記事作成日:2016/08/15 14:21 │ 最終更新日:2016/08/15 14:33
日本の古代史の舞台となる奈良県明日香村の近く。高取町という小さな町に、城の大きさが約30kmにも及ぶ日本最大の山城「高取城」があります。明治時代に廃城となり、天守閣をはじめとした建物は残っていません。しかし、今も壮大な石垣が山中に数多く残り、朽ち果てて植物に覆われている城跡は神秘的で美しく、アニメで描かれた『天空の城ラピュタ』の神殿のよう。役目を終え、静かな眠りにつく難攻不落の山城をご紹介します。
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写真:澤 慎一
地図を見る山頂に突然現れた巨大な石垣。ほとんど誰の姿もなく、歴史の表舞台から遠ざかり、静かな眠りつく「高取城」の姿です。石垣は苔で覆われ、緑色に変色。巨木が取り囲み、あたりは不気味なほどの静けさ。しかし、生まれたばかりの朝日を浴びた壮大な石垣の姿は荘厳で美しく、超古代遺跡のような風格を感じさせます。
石舞台古墳や高松塚壁画、徐々に向きを変える亀石といった、古代ロマンをかきたてられる奈良県明日香村。このすぐ南に「高取町(たかとりちょう)」があります。「高取城」は、高さ583mの山頂に築かれた山城。
ふもとから天守台(天守閣を載せている石垣)までの高低差(比高)が390mというのは、日本一の規模。城壁に囲まれた部分(城内)は約3km、城の大きさがおよぶ範囲(城郭)が約30kmという、想像を絶する巨大な日本一の山城です。備中松山城(岡山県高梁市)、美濃岩村城(岐阜県岩村町)と並び、大和高取城は『日本の三大山城』のひとつ。国の史跡に指定されています。
写真は、天守台の一部。本丸を守る強固な石垣の上に、3層の天守閣がそびえていたのですが、明治新政府になると、諸大名の領地返還に伴って高取城は廃城に。やがて天守閣も取り壊され、今は巨大な石垣が残るだけ。しかし、かえってロマンがかきたてられ、静寂な自然と遺構を楽しむことができます。建物が崩壊し、整然と積み重ねられた巨石に植物が絡む廃墟は、まるでアニメの世界で描かれた『天空の城ラピュタ』の神殿のよう。
写真:澤 慎一
地図を見るさきほど見えていた石垣の左側を進むと、やがて本丸の入り口に。山中に現れた巨大な石垣は、森林をつらぬく神々しい光を受け、天守閣を失った今も、何かを守り続けているかのようです。
高取城は、「本丸」だけでなく、「二の丸」「大手門」などの壮麗な石垣が山中に点在。作家の司馬遼太郎は「最初にアンコール・ワット(カンボジア)に入った人の気持が少しわかる気がする」と表現しています。
植物に覆われながらも毅然と腰を据える石垣は誇り高く、万里の長城(中国)やマチュ・ピチュ(ペルー)、チチェン・イッツァ(メキシコ)、アユタヤ遺跡(タイ)といった、世界の名だたる古代遺跡にも匹敵するスケールの大きさ。初めて見る者を圧倒させ、現代とは違った、別の時間が静かに流れています。時空を超えて旅する『ラピュタ』の要塞のような、“空想の旅”を楽しむことができます。
写真:澤 慎一
地図を見る続いて石垣を右に曲がると、ご覧のような石垣が。苔むす大木が石垣の合間から太い幹を突き出し、まさに『天空の城ラピュタ』の神殿をイメージさせます。人々の姿が消え、廃墟となった都市を静かに覆いつくす植物。大自然の驚異や、栄華を極めた歴史の末路を思わずにいられません。人間に見捨てられた後も、荘厳な姿を保ち続ける石垣は、はかなくも美しく、深く心を奪われます。
小さな高取町が脚光を浴びるようになったのは、14世紀の南北朝時代。当時は、京都と奈良(吉野)に、2つの朝廷が置かれ、それぞれ対立していました。高取町は、吉野を守るための最前線基地。この地を支配していた豪族、越智邦澄(おち・くにずみ)が吉野側への侵入を防ぐために、高取山の山頂に砦を築いたのが「高取城」の起こり。
その後、16世紀に豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)の家臣、本多正俊(ほんだ・まさとし)が本格的な近世の山城に整備。さらに17世紀の江戸時代に大規模な増築が行われ、本丸には大・小の2つの天守閣を築き、22基のやぐら、33棟の門が設けられました。「二の丸」では、2つのやぐら(太鼓やぐら、新やぐら)を設けた巨大な石垣を見ることができます。
写真:澤 慎一
地図を見るそして、さきほどの石垣を右に曲がると、いよいよ天守閣があった本丸へ。崩れかかった石の階段が、まるで迷路のように石垣の合間を折れ曲がり、本丸へと続いています。本丸の周囲は樹林が生い茂り、眺望はあまりよくありませんが、木々の合間から吉野の山並みを見渡すことができ、のどかな大和の景色を楽しむことができます。また、本丸に向かう途中に、国見やぐらというスポットがあり、ここから見渡す大和盆地は絶景!
