「やる気がないならやめろ」 vol.2 - 2016.04.27 Wed
少し間があいてしまいましたが、以前の記事の続きです。
僕は、この「やる気がないならやめろ」といった「”否定”を用いた指導」が利用できる人が、ある意味ではうらやましいと思います。
おそらく「それをするのは当然だ」「それでなければ人が伸びない」と考えられる人は、もっとギリギリの状況で人を伸ばさなければならない局面にあったことがないのだろうと感じます。
「否定」を使って指導が成り立つ状況というのは、とても”ぬるい”状況でしかないのです。
否定的な手段を使ってすら、相手がついてきてくれると期待できるのだから楽なものです。
なかなかそういったシーンに実際当たる人は少ないかもしれませんので、考えるために例を挙げてみましょう。
例えば、児童相談所の相談員の立場です。
その人が指導や改善をしなければならない相手というのは、虐待をしている親や家族です。
そういった対象に、否定や威圧的な関わりは軽々しく使うことができません。
多くの場合、それは逆効果にしかならないからです。
単に虐待をしていることを責め改善を求めたところで、「お前のせいで文句を言われた」とより子供が責められる結果となります。また人によっては、その行為を責めたたところで自分が悪いのだと自己否定をするばかりで改善には向かえません。
それがどんなに納得のいかないようなことだとしても、相手の話や立場を汲み取りながら改善に向けての働きかけをしていく必要があるのです。
そこには、自分の感情をぶつけながらの指導などする余地はありません。
「否定」が使えない極限のところで相手を指導しなければならない状況をくぐって来た人にとっては、「やる気がないならやめろ」などというアプローチは「指導」の内に入るようには見えないのです。
それゆえ「やる気がないならやめろ」と、自分の感情を前面に出して相手からついてきてくれることを期待して指導の効果を出そうとするというのは、非常に”ぬるい”シーンでしか使えないことです。
また、それは”博打”でもあります。
それで発奮してついてきてくれる結果となればいいですが、そうでない場合、もうそこで指導は継続できなくなります。
受験勉強や職業上の指導などは、相手に退路がないことを指導者側は認識しているから、そのように自分の感情込みでの高圧的な指導が行えてしまいます。
つまりは、その指導の形は相手の”足下を見て”行っています。だからこそこれは相手を尊重せず、モラハラ的な指導と言えるのです。
「体罰」も、これらと同様「”否定”を用いた指導」ですが、
教育評論家の親野智可等(おやの ちから)さんは、「体罰は甘え」と言っています。
「体罰は甘え」とだけ聴いても、一般の人はその意図するところがつかみにくいかもしれません。
しかし、それは↑で述べているように、本来ならば根気強く努力や試行錯誤をすべき指導側が、対象の「否定」によって指導の効果を上げようとしているからです。本来すべき指導側の努力を放棄し、それを対象に丸投げしているのです。
だからこそ、「体罰は(指導する側の)甘え」でしかないのです。
僕は保育士として、子供たちを保育してきました。
”大人の指示に従うだけの子供”を作り出すのでしたら、「否定」の方向での関わりを積み重ねていくことでもそれは可能です。
例えば、怒ったり、叱ったり、他者と比べてできないことを指摘したり、はたまた「疎外」を使ったり。
それをすることでも、”従う子”や”ルールを守る子”を作り上げられます。
しかし、それはときとして”一過性の姿”にしかなりません。
本当の意味でその子の”成長として獲得させる”ことにならないこともあります。
中にはそれでも十分な育ちを得られてしまう子もおります。
だが、本当に考えなければならないのはそういった”どう関わってもそれなりに育っていける子”ではなく、より適切に関わらなければうまくいかない子のはずです。
そのようなどんな対象にしても適切な指導方法・関わり方であれば、”どう関わってもそれなりに育っていける子”にしたとしてもより効果的だからです。
本当に子供を伸ばそうと思ったら、「否定の積み重ね」は役に立たないのです。
むしろ、マイナスにしかなりません。
「否定」は、「意欲」「信頼」「自信」を損なっていくからです。
「やる気がないならやめろ」的な否定のアプローチは、この「意欲」(もしくは”やらなければならない切羽詰まった状況”といった「モチベーション」)が十分にあるときにだけ使える関わり方です。
子育てにおいて、それはほとんど当てにできないことです。
だから、本当の意味で人を伸ばそうというする指導者が持っている手札には、たくさんの「肯定」と、少しの”現状の否定”といった「部分否定」のカードしかないのです。
僕は、この「やる気がないならやめろ」といった「”否定”を用いた指導」が利用できる人が、ある意味ではうらやましいと思います。
