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日常の風景

日常の風景

 

 

ヨハン・パッヘルベルのカノンが流れる中を

ひとりの青年がスローモーションで機関銃を撃ち放す

その時

殺戮はまるで日常の風景のようだった

 

かけ離れた出来事というものは他人事のようになるものだ

心の中にザラついたものがない

動かない絵を何も考えず眺めているだけの景色だ

 

自分が自分を気にしすぎると前に進めなくなる

他人の目を気にしても他人はそれほど暇じゃない

 

返せば

みんなが自分にいっぱいなのだ

 

心のわずかな領域で

子猫のように体を寄せあって

明日の重心をとるのも悪くない

 

生きてることに飽きたからといって

直ぐに死ねる人たちには

無言の拍手を贈ってあげよう

 

孤独な冒険家が得る満足は

孤独な冒険家にしか分からない

 

欠落した痛みの理由は

墜落した者にしか分からない

 

傷んだバナナを口に頬張ると

少しだけシンナーの臭いがする

僕にはそう感じるのだ

 

人それぞれは人それぞれに人それぞれを歩き

与えられた地面の上を運命という名で進んで行く

 

僕は夏の海のようにデリシャスで

すべての共有になりたいとどこかでいつも願ってる

それが日常の風景のようになった時

きっと僕は満足するのだ

シンフォニックコンサート

2008年にアジアツアーをやりました。シンフォニックコンサートです。40名以上の演奏家を背景に歌うのです。

 

「そろそろ、アジアツアーをやりたいな。」

 

この一言が、切っ掛けでした。普段のコンサートではなく、ボーカルを全面的に押し出したコンサートをやりたくなったのです。各国のオーケストラとコラボをするというアイデアを出しました。それを伝えると、直ぐに返事は来ました。シンガポール、上海、タイ、香港、ベトナム、台湾、もちろん日本。しかし、ベトナム、台湾は、どうしてもスケジュールの都合がつかず、見送りとなりましたが、最後まで熱意を表してくれました。どの国の演奏家たちも、幼少の頃から、英才教育を受けてきた方たちなので、問題はないだろうと考えました。コンダクター(指揮)は、藤原いくろう氏に決まりました。アジアではいろんな賞を獲ってきた人物です。彼はクラシック畑の人間ですが、ポップスにも理解があり、僕の音楽も分析してくれておりました。彼は、今尚、ロシア公演を勧めてくれております。いつか、実現できればいいですね。

 

そのコンサートは日本を離れ、4月のシンガポールから始まることになったのです。シンガポールは若い国でもありますし、力量が読めないため、藤原氏と、ステージプランナーの大久保が、僕より2日早く、シンガポールに行くこととなったのです。

 

そこは、木の香りがする新しい、そして広いスタジオでした。僕は、演奏家たちに自己紹介を兼ね、マイクに向かおうとしました。その時、藤原氏、大久保に手を引かれ、スタジオの隅に連れて行かれたのです。複雑な顔をしています。

 

「どうした?何かあった?」

ASKAさん、ダメかもしれません・・。」

「なにが?」

 

藤原氏が言う

 

「2日間、やってみたんですけど、譜面に追いつかないですし、まったくバラバラなんです・・。」

 

日本でやったシンフォニーのリハーサルは2日間でした。1日目で行われた演奏は、初見でも、もう素晴らしかったのです。

 

演奏者たちを見渡すと、確かに若い方たちばかりで、そんな話をしている間も、譜面に向かってやっきに演奏しています。余裕が感じられませんでした。

 

僕は、マイクの前に立ちました。

 

「こんにちは。ASKAです。今回は、皆さんと同じステージ立てることを、大変光栄に思っています。一緒に幸せな時間を過ごしましょう。」

 

そして、最後に言いました。

 

「Let’s cross that bridge when you come to it! 」

(不安にならなくてもいいよ。何とかなる。そのときゃ、そのときだ!)

 

残されているのは2日間です。一日、2回まわしのリハーサルでした。1曲を2回ずつ演奏しますので、40回ほど歌うことになります。その日の1曲目は、何の曲だったか覚えていませんが、確かにイントロから、藤原氏の言うバラバラな状態がくみ取れました。歌い出しのタイミングが分からないのです。日本のオーケストラに慣れていた僕には、衝撃的でした。ただでさえずれている演奏に、歌を合わせては、双方がずれていきます。僕は、演奏の柱になろうと考えました。歌でリードしようと思ったのです。藤原氏は、横で懸命にタクトを振っています。僕には、デビュー当時からのスタイルがありまして、リハーサルと本番に区別のない歌を歌います。歌歌いが本気ならば、演奏者も本気になるからです。時間を追うごとに、少しずつ纏まっていきます。