しかし、高取城は、藩主の権威や眺望を楽しむものではなく、戦うための城。山の傾斜を利用した天然の要塞です。関ケ原の戦いでは西軍の石田三成から猛攻を受けても、東軍の本多側はこれを撃退。江戸末期には、幕府に反旗をひるがえす天誅組約1000人から襲撃されましたが、わずか200名の守備隊で守り切りました。実践でいかんなく力を発揮し、戦いで一度も敗れたことのない、名実ともに“難攻不落”の山城です。
しかし、史上最強の力を持ちながらも、歴史の流れとともに朽ち果てる運命となった結末は、『天空の城ラピュタ』につながる滅びの美学が感じられます。
写真:澤 慎一
地図を見る最後に、絶対おすすめのスポットを。本丸への山道を歩いていると、目の前に突然、宇宙人のような不思議な物体が。これは、二ノ門に置かれた“猿石(さるいし)”。7世紀の飛鳥時代に作られたもの。なぜ飛鳥時代の遺跡が、高取城の門にあるかといえば、飛鳥時代の遺跡を高取城の石垣に使っていたとの研究もあり、この「猿石」は明日香村から誘拐されたのですね。
「猿石」がここに置かれたのは、郭内と城内の境目を表す“結界石”や「守護神のため」というのが有力。その「猿石」ですが、ちょっと不気味ながらも愛きょうがよく、可愛らしい。そこで、イメージするのは、廃墟となった『ラピュタ』を守り続けている一体のロボット兵のこと。この「猿石」は、今も奈良の“ラピュタ”をひとり、守り続けているのかもしれません。
ちなみに、明日香村にある「猿石」は、インドネシアの島々にも似た石仏があり、南太平洋の文化とかかわっているのではないかと指摘する学者もいます。不思議なパワーを秘めた謎の「猿石」。高取城に来られたら、ぜひご覧いただきたい石仏です。
「高取城(本丸)」へは、壺阪口門(八幡口)、七ツ井戸、吉野口門、二ノ門といった入り口からアクセスすることができます。
一番早いのが、本丸のすぐ下の七ツ井戸までクルマでアクセスする方法。しかし、道幅が狭く、数台しかクルマを止めるスペースもなく、通行規制も行われていることもあり、あまりおすすめできません。
おすすめは、高取山のふもとにある壷阪寺までクルマ、もしくはバスでアクセスし、クルマから降りて山肌に掘られた五百羅漢の仏像を見ながら、壺阪口門(八幡口)から本丸へ歩くルート。
ハイキング好きな方なら、近鉄・壺阪山駅から城下町の名残を楽しみながら、高取川に沿って進み、二ノ門から本丸へアクセスするのもおすすめ。高取城の大きさ、魅力が一番感じられるコースです。このコースは、最後の段落でご紹介した「猿石」に途中で出会うことができます。
夏は新緑、秋は紅葉、春の新芽や冬枯れの景色も美しい高取城。ハイキングコースとしておすすめなので、四季を問わず訪れてみてはいかがでしょうか?
なお、高取城は日が暮れると、実に不気味。心霊スポットとしても知られています。「あなたの知らない高取城」については別途、記事にまとめていますので、高取城へのハイキングコースと併せて、ご興味のある方はリンクからのぞいてみて下さい。
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