れた、さっきまでの状態は何だったのでしょう?全く、痛みがありません。しゃんと歩けます。

 

「先生、何ですか?これは。」

「木の気です。」

「初めてなんですけど。」

「私があみ出しました。」

 

木の気。こんな治療があるんですねぇ。翌日のライブは絶好調で終えました。

それから、数年後。

 

小田和正さんから、言われました。

 

「オマエ、松山で針治療に行ったろ?」

「何で、知ってるんですか?」

「サインがあったから。」

 

小田さんも、行ってんじゃん。「木の気」同士です。

ASKA

 

無題

著書「インタビュー」の中で、「僕にはヤクザの友達がいる」と、書きました。

本を、出版する頃には、もう、足を洗っており、ヤクザではなかったのですけどね。メディアの中には、本を読みもせず、事件と結びつけて煽ったところがありました。現在の、メディアの多くは、記事を書く際に、自分の足を使わず、ネットを徘徊し、裏も取らず、記事にするところも多いように見え受けられます。ターゲットを決めると、記事は悪意を込めて彩られ、雑誌を売るために、大衆が興味を抱くようなタイトルが付けられます。今回の、僕の1件で、すでにお気づきの方も多いと思われますが、「近しい関係者」や「音楽関係者」の情報などというものは、すべてデタラメです。記者が、勝手に作りあげた人物です。いちいち反応するつもりはありません。それは誰だ?と、詰め寄ったところで、「ソースは明かせられない」と、なるだけですから。今回、僕がブログを始めたことで、彼らはそれができなくなりました。

 

600万アクセスを超えました。日々を追うごとに、YahooやGoogle検索からのアクセスが増え、今ではそれが過半数を占めています。毎日、新しい読者が増え続けています。ユニークアクセスというものがあります。アクセスが、同じ人によってか、そうでないかを見分けられるのです。それによれば、このブログは、現在、週刊誌同等の効力を発揮しているようです。もちろんブログ開始の時は、そんなことは考えておりませんでした。「ご心配、ご迷惑、おかけいたしました。申し訳ありません。僕は、至って健康で、元気です」と、いうことを、お伝えするために始めたブログでした。それ以上の考えはありません。毎日、ひとつずつ記事を書けて行ければ良いなという気持ちで始めました。1月のブログは、何者かによって、直ぐに削除されてしまいましたので、目立たぬようひっそりと始めました。気づいてくれた方たちが読んでくれれば十分だという思いで始めた気持ちに嘘はありません。よく言います。「出た杭は叩かれる」しかし「出過ぎた杭は叩けない」。

この膨大なアクセス数によって、このブログは守られました。削除ができなくなったのだと思います。みなさんのお陰です。本当にありがとうございます。

 

そして、みなさんから頂いたコメントに関する答えのようなものは、「700番 第2巻」にすべて書かれてありますので、是非、読んで頂きたいと願っています。

また、ここでの否定的な意見にも、心に深く響くものがあります。なぜならば、十分予想しての事だからです。世間の総意を代弁してくれています。感謝します。勇気を出してくれて、ありがとう。お返しは、音楽でさせていただきます。

否定コメントのなかには、何も感じるものがないのもあります。正直な気持ちです。ごめんなさい。ただ、マスコミの興味は、そういうコメントこそにあります。記事にするなら「もって来い」の内容となって紹介されるでしょう。まだ、そうなっていないのは、みなさんの温かいコメントが、それらを振り切っているからだと思います。そして、僕が、温かいコメントだけを、手放しで喜んでいるわけではないことも知っていてくださいね。ぬるま湯に浸かろうとは、思っていませんので。後、10日。いろんな意見をお待ちしております。

 

 

話が逸れました。冒頭の「ヤクザの友だち」は、7年前に他界しました。他界する直前、最後にあいつと喋ったのは僕でした。電話でした。幼い頃からの関係です。竹馬の友です。一緒にセミ採りをしながら育ちました。こよなく動物を愛するヤツでした。想い出を分け合いながら、大人になりました。

 

先日、やっと線香を上げに行ってきました。仏壇は、お兄さんのもとにありました。写真は、ヤンキー時代のものでしたが、表情は、一緒にセミ採りをした幼少時代の面影が、しっかりとありました。いいんです。僕だけが、それに気づいてあげれば。線香を上げた後、胸の中にあった重たいものが、スーッと消えて行きました。

 

「来てくれて、ありがとうな。」

 

と、いう言葉を感じました。メディアがなんと書こうとも、この気持ちが揺らぐことはありません。行ってよかった、行けてよかった。僕は、あいつの友達です。憧憬を壊すようなことは、決して、して欲しくない。日本一のチームと対戦して、勝つことができたのは、あいつの渾身を込めた1本でした。一生、忘れないからな。また、いつか一緒に剣道をしような。

ASKA