おそらく「それをするのは当然だ」「それでなければ人が伸びない」と考えられる人は、もっとギリギリの状況で人を伸ばさなければならない局面にあったことがないのだろうと感じます。
「否定」を使って指導が成り立つ状況というのは、とても”ぬるい”状況でしかないのです。
否定的な手段を使ってすら、相手がついてきてくれると期待できるのだから楽なものです。
なかなかそういったシーンに実際当たる人は少ないかもしれませんので、考えるために例を挙げてみましょう。
例えば、児童相談所の相談員の立場です。
その人が指導や改善をしなければならない相手というのは、虐待をしている親や家族です。
そういった対象に、否定や威圧的な関わりは軽々しく使うことができません。
多くの場合、それは逆効果にしかならないからです。
単に虐待をしていることを責め改善を求めたところで、「お前のせいで文句を言われた」とより子供が責められる結果となります。また人によっては、その行為を責めたたところで自分が悪いのだと自己否定をするばかりで改善には向かえません。
それがどんなに納得のいかないようなことだとしても、相手の話や立場を汲み取りながら改善に向けての働きかけをしていく必要があるのです。
そこには、自分の感情をぶつけながらの指導などする余地はありません。
「否定」が使えない極限のところで相手を指導しなければならない状況をくぐって来た人にとっては、「やる気がないならやめろ」などというアプローチは「指導」の内に入るようには見えないのです。
それゆえ「やる気がないならやめろ」と、自分の感情を前面に出して相手からついてきてくれることを期待して指導の効果を出そうとするというのは、非常に”ぬるい”シーンでしか使えないことです。
また、それは”博打”でもあります。
それで発奮してついてきてくれる結果となればいいですが、そうでない場合、もうそこで指導は継続できなくなります。
受験勉強や職業上の指導などは、相手に退路がないことを指導者側は認識しているから、そのように自分の感情込みでの高圧的な指導が行えてしまいます。
つまりは、その指導の形は相手の”足下を見て”行っています。だからこそこれは相手を尊重せず、モラハラ的な指導と言えるのです。
「体罰」も、これらと同様「”否定”を用いた指導」ですが、
教育評論家の親野智可等(おやの ちから)さんは、「体罰は甘え」と言っています。
「体罰は甘え」とだけ聴いても、一般の人はその意図するところがつかみにくいかもしれません。
しかし、それは↑で述べているように、本来ならば根気強く努力や試行錯誤をすべき指導側が、対象の「否定」によって指導の効果を上げようとしているからです。本来すべき指導側の努力を放棄し、それを対象に丸投げしているのです。
だからこそ、「体罰は(指導する側の)甘え」でしかないのです。
僕は保育士として、子供たちを保育してきました。
”大人の指示に従うだけの子供”を作り出すのでしたら、「否定」の方向での関わりを積み重ねていくことでもそれは可能です。
例えば、怒ったり、叱ったり、他者と比べてできないことを指摘したり、はたまた「疎外」を使ったり。
それをすることでも、”従う子”や”ルールを守る子”を作り上げられます。
しかし、それはときとして”一過性の姿”にしかなりません。
本当の意味でその子の”成長として獲得させる”ことにならないこともあります。
中にはそれでも十分な育ちを得られてしまう子もおります。
だが、本当に考えなければならないのはそういった”どう関わってもそれなりに育っていける子”ではなく、より適切に関わらなければうまくいかない子のはずです。
そのようなどんな対象にしても適切な指導方法・関わり方であれば、”どう関わってもそれなりに育っていける子”にしたとしてもより効果的だからです。
本当に子供を伸ばそうと思ったら、「否定の積み重ね」は役に立たないのです。
むしろ、マイナスにしかなりません。
「否定」は、「意欲」「信頼」「自信」を損なっていくからです。
「やる気がないならやめろ」的な否定のアプローチは、この「意欲」(もしくは”やらなければならない切羽詰まった状況”といった「モチベーション」)が十分にあるときにだけ使える関わり方です。
子育てにおいて、それはほとんど当てにできないことです。
だから、本当の意味で人を伸ばそうというする指導者が持っている手札には、たくさんの「肯定」と、少しの”現状の否定”といった「部分否定」のカードしかないのです。
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肯定されると、うれしいもんです。
もっと肯定されたいと、思ってしまいます。
否定されると、いやなもんです。
できれば否定されたくないと、思ってしまいます。
これらによって、枠が決められる。
その枠に縛られて、身動きがとれない。
かくれて枠から飛び出ればいいけど…
出れないと、自分を見失ってしまう。