2016-08

「やる気がないならやめろ」 - 2016.04.08 Fri

少し前からネット上で、指導者側の「やる気がないならやめろ」という言葉の是非について取りざたされていろいろと話題になっていました。








新入社員教育や部活、塾などなどで使われるこの「やる気がないならやめろ」「来るな」という発奮を促す意味合いで使われるこの言葉。

議論の大元になったのは、新入社員を教育する立場の人が「そのように新人に言ったら本当に来なくなってしまった。今時の若い者は根性がない・・・・・・。自分の指導はおかしくないよな?」という話に対しての、さまざまな人からのリアクションだったようです。

特に若い人たちからは、「そのような言い方がよくない」とそれに対する「反対」、逆にある程度の年齢の人からは「賛同」の声が多かったようです。



僕ももちろん”ある程度の年齢の人”に含まれてしまうわけですが、この「やる気がないならやめろ」はたくさん耳にしてきました。
僕の世代では”当たり前”の言葉であることと思います。


しかし、この「やる気がないならやめろ」という言葉による指導は、指導法としては不適切なことなのです。
不適切どころか、むしろ最低ランクの指導法です。
いや、「指導」とすら言えないものです。


かつての僕自身も含めてですが、この言葉を”当たり前”なことだと受け止めている人はかなりゆがんだ価値観を持たされてしまっているといっても過言ではないかもしれません。




この言葉の問題点は、そこに「嘘」があることです。
この元の話の新人教育係の人は、そのように言ったら実際に来なくなってしまったことにショックを受けております。
つまり、この人はその人に本心から「来るな」と言ったわけではなく、発奮を期待してその言葉を発しているわけです。

ここにすでに矛盾がありますね。
「来て欲しい」のに「来るな」と言っている。
しかし、その結果を受け入れられない。



方便としての「来るな」が、相手には方便として受け取ってもらえていないわけです。

僕のような昭和世代のスポ根文化を知っている人間には、その方便が”お約束”とわかっています。
しかし、世代間に開きのある若い人たちには、頭の中では”お約束”を理解しているにしても、それを感情的に受け入れたくはないわけです。

実際の所、スポ根世代だって「やる気がないなら来るな」と言われてうれしい人などおりはしないでしょう。


若い人たちがそれを感情的に受け取るのは当然なのです。
なぜなら、この言葉には他にも問題点があるからです。



それは、「やる気がない人間だ!」と断定することにより、相手の人格を「侮辱」していることです。

また、「来るな」ということで、その人の帰属意識、居場所がないことを匂わせる「疎外」をしています。


これらはその相手の「否定」になっています。

「嘘」があり「侮辱」があり「疎外」がある。
そして問題点があることを「現状の否定」ではなく、「人格の否定」にしてしまっています。



さらに言うと、この”お約束”にはある種の「モラハラ」が含まれているのです。
この”お約束”は、指導側が”怒り”を見せ、教わる側が”謝罪・恭順”の姿勢を示すことで、”手打ち”になる伝統芸です。

「お前が下で、俺が上だ!」

という、階層、上下関係を再確認させるというプロセスになっています。

これは形は違えど、動物の調教の際にこのプロセスが重視されていますね。
(エサを目の前におきながら”ふせ”をさせて”よし”と言われるまで食べてはならない、など)


「俺を先輩として(先生として、上級者として)持ち上げ、お前がへりくだらなければ仕事(勉強)を教えてやらないぞ」

という、一種の「モラハラ」を利用した「脅し」となっているのです。





「嘘」「侮辱」「疎外」「人格の否定」「モラハラ」

これらは指導法として優れたものでしょうか?

もちろんその答えは「いいえ」です。

むしろ、すべてが”もっともしてはならないこと”なのです。




その相手に、指導して改善すべき点があるのだったら、まず嘘をなくすべきです。

その人に頑張って欲しいのであれば、「あなたには期待しているから現状を乗り越えるよう努力して欲しい」と正直に伝えればいいのです。


その人の至らない点を短絡的に、「やる気」「努力」「根性」といった”精神論”に置き換えてしまうのではなく、まずは自分はどのようなことを望んでいるのかを相手に適切に伝わる方法で伝え、それに対して「あなたはどう思うか?」と自分で考えさせ、
次に改善が必要であると自分が考える点を伝え、「そのためにあなたはどう考えるか?」と投げかけていけばいいのです。


