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春日原駅

春日原駅

 

 

その踏切では電車が通る度に駅員が旗を上げ

笛を吹き鳴らし

手動で遮断機を上げ下げていた

 

目の前を大きな茶色の電車が通過して行く

風圧に思わず後ずさりする

 

シュークリームを無造作に置いたような形をした春日原駅

それはその踏切を越えたところにあった

 

左にベンチがあり右に売店があった

売店の左斜め前にはガムの自動販売機が設置されていた

グリーン、フルーツ、梅

20円を入れ、レバーを捻るとガムは落ちて来る

 

首が痛いくらい顔を上げると

駅のひさしにはツバメの巣

 

この駅の向こうの坂道を上ったところに

大きな池があった

 

「あの池には龍の神様が住んでいらっしゃるとよ」

その池の名は「龍神池」

まだ幼子の僕にとって「龍神池」の響きは怖かった

 

駅の真ん中に改札口があって

制服を着た駅員が切符を切った

 

背伸びして差し出したいくつかの10円玉

僕は自分で切符を買うのが好きだった

 

改札をくぐり抜けて線路を渡り

そしてホームに上がる

 

こっち側が天神行きでね

向こう側が太宰府行きなんだ

 

天神に行けば岩田屋デパートの屋上に上がれる

太宰府に行けば「梅が枝餅」が食べられる

子供心に「電車に乗る」ということはそういうことだった

 

あの頃の駅はもうない

遠い昔の記憶風景

 

数年後に電車は高架になる

「それまで生きていられるかなぁ」と父が言う

人は年をとる毎に死を受け入れるようになっている

 

家もビルも商店街も

みんなが新しくなりたがる

 

街が変わるように

通りを歩く人の顔も入れ替わって行く

 

時代と共に消えていく

あの頃の景色

 

時代とはそういうもの

忘れ物のように記憶の片隅で今も息をしている

剣道

オリンピック、早速、日本勢が頑張っていますね。メダルの行方が今から楽しみです。オリンピックの度に思うのです。剣道が、オリンピック種目に入ればメダルは確実なのにと。1970年から始まった、3年ごとに行われる剣道世界選手権では、ただ、1度逃しただけで、後はすべて日本が優勝しています。続いて、韓国が強いですね。ここ数年はアメリカが追ってきています。

 

これだけ世界中に広がっている剣道が、なぜ、オリンピック種目に選ばれないのか?実は、選ばれないのではないのです。日本剣道連盟がオリンピックを拒否しているのです。なぜ、オリンピックを拒否するのか?それは、日本の剣道でありたいからです。それと、外国人審判員の力量も相まっています。

 

柔道もオリンピック種目になってから、受け継がれてきた柔道では無くなってしまいました。外国選手が有利になるよう、国際ルールの基で試合することを余儀なくされてしまいました。強すぎる日本に対して、国際ルールは増えてゆくばかりです。

 

剣道は、試合中、自分をアピールしたり、選手に対してブーイングすることはありません。礼にはじまって礼に終わる。ガッツポーズなどは、もっての他です。

 

僕は、高校生の時、北海道大会で、最優秀選手に選ばれました。最優秀選手は、優勝とまた別のものです。実は、最優秀選手の選考では、審判員がふたつに分かれたのです。もうひとりの選手の名前が上がっていました。最終的に、試合における態度という観点から僕に決まったようですが、僕は、その相手を認めていましたし、彼がもらってもなんら不平はありませんでした。本当に、強かったですからね。しかし、審判員は礼を重んじました。

 

もし、剣道が国際ルールになれば、礼を重んじるという剣道の精神が、変化してゆくことに慎重になっています。日本剣道連盟は、それを嫌っているのです。

 

しかし、最近の世界選手権では、その剣道精神が根付いてきています。見苦しい仕草は見受けられません。本来の剣道の姿が、世界に浸透して行っているように見えます。

 