 

「オーケー、その調子。イイよ、イイ!」

 

演奏者の顔がほころびます。皆、一生懸命でした。休憩の時間も楽器を離そうとしません。一体になることを願っているのでしょう。自分の実力を、皆、気づいているのです。その日の、リハーサルが終わりました。

 

帰りしなに、ストリングスの女性たちが寄って来ました。

 

「ありがとうございます。リハサールでこんなに真剣に歌を歌うシンガーは初めてです。頑張ります。」

 

涙を溜めています。胸が熱くなりました。

 

「非常感謝。謝謝。(フェイチャン、ガンシエ。シェイシェイ。)」

(こちらこそ、どうもありがとう。)

 

そして、もう一度言いました。

 

「Let’s cross that bridge when you come to it.だよ。」

 

強く手を握って来ます。僕は、たまらなくなって彼女を抱き寄せました。

 

翌日、リハーサルは1時からでした。少し早めに到着したのですが、彼、彼女たちは、もっと早くから、スタジオに到着しており、すでに練習をしておりました。

 

「おはよう!今日も楽しもうね!」

 

そして、リハーサルは開始されました。違うのです。昨日、あれほど乱れていた演奏が、纏まりを見せ始めているのです。その日も、同じように渾身を込めて歌いました。打楽器にも強弱がつきました。

 

「イイよ!最高だよ!」

 

表情が、どんどん変化していきます。しかし、それでも、実力には限りがあります。もう、ここを良しと受け止めてリハーサルは終わりましたが、皆、帰る気配がありません。僕は、帰れなくなり、その後30分ほど、みんなの練習を見ていました。

 

そして、本番当日を迎えました。皆、フォーマル衣装で楽屋の廊下に溢れています。素敵でした。顔には自信さえ伺えます。本番の開始は、ステージセットの障害で、30程遅れてとなりました。

 

本番ですか?それはもう、情熱でいっぱいでしたよ。あの、初日のリハーサルが嘘のようです。熱意に応え合うようにステージは進んでいきました。些細なミスはありましたが、全く気にならない程度です。僕の、歌詞間違いからすれば、うんでいの差です。皆、1曲、1曲に魂を込め演奏してくれました。

 

終了後、40人がひとりひとりが、楽屋を尋ねてくれて、みんなとハグし合い、記念の写真を撮りました。

 

その後、バンコク、上海、日本、香港と続きました。各国、素晴らしい演奏をしてくれました。もちろん、各国の演奏を録音したのですが、iTunesからの配信音源は、あの情熱に応えてシンガポールに決めました。

 

音楽は世界を繋ぐ。心からそう思っています。ロシアでも行いたいものです。いつか、実現するでしょう。その時は、みなさん、お待ちしています。

ASKA

 

 

 

 

評価

今ね、自分の手を眺めていて、ふと見つけたものがありました。右手の中指のホクロが薄くなって、ほとんど見えなくなっていました。子供の頃から、目印のようにあったホクロなのに。年を取ると、ホクロが増えて行くということに、逆行しているなぁと。わりと気に入ってたんです。どちらにせよ、身体は少しずつ変化していってます。心も同じなのでしょう。変化するということは、自然なことです。変化は、受け入れなくてはなりません。それでも、無くしてならないものがあります。気力です。元、読売ジャイアンツ4番バッター王さんから頂いた言葉です。

 

ASKA君、気力」

 

本当に、そうだなぁと。どんなピンチを迎えても、最後に残るものは、気力なんだと。王さんは、何歳の時に、この気力に気がついたのでしょう。運動選手には、必ずスランプというものがあります。僕の持論なのですが、身体はミクロの単位で、毎日変化をしています。そのミクロな変化に、身体を、または自分のフォームを合わせていくことは不可能です。前日までは、上手くいっていたのに、一日を境にして上手くいかなくなる。実は、一日ではないのです。ミクロの変化が、ある日とうとうラインを超えた日から、上手くいかなくなるという現象が、スランプと呼ばれ始める日の始まりではないかと考えるのです。

 

スランプからの脱出に「基本に戻れ」「元のフォームに戻れ」という教えがありますが、それは違うと思うのです。上手くいかせるためには、ミクロで変化し続けている身体に合ったフォームを探さなければならないと、思っています。

それを、見つけたときにゾーンに入ります。ゾーンはしばらく続きますが、自分の意識していないところで、絶えず変化は起こっています。そして、またある日、スランプに陥ります。このゾーンの状態を、少しでも長く維持するためには、日々の怠らない練習だと思っているのです。大リーグのイチローの凄さは、そこに集約されているのだと思っています。僕も、自分のゾーンを長くしたい。それは、日々言葉と向き合う。メロディを浮かべる。形にならなくても良いのです。その時に合った、またはその年齢に合った作品を紡ぎ出してゆく。