本当に相手がやる気がなく、期待できず切り捨てたい人なのならば、そのままお断りすればいいのです。その場合ならば「やる気がないなら来るな」でも結構かもしれません。
でも、やる気があるにも関わらず侮辱をされるから、そんな人に従いたくない、つまりその指導者を信頼できないのです。


「やる気がないなら来るな」という指導の言葉は、「指導の放棄」と同義です。
その人への適切な指導の仕方がわからないから、精神論にして相手の自助努力に投げようとしている言葉なのです。
結果的に、自分がより適切な指導ができないことをその言葉によって露呈させています。



不適切な指導法をしておきながら、その相手を「今時の若者はやる気がない、根性がない」などの自己正当化をしては発展はありません。よい指導者は、「やる気」を高めることすら明確に意識してアプローチをしています。



しかし、日本にはこの考え方、蔓延していますよね。
若者が社会に出たがらないのもわかります。



僕の世代も、家庭で、学校で、部活で、たくさんこのような”指導”をされてきました。(これも「支配と管理のパラダイム」の産物なのだと思います)
なので、また下の世代に繰り返しています。
僕らの世代は、たくさんのモラハラが当たり前の中で育ってきたので、モラハラに鈍感になってしまっています。


相手をおとしめることで発奮させ伸ばそうというのは、自分たちにはうまくいった手法だとしても、むしろその自分たちが特殊な状況にあったのです。
そのことに気づいたほうが、自分自身も、周りの人も幸せになるのではないかと思います。







余談なのですが、この話題にともなってちょっと興味深いことがあったので書き添えておこうと思います。

それがこちら。

林修先生、「教え子のモチベーションを上げるためにすることは?」の答えが「ぐう正論」すぎて胸打たれる人続出


この林先生の話をもって、上のテーマでの「やる気がないならやめろ」は正しいのだという論説に解釈してしまっている人がいるのだけど、これは「論理の妙」「言葉のレトリック」というやつで、同じテーマを述べているように見えてまったく違う次元の話をしているのですね。


同じ「やる気がないならやめろ」という言葉をテーマにしているけれども、ここで林先生の語るエピソードの大学の先生が言う「やる気がないならやめろ」という言葉は、そのままの意味であるということ。

発奮を促すための「嘘」ではなくて、「やる気にならないのならば、やめればいいじゃないですか」とそのままの意味で使っているわけです。


つまり、まるでカードゲームの”UNO”のように、同じ数字(「やる気がないならやめろ」という言葉)を出し、それをポータルにすることで文字列の色を変えてしまっているのです。

色が変わったことに気がつかなければ、この二つは同じ文脈の上にあるように見えてしまうけれども、実際は全然別のことについて論じているので、この林先生の話は少しも最初の「やる気がないならやめろ」の議論の賛成する理由の援護にはならないのでした。

こういうのは言葉や論理のおもしろさだなぁと思います。
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● COMMENT ●

No title

もと人事屋でした。
育児や学校では、やる気があろうがなかろうが指導者は教育を止めるわけにはいきませんが、企業ならばやる気がない人は辞めてもらわないと雇う側も雇われる側も不幸です。
採用コストを考えると新入社員研修で辞められるのは痛手ですし、そんな人を採用した人事の責任も問われますが、雇用者と被雇用者の対等な立場として(雇ってやる、雇っていただくという立場ではないという意味)、仕事が合わないのであればもっとやりがいのある仕事を見つけて欲しいと思います。
これもおとーちゃんさんが仰る「やる気がないならやめろ」とは違う次元の話ですが、新入社員教育の多くがスポ根でやっているわけではないです、と言いたくて・・・
そのように教育すると、結局、自立・自律して仕事ができる人が育ちません。
最近の若い人については、その役割としての責任を追及しているのに、人格を否定されたかのように感じる人が多いということを感じます。
例えば「この納期じゃ絶対に生産がおいつかないから交渉して納期を遅らせてもらえ」と言っているのに、自分自身を否定されたと感じて会社に来なくなるとか。
これはどうしてなのかなぁ。

No title

こういう環境じゃないと適応できない。
相手がこうじゃないと 長期的には自分の不利になることでも感情的にそちらを選択してしまう、という自我状態で社会人になると 前途は大変だろうなと思います。 
でも10年くらい前から こういう新人が増えたという話はよく聞きます。必然的に指導方法は変わってきている職場も多いと思います。

