2016/07/20
昔、「『付き合う』ってなんだろね」と、恋愛話をしていたときのこと。
「別に『付き合う』必要なんてなくない?」「付き合わなかったらセフレじゃん」「でも付き合ったらめんどくさいだけでしょ」などなど議論が飛び交う中、友人が放った言葉がとても印象的でした。
「おれは何かを感じた時に『あ〜これを伝えたいな』って思える人が彼女なんだと思う」
どんなに些細なことでも共有出来て、どんなにつまらないことでもなぜか少し面白くなってしまう。
だから「付き合う」とは、ひとりでは意味のないことにふたりで意味をもたせること、なのかもしれません。
先日読んだ平野啓一郎さんの小説『マチネの終わりに』で、こんな描写がありました。
彼は、日曜日の代々木公園で、引き金を引くとシャボン玉が出てくるおもちゃの銃で遊ぶ子供たちを目にして、この話を洋子にしようとすぐに思った。
マチネの終わりに/平野啓一郎
主人公と洋子は恋人と言える関係性ではありませんが、「この話を洋子にしようとすぐに思った」というところから、彼にとっていかに洋子の存在が大きなものなのかを読み取ることが出来ます。
ただし、洋子には別の婚約者がいました。結局このふたりは愛し合っているもののお互いの関係性に確証をもてないまま、すれ違いにすれ違いを重ねることになります。
どうでもいいことなんだけど、誰かと共有したい。それを真っ先に共有出来る相手が「付き合っている」人です。
自分にとって、いちばんに思い浮かぶのはやっぱり彼女だし、彼女にとってもそれが自分であって欲しいと思います(たまには家族や親友に負けて、二・三番手に甘んじることもあるかもしれないけど)。
日常なんてくだらないこと、取るに足らないことの連続です。それを一緒に楽しめる相手がいるのは喜ぶべきことですし、感謝すべきことだと思います。
合理的に考えれば、そんなどうでもいいことよりも生産性の高いことに時間と労力を費やすべきだ、とも言えますが、人生の満足度を高めるのは意外とそんな「くだらないこと」なのかもしれません。
いま日本一モテる男、源さんもそう歌ってます。『くだらないの中に』。
髪の毛の匂いを嗅ぎあって くさいなあってふざけあったり
くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる
くだらないの中に/星野源
ひとりなら意味のないことでも、ふたりなら意味のあることになる。
「付き合う」なんて行為は、口約束に過ぎません。名目上「彼氏」「彼女」と、第三者的な呼び名が変わるだけ。
付き合ったからといって、自分も相手も物理的、制度的に何かが変わるわけではありません。
変わるのはお互いの意識だけ。
でも、その意識が変わることによって、くだらないことを受け入れる義務と権利が発生するんじゃないでしょうか。
相手のくだらないおしゃべりを受け止められるのは、付き合っている特権なんです。
どうでもいい話、ウェルカム。
なんてくだらないこと考えてないで、働きます。
タケダノリヒロ(@NoReHero)