序盤で原沢久喜が不用意な指導2つをもらい、男子最重量級の決勝は全階級を通じて最もつまらないものになってしまった。優位に立った王者リネール(フランス)はまともに組まず、原沢も何もできなかった。
現在のルールは組み合うことを求めている。だが主審はリネールに反則を与えられない。「顔役」というわけだ。体操の内村航平は個人総合で追いこまれて本領を発揮したが、ライバル不在のリネールは審判に一目置かれ、本当の底力を示すことも、もう一段の高みを目指すこともなく王座に君臨し続ける。これは柔道家として一つの不幸ではないだろうか。
■勝負どころの見極めにたけていた海外勢
日本の男子チームは4年でワンランク上の力をつけた。力と引き合う成果も手に入れた。女子は総合力の底上げが十分ではなかったものの、力のある選手にメダルを取らせることはできた。その成果は成果として、各人ができたこと、できなかったことを検証すべきだろう。原沢はよくやったし、初挑戦の彼には酷かもしれないが「審判が悪い」では進歩がない。
8人の銅メダリストたちはどうか。男子100キロ級の羽賀龍之介に内股を封じられたときのBプランはあったのか。金メダルを逃した者の涙をたくさん見たが、3位決定戦の多くは接戦で、「やむなく銅」よりも「なんとか銅」に近かったことを忘れてはならない。
男子73キロ級の大野将平は組んで投げて王者になった。日本が王道を求めたからこそ得られた宝物。だがこんな選手はとぎれとぎれにしか出現しない。対して、ほかの階級を制した外国勢は技能より勝負どころの見極めにたけていた。自分の強みと弱みを見つめた跡があり、そこから選びとった戦術の徹底があった。日本選手はそこまで一徹になれていただろうか。
■マイナスをプラスに替える手掛かりに
もう一つ。私が驚いたのは女子70キロ級の田知本遥の金だった。これまでは才能はあるのに攻めの遅い選手に見えた。ためらい、尻込みして勝機を逃すのを何度も見た。その田知本が先手先手の大外刈りで海外勢の足と勝機を次々に刈り取った。
平常心で戦えないのが五輪だが、五輪でしか出ない力もある。魔物もいるが、魔法もある。特別な舞台が、ノーシードで失うもののない彼女のためらいを振り切らせたのだ。4年後の東京で、日本選手は並々ならぬ重圧を引き受ける。だが田知本の変身は、マイナスをプラスに替える手掛かりの一つにならないか。
(筑波大体育系准教授)