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這い寄る恐怖、諜報員達の体験話
ダイジェスト禁止に伴い、本文を削除しています。
ここには外伝を連載しています。
本文はアルファポリスにて、
Re:Monster――怪物転生鬼――
として連載しております。
【とある国の諜報員達が体験したちょっと恐い話/這い寄る粘液からは逃げられない】
[時間軸:???]
太陽がゆっくりと山脈の狭間に沈み始め、もう少しで夜がやって来る逢魔時。
空には飛行型モンスター達が奇声を発しながら飛び交い、獲物を見つければ舞い降りて鋭い爪や毒の嘴を突き立てて肉を抉り、大量の血を地上に降らす。
大地には荒野や森林を駆ける獣型や爬虫類型といったモンスターの咆哮や断末魔が響き、鋭い爪の生えた腕の一振り、あるいは鋭牙を用いた噛みつきなどによって互いの血肉を削っていく。
そうして世界に点々と生じる血と臓物の臭気が立ち昇る場所には、喰う者と喰われる者の姿があった。
強力で凶暴な夜行性のモンスターが本格的に活動し始め、熾烈な生存競争が今日も始まったのだ。
しかしここ――シュテルンベルト王国王都≪オウスヴェル≫はそんな自然に対し、空からの脅威には【魔法】や【魔法薬】などを使って、地上からの脅威には周囲に高く頑丈極まりない城壁を築く事で対抗していた。
そうする事によって夜になれば城壁近くを放浪する事もある外敵も、侵入する事は過去一度もできてはいない。
長い年月をかけて築き上げられた城壁によって、今宵も国民は安全と平和が保障されていた。
そんな王都には【異界の賢者】が考案・開発した魔晶街灯が道路に一定間隔で設置されている。
流石に昼間の様にはいかないが、魔晶街灯の明かりによって周囲の様子は夜目の利かない人間でも見える為、本来ならば就寝するような時間でも人々の営みは続いていた。
とはいえ、魔晶街灯などによる明かりも完全に夜闇を無くせるモノではない。
酒場など夜という時間帯でこそ活気に満ちる場所ならば、店が設置した照明具と魔晶街灯の明かりだけでヒトが昼間より集まるには十分だが、しかしやはり昼間と比べてヒトが居なくなる場所というのは非常に多い。
それは仕方の無い事なのだが、つまり悪事を働きやすい環境が王都の至る所で自然と出来上がっていた。むしろ下手に明るい場所があるだけに、暗い場所はより暗くなっている。
だから夜が近付けば自然と家路につく者は増え、外を出歩くヒトの総数は昼間に比べれば少なくなっている。
そしてヒトが少ない、複雑に入り組んでいるので不慣れな者だとほぼ確実に迷ってしまう薄暗い路地裏を、一人の旅人が歩いていた。
長年の使用によってかやや草臥れているフード付き外套を革鎧の上から着込み、腰には護身用だろう短剣を二本下げ、着替えや携帯食糧、鍋やテントなどの野営道具が詰め込まれた大型の背嚢を軽々と背負う、凡庸な容姿の小柄な中年男性である。
長年の旅で日焼けして色が抜けたのだろう茶髪は頭皮がうっすらと見えてしまう程細く薄く、そよ風に吹かれてなびくと何処か哀愁を誘う。
荒れた肌には長年の苦労を訴えるように無数の傷跡が刻まれ、身体の動きは年齢によるものか億劫そうだ。
やや垂れた薄緑色の瞳の下には、薄らとくまもできている。
「あ~全く、やれやれ。今日の仕事もきつかったぁ、肩が凝る」
一般的な旅人の姿をした中年男性は、暗く狭い道を抜け、角を何回か曲がった後、離れてはいるがやっと見えてきた目的地――宿屋【山羊の拠り所】の看板を見て、ホッと息を吐き出した。
その姿は本当に疲れ果てた様子で、少しでも早く休みたいのだろうと推察できる。
中年男性の目的地である【山羊の拠り所】は、王都では一般的な煉瓦造りの二階建て宿屋だ。
一階の半分は宿の食堂兼酒場になっているのだが、宿屋の立地的に予め知らないと辿り着くのが困難なので新規の客はやや少ない。
しかし元冒険者だったという美人女将によって作られる料理は安い、量が多い、美味しい、の三拍子が揃っている。
しかも女将の子で若く可愛い看板娘の姉妹が居るとあって、数がそれほど多くないとはいえほぼ毎日常連客によって全席埋まる、近所で評判の店だ。
