沖縄戦 風化させぬ 大津の94歳男性 今秋、語り部に
- 「生と死の分岐点を何度くぐり抜けたかわからない」と自身の体験を振り返る木本さん(大津市内)=左=と出征前の壮行会で、地域の人たちに送り出される木本さん(お辞儀をする右側の男性)=近江八幡市・小田神社、木本さん提供
15日の終戦記念日が近づき、71年前の沖縄戦を生き延びた木本勇さん(94)=大津市大平2丁目=は「生と死の境目に何度立ったかわからない。戦争を風化させてはいけない」と思いを強めている。壮絶な地上戦が繰り広げられた摩文仁(まぶに)で重傷を負いながら、幸運にも命を取り留めた。犠牲になった人たちの姿は今も脳裏に焼き付いている。今秋、県平和祈念館(東近江市)で初めて体験を語る。
■犠牲者の姿や記憶 今も鮮明なまま
太平洋戦争末期の1944年。滋賀県職員だった木本さんは22歳で2度目の赤紙を受け取った。配属先はその後の沖縄戦で最前線を担うことになる「石部隊」。博多港から朝鮮半島を経由し中国で部隊に合流、同年8月に沖縄へ上陸した。1カ月以上かかった道中は一度も洗濯できず、体中にしらみが湧いたという。
沖縄では道路造りに従事したが、県職員としての経験を買われ、途中から沖縄守備軍(第32軍)の司令部に出向した。各部隊への指示が書かれた書類をガリ版でつくるなど事務作業を担った。
米軍が上陸を開始した45年4月、首里城にあった軍司令部にも空と陸から砲弾の雨が注いだ。食料を壕(ごう)の中へ移そうと、弾幕の中を米袋を担いで死にものぐるいで駆けた記憶もある。上陸地点を守っていた当初の配属部隊は全滅し、「出向していなかったら私も死んでいた」。戦況はさらに悪化し、軍司令部は最南端の摩文仁まで撤退。たどり着いた兵士はガマと呼ばれた岩穴に身をひそめたが、隣の人が誰かも分からない混乱状態だった。
そこでは、わずかな判断が生死を分けたという。米軍は互いの顔を認識できる距離まで接近しており、「暑いから、穴の外へ涼みに出た人は狙い撃ちされた。真水をくめる井戸も近くに一つしか無く、格好の的だった」。20日前後、ほぼ食料なしで耐えたが、状況を悲観して自爆する人も出た。
終戦の知らせが届かず、8月15日以降も岩穴にこもり続けた。投降するよう訴える米軍の呼び掛けも信じられなかった。耐え続けていたが、岩穴付近で爆発した手りゅう弾の破片で、右太ももに骨が見えるほどの重傷を負った。痛みはなく、しびれたような感覚が続く。もちろん薬はない。「いずれ死ぬな」。運を天に任せるような気持ちで呼び掛けに応じた。8月26日だった。
「犠牲者の姿や当時の記憶は、今も鮮明なままです」と木本さんは話す。兵士や住民、白衣の看護師らの遺体は、数え切れないほど目にした。摩文仁へ撤退する道中は、20歳前後の女性住民が「どうせ死ぬからもういい」と、あきらめて自宅から逃げようとしなかった。
「上層部は敗戦すると分かっていたはず。なぜもっと早く戦争を終わらせることができなかったのか」。思いは年々、募っていく。
忘れられない体験から71年。講演を頼まれる機会はあったが、「短い時間では語りきれない」と断ることが多かった。ただ、自身の体験を伝えようと手記を書きとめていたこともあり、県平和祈念館が定期的に催している「戦争体験を聞く会」で語り部を務めることを決めた。11月13日に登壇する予定だ。「戦争を体験した人の多くが亡くなっている。若い世代に戦争のことをもっと知ってほしい」
【 2016年08月13日 22時50分 】