撮影/山田秀隆
8月3日にリリースしたニューアルバム「LUNATIQUE」
撮影/山田秀隆
DJ、プロデューサー、リミキサーとして多彩に活動する石野卓球さん。電気グルーヴとソロ活動の違いから、「官能」がコンセプトの注目のニューアルバムまでを、下ネタまじりの卓球節で語った。(文・中津海麻子)
◇
(前編から続く)
――1991年、電気グルーヴとしてメジャーデビュー。ほかのメンバーと「こういうビジョンでいこう」みたいなものはあったのですか?
一切ありません。そういう話をしちゃうと、その方向に行かなきゃっていう共通認識が芽生えてしまい、ほかの可能性が断たれてしまう。そもそもうちらが目指していたのって前例がないものだったから、目標なんて持ちようがない。
初の武道館ライブ(92年)だって何の思い入れもなかった。事務所やレコード会社から「一度武道館やれば商品価値が上がるから」って言われたからやっただけ。あのころは「武道館やらされた」なんて生意気言ってましたから。てか、武道館を目指して音楽やってるヤツなんてダメでしょ。じゃあ武道館やったらそのあとどうするの?って話。僕は目的も目標も持たない。今日死んでもいいんです。腹上死で。
――期待通りのコメントありがとうございます(笑)。電気グルーヴとしての活動とは別に、90年代後半は卓球さんソロでのDJワークに力を入れていきました。
電気グルーヴの仕事がそこそこうまくいって認知もしてもらえるようになって、とはいえお茶の間に届くようなヒット曲はなかった。それが97年の「Shangri-La」である程度達成できた。もともとDJは興味があってやっていたんですが、DJは国境が関係ないので海外でも活動できる。そういう事情もあって、国内の電気グルーヴ、海外はDJとしてのソロ活動、みたいな感じにシフトしていったんです。
――ドイツ・ベルリンで行われる世界最大規模のレイヴ「ラブ・パレード」に98年、初参加し、150万人のオーディエンスを前にDJプレイを披露しました。何を感じましたか?
僕が最初に影響を受けたのはニュー・オーダーなどヨーロッパのバンドだったし、ましてやデア・プランなど影響を受けまくった先鋭的なバンドはドイツだったし、まさに自分が影響を受けたど真ん中に行って、自分なりに表現してきたことを発表できた。それはもう最高でした。
それに、自分がやっていることや目指す方向性が間違ってなかったと確信できて、可能性ややりたいことがもっともっと広がった。そういう意味では、それまでとは比べられないすごい経験ができたと思っています。
――海外で活動する一方で、99年には日本最大級の屋内レイヴ「WIRE」を主宰しました。きっかけは?
当時、日本でもクラブミュージックとしてテクノが認知され、それなりに流行もしていた。もちろんドイツに比べたら規模は小さいんですが、ヨーロッパのほかの国に比べたらそんなに遜色がないと感じていました。なのに、それを楽しむ現場であるレイヴが、野外ではあったけど屋内にはまったくなかったんです。じゃあやろうよ、と。僕が呼ばれてDJプレイしたドイツの「MAYDAY」という世界最大規模の屋内レイヴがあり、それをイメージして企画していきました。
「WIRE」は2013年まで続けました。そこで終わりにしたのは、15回もやったんだからもういいだろうっていうのが本音かな。長く続けることが目的じゃないし、それを目的にすると本質的な部分が変わってきちゃう。で、キリのいい15回で一区切りつけたんです。
――ユニットである電気グルーヴの活動と、DJとしてのソロ活動。その違いは?
電気グルーヴはある程度一般的なお客さんを視野に入れていますが、ソロのほうはあんまり売れることは目的にしていない、というのはありますね。もちろん、売れるに越したことはないけど(笑)。
あとは、電気グルーヴには「キャラクター」みたいなものが不可欠だと。特に今は。以前はよりハードコアでシリアスな方向の音楽を志向していた時期もあるんだけど、今は「中年のおじさんたちがずっとふざけてる」っていう感じでできたらいい。でも、ちょっと注意深く細部まで見てみると、実はマニアックな趣味や知識のある人がより楽しめるような音楽になっている。それが電気グルーヴ。これからも、そんな感じで続けていけたらいいですね。
――ソロとして6年ぶりのフルアルバム「LUNATIQUE」が8月にリリースされました。コンセプトは?
