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青春奪った原爆二度と…証言集発行60年

原爆犠牲者の弟が眠る墓に手を合わせる佐藤文子さん=長崎市で2016年8月9日午後3時15分、矢頭智剛撮影

 1956年8月、原爆投下から11年がたった長崎で1冊の被爆証言集が発行された。題名は「もういやだ」。若者を中心に37人の被爆者が手記を寄せた。その一人、長崎市の佐藤文子(ふみこ)さん(76)は、原爆によるやけどの痕が残ったつらさをつづった。被爆から71年を迎えた9日、佐藤さんは被爆死した弟らが眠る市内の墓前で手を合わせ願った。「もう二度と、私たちみたいに苦しむ人が出ませんように」と。

     <こんなに何度もいたいめにあうのなら、あの原爆の時死んでいればよかったのにと思ったこともありました>

     佐藤さんは16歳の時、「もういやだ」に書いた。5歳の時、爆心地から約1.4キロの親類宅で被爆した。全身に大やけどを負った。左足は親指以外の4本が反りあがったまま固まり、靴も履けなくなった。

     小学生の時に近所の子供から「がんにゃ(不格好な)足」と笑われ、外出するのが嫌になった。中学生の時、数カ月に及ぶ2回の長期入院で皮膚の切除や移植手術を繰り返し、ようやく靴が履けるようになった。けれど「看護師になりたい」という夢は諦めた。

     3歳だった弟と、家族のように一緒に育った4歳のいとこを原爆で失った。「何で私が死なんやったやろうか」。何度もそう思った。

     高校入学後、近所の編み物の先生から誘われて「長崎原爆乙女の会」(現・長崎原爆青年乙女の会)に加わった。顔に大やけどした人、下半身が不随になった人……。乙女の会は原爆の後遺症に苦しむ女性らが55年に結成し、活動を始めていた。「もういやだ」を発行したのも会の活動の一環だった。

     思い切って手記を書いてから60年。「青春なんてなかった。原爆さえなければ違った生活を送っていたんじゃないかと何度も考えた」と振り返る。それでもこの間、印刷関係の職場で働きながら2人の娘を育てあげた。孫が幼い頃、一緒にお風呂に入った時に、やけどの痕が残る佐藤さんの体を見て「どうしたと」と尋ねてきたことがある。当時は「話しても分からない」と思い、ちゃんと話さなかった。その孫2人も今は大学生と高校生。「もし、もう一度聞かれれば、原爆のことを伝えよう」と決めている。【加藤小夜】

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