テロが、やまない。

 空港で、大型商業施設で、教会で――。この夏も市民が多く集う生活空間で惨劇が続いた。

 バングラデシュ・ダッカの事件は、テロが日本にも遠い出来事ではないことを印象づけた。

 暴力の拡散をどう阻むか。世界が直面する重い問いである。

 テロにも様々な形がある。

 ダッカやパリの同時テロは、武装集団による組織的犯行だった。一方、花火客に大型トラックが突っ込んだ南仏ニースや、列車内で少年が刃物で乗客を襲ったドイツの事件は、身近な手段を用いた単独実行犯だった。

 浮かび上がるのは、当局の監視や取り締まりによる防止策にも限界があるという現実だ。これまで以上に注目すべきは、テロの動機を生む根源だろう。

 多くの事件に共通するのが、急速に過激化する若者だ。

 家庭内トラブル、希望する仕事に就けない不満、難民申請を却下された不安。孤独と閉塞(へいそく)感を募らせる中で、ネットで過激思想に出会い、染まる。

 異なる宗教、思想信条、性的指向の人に憎悪の矛先を向けるさまは、テロよりも憎悪(ヘイト)犯罪と呼ぶにふさわしい。

 若者の絶望や孤立を防ぐには何が必要か。変化に周囲が気づき、暴走への道から抜け出させるにはどんな仕組みが有効か。簡単ではないが、社会全体で模索を重ねるべき課題だろう。

 にもかかわらず、人々の不安に乗じて「移民や難民を追い出せ」と叫ぶ声が各国で強まっている。決して解決策にならない暴論というしかない。

 再確認すべきは、フランス人の約1割がイスラム教徒で、ドイツは昨年100万人の難民を受け入れたという事実だ。暴力に走るのはイスラム教徒や移民・難民のごく少数にすぎない。

 国境を閉じ、監視の網を張りめぐらすことで一時的な安心感は得られても、国の活力は大きく損なわれよう。

 特定の宗教や集団を対象に取り締まりを強めれば、社会の中で憎悪が強まる。民主主義の理念に逆行するだけではない。一部を孤立させる対応は、かえってテロのリスクを高める。

 むろん、テロ対策は万全を期すべきだ。専門家の養成、外国との情報共有、武器の監視、国民への情報周知などは、日本政府にとっても喫緊の課題だ。

 同時にテロの「芽」を摘む努力も欠かせまい。若者らの孤立を防ぎ、憎悪や偏見に「ノー」と言い、テロに対して「私たちの価値観はゆるがない」との姿勢を発し続けること。問われるのは、市民社会の力である。