 

結果は現象です。やはりプロフェッショナルである以上、結果は気にしなくてはなりません。事実ですから。しかし、評価は人々の胸の中で様々な顔を見せます。今の僕は、評価の方が大切でしょう。評価は、ミクロに変化しながら、ある日、例えば影響力を持つ人の発言で、あるラインを超えます。それに、影響された人々を大衆と呼びます。大衆はブームに乗りやすい。ブームには必ず終わりがあります。大衆は次のブームの尻尾を追いかけます。今、僕の音楽を聴いてくれている方たちは、大衆ではない方たちです。評価をしていてくれている人たちなのだと思っています。その評価に応えるための音楽を目指しています。

 

「自分の音楽を探究する」

 

強い言葉ではありますが、評価を無視した音楽作りだけは、してはならないと思っています。少しでも長くゾーンでいたいという想いが、僕の音楽の根幹です。そこに魂を宿らせようと思っています。

 

今日も、一日どうもありがとう。

おやすむね。

人生、晴れたり曇ったり。それはお空のお機嫌だけで、その下を歩いている人の気持ちに応えたものではありません。空を見上げて、青空に清々しい気持ちになる人もいれば、青さを痛く感じる人もいます。同じように、曇り空に、どんよりとした気持ちを抱く人もいれば、ホッとする人もいます。僕たちに与えられているのは、どんな時も歩いて行かなければならないということです。時には、時々、立ち止まりながら。立ち止まることに理由があっても、なくても、人は必ずそうします。

 

僕たちは、いつも景色の一部です。景色が僕たちなのかもしれません。それを、自然と呼ぶのでしょう。ふと、立ち止まる人を責める人は、自分が歩いているということに優越感を感じている人でしょう。人には歩幅があり、歩くスピードも違います。大切なのは、目指すものがあるのか、ないのかなのだと思います。嵐の中で、身をかがめ、動けなくなることもあるでしょう。差し出される手に、手を預けられない時もあります。それを見送ることしかできない時があります。空が晴れたら歩き出す。詩的には美しい表現ですが、それを現実に持ち込むのは、非常に難しいことです。動けなくなった時には、空を見上げる余裕もありません。時間は一定に流れますが、それを緩やかと受け止めるか、急かされると受け止めるか・・。やっぱり、最後は心の持ちようなんですね。弱っているときに無理に歩いても、目指す景色は、ただ遠いものとしか映りません。街の景色は、変わって行きますが、変える人たちの手によって変わって行きます。自然によって変わる景色もありますが、気の遠くなる時間を経なければなりません。自分に置き換えてみました。変わる景色を見せて行くことが大切なのではないかと。もちろん、ものごとにはチャンスというものがあります。チャンスにも、種類があります。機が熟すのを待つ。反対にチャンスを引き寄せる。僕は、歩き出すことを決めました。この行為は、後者の方法でしょう。そうするには深い考えと、強い意志が必要です。ひとつひとつの行動には考えがあります。上手くいかなければ、当然だと言われるでしょう。行動を阻む者も出てくるでしょう。覚悟はあります。僕には、こんな考えがあります。

負けは負けを認めたときに負けるのです。

 

そんな心境かな。

ありがとう。

幸せ

幸せ

 

 

夜明けはインク色から

だんだんとカフェオーレ色に変わり

そして真新しい朝の訪れになる

 

届けられた新聞で戦争を憎んだ後

朝食のテーブルで平和を愛す

 

記憶がモノクロームなのはメディアの洗脳のせいで

実のところしっかりとカラーで刷り込まれている

 

初めて買ってもらった自転車は

真っ青な彩りをしていたし

前輪の右横には黄色のピューマの旗が立っていた

走るとそれが風の形でなびいたのだ

 

過去も現在も未来も

街の色は変わらない

ただ景色が変わるだけ

 

ところでいま

あなたは幸せですか

 

幸せはもともと不完全

穴ぼこだらけの資本主義社会

願わない人のところへはやって来ない

けれど

みんなが幸せ願うから

いつも幸せは大忙し

 

幸せはお人好し

幸せは薄情

こんな風に言われてしまう幸せは可哀想

 

幸せは不器用

未来に行くのがとてもへた

だから

予め未来で待っている

 

「気がついたら幸せ」というのが

幸せにとっていちばん楽らしい

 