今、思うのです。世界選手権が普通に行われているのです。ルールを変えるという気配は見当たりません。日本の剣道を、世界が受け止めています。

 

もう、そろそろ、オリンピックに参加しても良いのではないでしょうか。剣道人口が減少してきているのは、剣道がメジャーなスポーツではないからです。オリンピックに出場することは大きな意味があります。メジャーなスポーツになることを願ってやみません。

ASKA

 

僕たち

僕たち

 

 

君と話をしていると時間が経つのが早い

僕たちはいつも言葉とじゃれ合っている

 

突然君が

「海が見たい」と言いだした

 

僕たちは手をつないで

岬のようになった堤防の先端まで歩いた

 

この先の向こうにある国の名前はわからなかったけど

街を歩く恋人同士の誰よりも

いちばん外国に近いところに立っていた

 

一日中繰り返している波のしぶきは

この国と外国を遮るバリケードのようだった

 

「少し寒いね」と僕が言う

「そんなことないよ」と君が返す

 

そして少しだけふたりは無口になった

 

僕が隣を振り向くと

君は人差し指を目元に立て

風で流された髪を束ねようとしていた

 

噛んでいたガムは

もうすっかり味がしない

 

遠くに浮かんだ船を見ていたとき

「あれタンカーだね」と君が先に言った

 

もうすぐ太陽が水平線の彼方に沈んで行く

船は太陽の道連れにされそうだった

 

僕は夜空に大きく浮かんだ月を自転車で横切って行く

映画ETの場面を思い出していた

 

どこからやって来たのか分からない小石を

僕はつま先で軽く海に向かって蹴ってみる

 

小石は放物線を描かなかった

無言で海に飛び込んで行った

 

僕たちはしばらくそこで黙ったあと

まるで打ち合わせしていたかのように海に背を向けた

 

どこかで僕たちを見ている人にとって

きっと僕たちは小さな影のように映っていたはず

 

太陽 

ひまわり 

アイスクリーム 

海辺の恋人

 

僕たちは詩人が使う

季語のようになって歩いていただろうか

再公演

「あれ?喉の奥がかゆい・・。」

 

2008年10月4日。深夜のできごとでした。軽い咳が出ます。経験上、このような時は危ないのです。喉の奥がかゆく、そしてやんわり温かくなってきた時は、要注意なのです。風邪です。明日は、シンフォニック福岡公演です。夜中に、飛び起きて長めのウガイをしました。

 

翌日、昼2時頃にマリンメッセに入り、リハーサルをしました。問題はありません。リハーサル後に、少し、身体が火照ってきましたので、直ぐに病院へ行き、点滴をしました。あくまで、身体の事故を未然に防ぐためです。点滴後も、いつもの状態で、その時が来るまでは、身体の調子のことなど、何も思い出さなかったのです。

 

本番になりました。1曲目、2曲目と進んで行きます。いつもと変わりません。

オーディエンスの温かい拍手が包んでくれます。オーケストラのみなさんも、喜びを感じて演奏してくれているのがわかります。それは、5曲目の時に起こりました。喉が熱くなってきたのです。暖まってきたという感じではありません。

熱いのです。その瞬間に思いました。

 

「マズい・・。」

 

そして、昨夜の風邪のことを思い出したのです。直ぐに喉に負担のかからない歌い方、すべてをミックスボイスに切り替えたのですが、もう時は遅しでした。

カスカスの声になってしまったのです。オーディエンスは敏感です。歌い手の動揺など、直ぐに見抜いてしまいます。このような時に、いつも思うことがあります。

 

「オレは、プロだ。」

 

良い響きで聴いてもらえないオーディエンスに申し訳ないと思いながら、ステージは進んでいきました。精神状態ですか?はい。正直に言いますと、何度もくじけそうになりました。しかし、僕はプロです。本編を終えて、ステージサイドに戻りました。高いお金を払って観に来て頂いているのに、このままでは、申し訳が立たない。

 