「官能」、もう少し具体的に言うと「僕が性的な魅力を感じる対象としての音楽」がテーマ。裸の大将ではないです(笑)。ある日、僕のあそこに雷が落ちまして、そのとき「一番モチベーションが持続するのは性的なものだ。性欲は裏切らない!」と気づいたんです。
アルバムって大抵は制作期間が決まっていて、これまではその期間に作った曲を1枚にまとめて出してきたんですが、今回はまず「官能」というテーマを決め、そのテーマに合った曲を、以前から作りためてきた中から選んでアルバムにする、ということをやってみた。前作のミニアルバム「CRUISE」(10年)を出した後に作った曲が中心で、古いのだと07年ごろの作品もあります。それを土台にしてオリジナル曲に仕上げました。DJするとき、ボックスの中からレコードを選ぶのと同じ感覚。テーマありきというアルバムの作り方は、実は初体験でした。
――ジャケットがすごくかっこいい!
全曲インスツルメントのダンスミュージックで、どんなふうにでも受け止めてもらえる自由さがこの種の音楽の魅力だから、あまり「これ」というイメージはつけたくなかった。でも、ちょっと矛盾するかもしれないけど、全然違う方向性に受け取られたくはない。だから、聴く人に性的なイマジネーションをかきたてるようなビジュアルを、と考えました。最初は昭和のSM雑誌のグラビアがいいなと思ったんだけど、さすがに生々しすぎた。で、毎夜毎夜の僕の使命であるフェティッシュサイトパトロールをしていたときに、ある絵にばったり出会って。それが、成人向け劇画誌「漫画エロトピア」の表紙だったんです。
うちの実家は、パンやお菓子、雑誌なんかを置く今でいうコンビニみたいな店で、小さいころはエロ雑誌とかエロ漫画とか読み放題でした。だからある意味、僕の性の原体験みたいなもの(笑)。髪型の感じがちょっと古かったのでトリミングしてみたら「おお、これだ!」と。具現化できるのは宇川くん(アーティストでDOMMUNEを運営する宇川直宏さん)しかいないと、すぐにアートワークを頼みました。元の絵はかなり昭和な雰囲気なんだけど、ハードコア・レタッチでメイクを今風にしたことで、エロいながらもすごくスタイリッシュなジャケットになりました。
――ジャケットやパッケージへの熱い思いが感じられます。
思い入れはすごくありますね。子どものころ輸入盤のレコード買ったら、まず匂いをかいでアメリカとヨーロッパの匂いの違いを感じ、そのあと頭にかぶったり(笑)。勝手な思い込みかもしれないけど、ジャケットから伝わってくる思いとか、音だけじゃなくて音に付随する楽しみがあったんですよね。そういうのは必要ないって人と、逆にそこにこだわってどんどん豪華仕様になっていくケースと、両極化する最近の流れは寂しいですね。真ん中がいいのに。見て触って匂って、そして聴いて。五感をフル稼働させて音楽を楽しむのって大事だよ……と、そのように考える次第でございます。
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石野卓球(いしの・たっきゅう)
1967年、静岡県生まれ。1989年にピエール瀧らと「電気グルーヴ」を結成。95年、初のソロアルバム「DOVE LOVES DUB」をリリースし、この頃から本格的にDJとしての活動も開始。97年から海外での活動も積極的に行い、98年にはベルリンで開かれる世界最大のテクノ・フェスティバル「ラブ・パレード」で150万人の前でプレイした。99年から2013年までは、1万人以上を集める日本最大の大型屋内レイヴ「WIRE」を主宰。15年、ニュー・オーダーのニューアルバム「Tutti Frutti」のリミックスを唯一の日本人とし担当。16年8月、6年ぶりとなるソロアルバム「LUNATIQUE」をリリース。
石野卓球オフィシャルサイト:http://www.takkyuishino.com/
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