気づいてあげよう

自分はいま

幸せなのだと

C-46

そこは、フレンチレストランでした。目の前には、漫画家の巨匠、弘兼憲史さんがいました。この方の漫画は、もう漫画の領域を超えて、小説だと思っています。小説を絵で表している方なのだと思っています。誤解をされては困りますが、小説家の方が漫画家の方より勝っていると言う意味ではありません。僕が弘兼さんに抱いている感覚です。弘兼さんの描くストリーは、どれも素晴らしく、まるで一冊の本を読んだような気持ちで、心が満たされてしまうのです。それまで、何度もお話をさせて頂きましたが、食事をご一緒するのは初めてでした。人の気持ちを、素早く、そして深く読み取れる方のだという瞬間がありました。僕は、一瞬にして弘兼さんに惹かれました。弘兼さんは、僕の歌も知って下さっていて、「歌を作る」「漫画を描く」という、お互いの作品、立場を語り合いました。食事も終わる頃、僕はこう思ったのです。伝えました。

 

「弘兼さん、僕の歌を弘兼さんの作品のひとつに加えていただけませんか?」

 

僕は、僕の体験談から「C-46」の話をしました。

 

「良い話ですねぇ。描きましょう。」

 

こういう経緯で「C-46」は、弘兼さんの「黄昏流星群」の一遍に加わりました。どんな作品になるのか、毎日が楽しみでした。そして、2週間後、ふと思ったのです。あの曲をハッピーエンドにしたいと。思ったら、直ぐ行動。僕は、弘兼さんに電話を入れました。

 

「弘兼さん、作品の具合はどうですか?」

「もう、描き上げて編集者に送りましたよ。」

「ああ・・。そうですか・・?」

「どうしました?」

「いえ、ちょっと思いついたことがありまして・・。」

「何でしょう?」

「あの登場人物の最後を、ハッピーエンドにしたいんです。」

「もう、間に合わないですねぇ。来週掲載されますからねぇ。」

「わかりました。とても楽しみにしております。ありがとうございました。」

 

「C-46」は、愛し合い、そして別れたふたりが一緒に過ごした部屋を懐かしむという歌です。

 

別れたふたりは、その若き日の恋愛を胸に抱き、年を取ります。あ互いの人生が幸せであることを願いながら。主人公の男は、ふたりが暮らした、そのマンションの前を通る度に、その部屋を見上げてしまいます。男は、妻を亡くしました。妻を心から愛していました。それでも、若き日のあの楽しかった恋愛を思い出すことがありました。年を取り、お金もそれなりにあります。男は思いました。いつも見上げていたあの部屋に、もう一度住んでみたいと。ふたりが住んでいた頃の部屋の窓は、ブラインドでした。見上げ続けていた部屋の窓は、何十年もの間に何度もカーテンのデザインが変わりました。いろんな人が、あの部屋で過ごし、そして、引っ越していったのでしょう。人間模様が繰り返されたのでしょう。そして、ある日、その部屋の窓はブラインドに変わりました。

偶然でしょう、あの頃、ふたりが暮らした薄いブルーのブラインドでした。想い出します。その住人が引っ越すのを待とうと考えました。それから、2年の月日が流れました。想い出します。フローリングの床、まるでプラットホームのような長四角の部屋、彼女の少し外れて歌う鼻歌。角の丸いテーブル、一緒に買った座り心地の良いソファ・・。今、住んでいる住人が引っ越しをしたら、その頃と同じような家具の配置にしてみたいと。男は、待ちましたが、引っ越しの気配はありません。男は、その住人に交渉してみたいと考えました。マンションのオーナーを尋ねて行きます。オーナーは、男のことを覚えていました。

 

「あの部屋を、譲っていただけませんか?賃貸しではなく、買いたいのです。」

 

オーナーは、言いました。

 

「今、住んである方も、あの部屋をとても気に入ってくれています。どうですか?直接、交渉をされてみてはいかがですか?」

 

数日後、その部屋のブラインドの隙間から明かりが見えました。その部屋に、人が居ることを確認できました。男は、勇気を出します。細い階段を上がりました。部屋のドアの上には「201号」と描かれたパネルがありました。懐かしいパネルです。こんな夜に、突然チャイムを鳴らされたら、住人は驚くでしょう。迷いました。ドアの前には、ひとりの老人の葛藤がありました。指先にインターホンが触れます。男は、ついにそれを押してしまったのです。ドア越しに「はい!」という声が聞こえます。住人は女性でした。どう説明すれば、この部屋を譲ってくれるのでしょう。

 

「突然、もうしわけありません。」

「どなたですか?」

 

ドア越しでの会話となりました。そして、ドアは開けられました。出てきた住人は、老女でした。若き日に愛し合った彼女だったのです。ふたりは言葉なく、涙だけが溢れ合いました。

ASKA