ステージサイドに戻ってから、この気持ちを、ステージプランナーの大久保に伝えようとしました。すると、大久保の方から、

 

ASKAさん、分かってます。いま、マリンメッセの空き状態を聞いてますから、アンコール、乗り切ってください。」

 

スタッフは、コンサート中盤で、そう判断し、もう、再公演のためのスケジュール調整をやっていてくれたのです。

 

「ありがとう。申し訳ない。」

 

何とか、アンコールを終えることができました。そして、最後に、オーディエンスに向かって、このようなことを言いました。

 

「今日は、喉の調子が悪く、こんなステージを観せてしまい、本当に申し訳ありません。みなさん、今日のチケットを、無くさず、持っていてくれませんか?

もう、一度、やり直しさせてください。」

 

その言葉を、オーディエンスは温かく迎えてくれました。そして、時間は流れましたが、マリンメッセとのスケジュールがつかないのです。年を跨いでは、意味がないと考えていたからです。年内中にやらせてもらいたいと、強く申し出ました。そして、やっと1日だけスケジュールが合いそうだという返事がきました。使用させてもらえそうな日が出てきたのです。11月23日。ホッと胸を撫で下ろしましたが、大きな問題にぶつかりました。そのシンフォニーコンサートは、地元の交響楽団と行ういという、特別なものでした。九州交響楽団です。11月23日は、すでにスケジュールが入っており、残念ながら、その日は無理だという回答がきたのです。

 

再公演は打ち出しておりますし、今更、やれないではすみません。再公演を見届けようとしてくださっているオーディエンスも少なくないはずです。そのくらいの、拍手、歓声を浴びましたから。しかし、交響楽団とのスケジュールが合わない。年明けなら、大丈夫だと言ってくださったのですが、年内でなければならないという気持ちに包まれていました。物理的な問題で板挟みになっていました。その時です。朗報が入って来ました。大阪でご一緒した「大阪シンフォニカー交響楽団」が、その日に、小倉に来ていると言うのです。小倉から福岡まで、新幹線で30分とかかりません。そしてその日は、偶々空き日だということが分かりました。事情を説明すると、

 

「喜んでやらせていただきます」

 

感謝しきれない気持ちになりました。駆けつけてくれました。先日の大阪公演で、すでに曲は覚えてくれていましたので、リハーサルは、重要な約束事のある箇所、フレーズを確かめ合う程度で終わりました。

 

再公演は、とても満足なステージとなりました。あの時、お付き合いしてくださったお客さん、そして大阪シンフォニカー交響楽団のみなさんに、心よりお礼を申し上げます。

ASKA

ごめんなさい

ブログ、書けません。

今、オリンピックの開会式に夢中です。

たくさんの国の選手が「パキラの木」を、持って入場してますね。

 

今、調べたら、ブラジルの木なんですね。

そうだったんだ・・。

 

ASKA

インプラント

今、歯医者から戻りました。前歯の差し歯がぐらついてきましたので、慌てて行って参りました。僕は、数本インプラントをしております。

 

「君は、歯があまり強くないけど、顎が実にしっかりしているので、これはもうインプラントをやるしかないだろう。」

 

初めてのインプラント手術のときです。僕は、注射が苦手なので、針が顔に迫ってきたときにはドキドキしました。そうして、麻酔が効いてきたとき、ドクターが白ずくめでやって来ました。これまで、怪我や骨折は何度もありましたが、手術と呼ばれるものは初めての経験でした。自分で緊張をほぐさねばと思ったのでしょうね。

 

「では、これより、インプラント手術を行います。」

 

両手に白いビニールの手袋をした医者が、手を90度の角度で持ち上げています。心臓は激しく打ってます。

 

「き、緊張を・・。何とかしなければ・・。」

 

3人に囲まれました。

 

「では、お名前を言ってください。」

 

とっさに出た言葉は、

 

明石家さんまです。」

 

無反応で、手術は始まりました。

住所は聞かれませんでした。

 

ASKA