日本は静かに、そして間違いなく、戦争体験者のいない時代を迎えつつある。

 終戦の前に生まれた世代は人口の2割を切った。戦友会などは次々に活動を終えている。

 日本人が71年間、厳粛な気持ちで過去と向き合ってこられたのも、あの過酷な時代をくぐり抜けた人びとが身近にいたからだ。その存在があればこそ、戦争は遠い史実ではなく共通の体験として、「戦後」という言葉で間近に意識されてきた。

 戦争の「記憶」や「記録」は新たな時代へ、きちんと残されているだろうか。国内外の惨禍を二度と起こさないための教訓を受け継ぐ基盤があるか。いま点検しておく必要があろう。

 ■多様な過去への思い

 長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館で7月23日、湯沢政一さん(86)が「語り部」として登壇した。

 満蒙開拓青少年義勇軍として15歳で満州(現・中国東北部)に渡った。まもなく終戦。仲間の少年が、食料を奪いにきた現地の中国人に銃で反撃した。少年はソ連兵に撃ち殺された。

 酷寒の収容所で大勢の少年が命尽きた。湯沢さんはたまたま出会った中国人の紙問屋に雇われ、生き延びた。

 「中国人を恨んでいないのか」。来館者の質問に湯沢さんは答えた。「ここに私がいるのは中国人のおかげなんです」

 戦争末期、満州に残された開拓団の逃避行は凄惨(せいさん)を極めた。ソ連軍の攻撃、地元民の襲撃、集団自決。だが、彼らの口からは中国人の土地を取り上げた罪悪感も時にほとばしり出る。

 敵が味方になる出会いがあれば、加害を担わされた人が被害者として苦しむ理不尽もある。体験した人の数だけ、戦争の姿がある。歴史の教訓とは、その多様な記憶の積み重ねから学ぶべきではあるまいか。

 ■記録の保存も急務

 いまも黙して語らない人がいることも忘れてはなるまい。

 生き残ったことへの心の負い目や家族への配慮から、記憶を封印する人がいる。「自虐的」といわれかねない、ぎすぎすした空気に尻込みする人もいる。

 元兵士の証言映像を記録する市民団体「戦場体験放映保存の会」(東京)の田所智子さんは「今までだれも自分に尋ねてこなかった、と打ち明けてから話し始める人が多い」と話す。

 彼らの記憶にきちんと向き合えているか。戦後に生まれ育った側の姿勢が問われる。

 いつ、だれが、徴兵、動員され、どこで、どのように亡くなったのか。こうした記録も戦争の実相を知るのに欠かせまい。

 だが、地方の役場がつくった公文書の多くが、戦後の自治体合併を経て、廃棄されたり、行方がわからなくなったりした。

 文書管理のルールを定め、歴史的文書は国立公文書館に移すことを決めた公文書管理法が5年前に施行され、記録を後世に残す態勢はようやく整った。

 だが、文書の所在を調べ、その価値を判断する人材が足りない。文書の保存状態もまちまちだ。欧米でアーキビストと呼ばれる、記録の収集、評価から整理、保存までを担う専門家が日本でも育成されるべきだろう。

 別の壁も立ちはだかる。閲覧を求めた多くの研究者が個人情報の保護を理由に門前払いされている。死者の情報は法律の対象外だが、「生存する遺族に影響する」というのが理由だ。

 東京都も空襲犠牲者の名簿を開示していない。東京大空襲・戦災資料センター主任研究員の山辺昌彦さんは、「空襲の全貌(ぜんぼう)や何が生死を分けたかを知る上で貴重なのに」と残念がる。

 記録の内容や閲覧目的などを考慮した上で、柔軟な対応が検討されてもいいのではないか。

 安倍首相は昨年、戦後70年の談話で「過去を受け継ぎ、未来へ引き渡す責任」を明言した。

 であればこそ、戦争の記憶や記録を財産として未来へ伝承する努力を政府としても支えてほしい。「日本は過ちを繰り返さない」という世界への強い態度表明にもなるはずだ。

 この71年間、日本は何とか平和であり続けたが、世界では幾多もの戦争が繰り返された。

 戦禍は過去のものではなく、現在も多くの悲劇を生み続けている現実を忘れてはなるまい。

 ■現代の戦争に学ぶ

 とりわけ難民たちは、各地で急増する犠牲者だ。

 NPO「難民支援協会」は日本に住む難民から体験を聞く会合を続ける。最近は少数民族として祖国ミャンマーで受けた迫害と難民認定までの苦労を語る男性の話に市民が耳を傾けた。

 日本が起こした戦争の教訓を思い起こし、そしていまも不条理な紛争が続く世界の姿とを併せて考えることが、グローバル化時代を生きる市民一人ひとりに求められる責務ではないか。

 この夏、まわりにいる内外の戦争体験者から話を聞いてみてはどうだろう。世代も国境も超えて戦争の愚かさを考え、明日の平和をつなぐ一歩として。