広島、長崎の被爆者が日本原水爆被害者団体協議会(被団協)を結成してから、今月10日でちょうど60年たった。

 56年8月の結成宣言は「私たちの経験をとおして人類の危機を救おう」との決意をうたう。国内外で核兵器の非人道性を訴え続け、ヒバクシャは核被害者を指す国際共通語になった。

 だが被爆71年を経ても、被爆者が切望する核兵器廃絶が実現するめどは立たない。老いても歩み続ける被爆者の思いを未来にどうつなぐか。多くの人とともに考えたい。

 運動の主眼は、一貫して被爆者の救済と核兵器廃絶の要求だ。54年のビキニ水爆事件を機に原水爆禁止を求める運動が動き出す。その2年後に被団協ができると、被爆者らは当初から世界を意識し、積極的に海外へ出て行った。

 「ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」

 82年、長崎の故・山口仙二さんが被爆者として初めてニューヨークの国連本部で演説した時の言葉だ。草創期を知る被爆者の多くは世を去ったが、思いは引き継がれている。

 仙台市の木村緋紗子(ひさこ)さん(79)は05年から5年ごとに渡米し、父と祖父ら親族8人を奪われた体験を若者らに伝えてきた。苦しくとも語り続けるのは「生かされた人間として、私のようなつらい思いを誰にもさせたくない」との一心からだ。

 今年5月に広島を訪れたオバマ米大統領も、被爆者の声の重みに言及した。体験に根差した核兵器廃絶の願いを率直な言葉で語るからこそ、国際社会に強く響いているのだろう。

 今年から被団協は、核兵器禁止条約の制定を求める国際署名活動を始めた。多くの団体と連携し、世界で数億人分を集めたいという。

 60年間の道のりには曲折もあった。原水禁運動は60年代、社会主義国の核実験の評価をめぐって共産党系と旧社会党系が対立し、分裂した。そのあおりで、被団協も一時、機能不全に陥った。

 近年は被爆者の高齢化が進み、地方組織の解散が相次ぐ。

 日本政府は戦争を起こした責任を認め、被爆者のみならず、多くの戦争被害者に償うべきだ――。被団協はそう求めてきたが、政府は「戦争被害を国民は等しく受忍すべきだ」という論理をたてに拒んだままだ。

 「核兵器も戦争もない世界を」という被爆者の思いは、人類共通の願いだ。若い世代が一人でも多く被爆者の声を聞き、願いを受け継いでほしい。