昨今、上から目線を嫌う若者も多いと思いますが、上司と部下という名詞もあるように会社には上下関係はありますし、立場や責任も違います。優れた人格者だけが上司ということはありえませんからそこは少なくとも当面は受け入れるしかありません。
ただ、こういう場合世間はゆとりとか甘えといったワードで若者をディスカウントしがちですが、もともと繊細な性質な人が、無関心だったり、もしくは支配的だったり強迫的なしつけで育ってしまった相性の悪さの帰結かなという気もします。

 

No title

育児と違って、職場は労務管理で実際その方は管理職なのだろうから、管理とか上下で接しても仕方ないし、ある意味は当然なのかなとは思ったりします。
でもだからといって侮辱されるいわれまではないですから、上記の記事の管理職のセリフに侮辱や嘘が含まれてることは確かにそうだなーと記事を読んで思いました。

私もそういうタイプの管理職に(発奮させる意図で)似たような意味合いのことを言われて、非常に傷付いてムカついたことがあります。
その管理職は、教育するときは基本ダメ出し、個人面談室で人格的に徹底的に打ちのめして、それでしおらしくなった姿を見て、自分の指導が効を奏した、指導が理解されたと勘違いするタイプでした。そして人を効果的に打ちのめすのが、非常に上手いのです(笑)。
そして、DV夫のように、人格を徹底的に否定した後で、やたら猫なで声で近づいてきて、ヘドが出ました。

まあ私はだいぶトウが立ってるから、辞めようとか思いもしませんでしたが、その指導法に問題があり、侮辱部分を切り離して指導部分のみを汲み取れるようになるまで、1週間くらい夜は思い出して泣いてました。

当然ながら部内に被害者続出で、被害者のカウンセリングにすごい労を費やしました。
被害者の症状で共通してるのは、自分はこんなに頑張ってたけど、管理職のいうことが出来ないのは、無能なのではないか、もうこの仕事は私には無理なのではないか、どうすればいいのかわからない、辛い、とそういう感じでしたので、管理職のクレームを分析して、管理職のあの台詞は単なる八つ当たりであなたに原因はないから気にしなくていいとか、よく頑張ってくれてるのは周囲もよくわかっているとか、現状を乗り切るにはこういうふうに仕事をすすめたらとか、具体的な指導をしました。
まあ、具体的な指導をするには管理職は仕事の細部まで把握していないし、無理だとは思いますが。
でも侮辱で打ちのめされたのを納得したと勘違いするのはやめてほしいなと思いました。
打ちのめされて自力で立ち上がれる人ばかりではないのに。

でも、それとは別に、適切に諭してもキツめの内容だった場合に来なくなる新人は多くなった気がします。
そしてそういう新人は、職場のせいというよりは、ほんと、指導として普通の事を言っても突然来なくなります…。
まあ、指導の際には言う側も猛烈に腹立ってるだろうから、不適切なことも言ってるかもしれませんが、でも周りで聞いててそんな酷いことを言ってる感じもせず。
普通なら、あいつムカつくー!で終わりくらいのことで来なくなる気がするのです。

それで実際やめちゃうと、職場としては指導者のせいになって、こっちが責められるので、なかなか大変です。
上記の記事の管理職もお前が悪いと言われてさぞかし大変な目に遭っているのかなと、その面では同情します。

とりとめもなくてすいません。

興味深い

最近のモラハラ・支配的な関わりの記事が、今回の話でよく理解できました。
本当に、上辺の対応は同じでも、どのような視点で発せられるか?で受け取られ方が違ってくる。私たちもそうであるように、子供にも分かるということなんですね。
知識や経験に差はあれど、同じ人間である。これを大人である私たちが職場で実践できていないのに、どうして子供に対してできようか、ということでしょうか。
興味深く、考えさせられます。

私の場合ですが、三人姉妹の末っ子で育ち、理不尽な年上には慣れていますが、年下には免疫がありません。農家であったわけでもなく、日々の世話をして成長を待つということが、思考回路になかなか組み込めないのです。
2歳のわが子のぐずぐず・いやいやに耐えられず、疎外を使ってしまう。忍耐力のない、今時の若者です。
シャットダウンしたくなるというか、離れたくなるんですよね。働いていて保育園に預けている私でもそうなのだから、毎日一緒にいたり、お子さんが二人以上いたりなんて、もうそれだけで尊敬します。
嘘は言わないようにしていますが・・・本当に、自分の考えを根本から変えることの難しさを感じています。
でも、行きつ戻りつ、ここでおとーちゃんを始め様々な考え方を拝見しながら、私たちなりの家族の形を模索していけたらいいな。

いつもありがとうございます。今後も楽しみにしています。

まあ

茶番…


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