今月26日、新海誠監督の新作「君の名は。」の公開がはじまる。
HPを見る限り、物語は田舎の女子高生・三葉と東京の男子高校生・瀧の見知らぬふたりが、ある日突然入れ替わってしまうというもので、設定された日本も千年ぶりの彗星の来訪を控えているなど、街・空間・時間の広がりを感じさせてくれそうなものになっているとかんじる。
ぼくも見にいくつもりなのだけれど、ここでひとつ問題がある。
そう、ぼくは「新海誠が苦手」なのだった。
映像とか、物語とか、そういうものはぶっちゃけ好きな方なのだけれど、致命的に嫌いな部分があって、どうしても「イカ臭い童貞が喜びそうなアニメ」というふうにしかかんじられない。
これはけっこう個人的に深刻ななやみで、まわりの友だちも新海ファンが多いので、これまですごくいいにくかった。だからもういっかいいうよ、
新海誠はイカ臭い童貞が喜びそうなアニメ!
ちょっとだけすっきり。
でもこれじゃああまりにも不公平だとおもうので、他のひとの評価とぼくのおもうところを比較しながら、新海誠をもういちど考えてみることにした。
でも、がちがちの批評みたいなのが思った以上に見つからなかったので、もしそういうのがあるページや本を知っているひとは教えてくれると超たすかります……!
新海誠の卓越した描写能力
新海誠監督の受賞歴はこんなかんじ。
2002年
・新世紀東京国際アニメフェア「公募部門優秀賞」・アニメーション神戸「作品賞」・文化庁メディア芸術祭「特別賞」・デジタルコンテンツグランプリ エンターテインメント部門「映像デザイン賞」2005年・第59回毎日映画コンクール「アニメーション映画賞」・韓国SICAF2005「長編映画部門優秀賞」2007年・フューチャーフィルム映画祭「ランチア・プラチナグランプリ」2013年・カナダ ファンタジア映画祭「今敏賞」・アニメーション神戸「作品賞・劇場部門賞」
世界的な成功をおさめているといっても過言でもない、輝かしい成績です。
ぼく自身が比較的すきなお話は初期作品である「ほしのこえ」。
25分の短編作品で、天文学的距離を隔てた中学生カップルの恋心を巧みに描いている、なんて陳腐なことをいいたくはない。感情をメールにかえ、物質的であるがゆえにリアルタイムでは決して届くことなく、それじたいが「過去」になってしまう。
「世界=ケータイの電波が届く場所」とした美加子の感覚と、その感覚を超えた次元にあるもう一段上の「世界」を描いて見せた。
その後の作品で、かれの作風を決定づけたのが「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」といった作品におもえる。
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しかし、ぼくが苦手なのは圧倒的にこの2作。
ひとまずそれは置いといて、ほかの検索して引っ掛かったブログをとりあえず貼り付けてみる。
サブカル備忘録さんは、その魅力について「新海誠によって描かれた日本」というものに対するひとびとの反応に注視しているのがおもしろい。
たしかに、新海誠は「日本を描く」ことにただならぬこだわりがあるようにかんじられる。描写のひとつひとつにそもそもただならぬコストがあてられているのは素人目にもはっきりわかるけれど、そのディテールを追求した結果の「現実感(≠リアリティ)」になるのだろう。卓越した描写能力の末、できあがった精度の高い世界は鏡の特性を持つようになる。
以下の2つはともに「新海誠作品はなぜ評価されるのか? - サブカル備忘録」より引用
例えば、上記のシーンを見てみると、話の中で必要なのはスマートフォンの画面の通話履歴だけである。この時点ですでに細かいのだが、さらに、その奥にはリモコン、雑誌もぼかす形で表現されている。異常にリアルな世界がそこに描かれているのである。
しかし、この場面に共感できるのは今、僕らが2016年を、正確に言えば2000年くらいから2016年までを生きているからこそ共感できる場面だとも言える。このスマホ画面内の通話履歴という画面は、ガラケーとあまり変わらないデザインであり、スマホの中のガラケーらしさだと僕は思っている。つまり、昔ガラケーを使い、スマホに買い換えた経験から、スマホの中にガラケー的な要素を見出すことが出来るということである。
海外の彼ら彼女らはこの映画を日本の生活の風景として、つまりフィクションとして捉えている。言ってしまえば、僕らが「SEX AND THE CITY」や「フルハウス」をみるようなつもりなのである。新海誠監督作品は、日本的なものが登場する。例えば、「言の葉の庭」では万葉集を扱い、「秒速5センチメートル」では田舎の単線、「ほしのこえ」では種子島宇宙センターが登場する。それは歌舞伎や相撲のようにあからさまな日本文化、COOL JAPANではないが、確かに日本的なものである。もっとおしとやかな日本的なものである。
これはおそらく、作品の主観的な力ではなく、客観的な力だ。
新海誠はきわめてプライベートでナイーブな主題を扱うのに、こういった「見るものにより表情を変える」という作品にできあがっている。この点は素直にすばらしいといいたい。
言語に対しての執着と無頓着さ
しかし、その反面で看過できないこともある。
それが新海誠の「言語に対する無頓着さ」だ。
新海誠作品の特徴は詳細に及ぶ卓越した描写力のほかに、「詩的」な語りにあるとおもう。
登場人物たちはどちらかというとそこまでおしゃべりなひとはいなくて、「ずっと言えなかった、この物語でなければ話せなかったことば」を抱え込んだひとたちが、ぽつりぽつりと語りだす。
あきらかに「ことば」に対するこだわりがあるように思えるのだけれど、ぼくはどうもそれがよいものであるように思えないのだ。
その原因は、「高すぎる描写能力」にある。
新海作品の一人称語りは、おもに心のうちに溜め込んだ感情、嗅覚や触覚といったような、視覚情報以外のイメージを喚起する。しかし、映像の描写にかけられたコストとことばにより描写されたもののコストがまったく釣り合っていないのだ。
ことばがどうも映像の補填という位置づけとしかなってなくて、ひじょうにバランスがわるいようにおもわれる。
あくまでことばのセンスにかんしてはぼくの主観による感覚がおおきいのだけれど、よくもまぁ、こんなやっすいポップミュージックの歌詞みたいな、消費用の感傷を恥ずかしげもなく並べられるなぁとおもう。映像に対して、相対的にこのくらいの表現力しかもっていない。
これは新海誠の言語感覚の無頓着さにあるのだとおもう。
表現というものを言語だと捕えるならば、映像とことばにそれほどおおきなちがいはない。そして「映像」という言語によって表現されているものは、新海誠が考えている以上に、「ことば」で表現されているものをすでに表現してしまっている。だから高精度に表現されたものを、あえて精度の著しく低い言語で、改めて表現しなおしていることには首をかしげてしまう。
こういうことが作品で起こってしまっているのは、どうも無頓着におもえてならない。
紋切の感傷なんてぜんぜん必要ないのに、というか、ことばが安易なセンチメンタルに着地してしまうことで、失恋や別れを自己満足的に消化しておしまい、みたいになっちゃってるから、イカ臭い印象がぬぐえないのだろうなぁ。
ともあれ、もうすぐ新作「君の名は。」がみれる!
新海誠監督の新境地をたのしみにしています。