宿の二階には小さいながらもゆったりと寛げる落ち着いた装飾が施された部屋が八部屋ほど用意されている。
ちょっと珍しい事に簡易ながら個別にシャワーが取り付けられているので、旅の疲れが落しやすいと好評だ。
その分平均よりも料金はやや高いのだが、シャワーなどの設備からすれば安い部類となっている。
ちなみに現在、宿に泊まる手続きをするにしては些か遅い時間なのだが、事前に予約しているので中年男性が今日は満室なので泊まれない、なんて事にはならない。
宿につけば女将と看板娘達が笑顔で出迎え、中年男性の泊まる部屋に設置された柔らかいベッドは彼を優しく受け入れるだろう。
だんだんと近づくにつれ宿屋の一階の食堂から中年男性の下まで漂ってくる、様々な料理の美味そうな匂いと酒の香り。
僅かだが聞こえるのは酒で酔った男達の陽気な笑い声と、食器が当たる甲高い音。
それ等に食欲は激しく刺激され、疲れた中年男性の身体が、栄養を寄こせと腹を鳴らして訴え始めた。
(あぁー、宿についたら、まず飯だな、うん。それで、アッツアツの焼き鳥を一気に喰う。口に広がるのは焼けた肉と野菜と塩の味で、そんでちょっと辛い酒……たまんねぇな)
中年男性はもう少しで味わえるだろう酒と料理を想像し、間抜けな笑みを浮かべながら宿屋に向けて歩む速度を速めようとして、しかし立ち止った。
立ち止ったのは中年男性の前に、ヒト一人がようやく通れる程度の路地陰から二人の若者が出てきて進行方向を塞いだからだ。
出てきた二人の衣服は王都で暮らす一般人のそれと大差ないモノだったが、しかし濃い血の臭いが服と肉体に染み込んでいる事から、ただの一般人ではなかった。
多少の血の臭いならば、酔った末の喧嘩などによって付着する事もあるだろう。
現れた若者達はそう何着も衣服を購入できるほど裕福そうには見えず、その汚れ具合から代えは無いか、少ないのだろう。洗濯しつつ、長年着回しているに違いない。
それに怪我をしても治療するにはそれなりの金額が必要になるので、余裕のあるヒトでない限りは多少の怪我なら自然治癒に任せる事が多い。
だから血気盛んな年頃ならば、衣服や肉体に血の臭いが多少しても驚く事ではない。
だが二人が纏う血の臭いは余りに濃すぎた。
喧嘩や事故による怪我によって流した血が染み込んだ、なんて段階は大きく超している。
モンスターを何十体も殺したか、あるいは同じ数のヒトを殺めたか。
そのどちらにせよ、二人が生物の殺し方をよく知っていると言う事は染みついた血の臭いだけでなく、自然と行っている足運びや身体の動かし方、あるいは手に持つ刃渡り二十センチほどのダガーと、小振りだが頑丈な造りの手斧を扱う様子から容易に推察できた。
(多少はやる。けど、足の動きがどちらもぎこちない。冒険者か傭兵をやっていたが、怪我して引退、気性が荒くて職に就けず、犯罪に手を染めた、って感じかねぇ)
中年男性が癖で行っていた二人の考察を終えた時、ダガーを持つ男がニヤニヤと嗤いながら口を開いた。
「はーい、止まれおっさん」
手に持つダガーを素早く左右に振り、威圧をかける。
馬鹿にしたような口調だが、その目は油断なく中年男性の動きを見つめていた。不自然な動きを見せれば、迷わずダガーで刺しにくるだろう。
そしてダガーの男の横に立っているトマホークを肩に担いだ男も、笑いながら口を開いた。
「ちょーっとコッチ来てくんないっすかね? じゃないとちょいと痛い目にあうっすよ?」
「そうそう、ちょっと貧しい俺達に恵んでくれればいいからさ。取りあえず腰の短剣くれないっすかねー?」
「といって、全部貰えるもんは貰うんですけどね」
『ギャハハハハ』
――不愉快極まりない、下卑た笑い声だ。
と中年男性は内心でそう思いながら目の前の二人を冷めた目で見つつ、自分の思いが伝わるように深いため息を吐き出した。
「ハァァァァァァ……」
ありありと、無駄に貴重な時間を消費させられて不快極まりない、と言いたげである。
【追剥】
二人は比較的治安の良い王都では珍しいが、しかし居ない事もない種類の存在だった。
彼等は持つ者から物資を略奪する、犯罪者である。
と言っても、この二人はまだ小物の部類だ。
国の中心である王都だとしても関係ないとばかりにヒトを殺し、財を奪うような極めて厄介で頭のネジを無くしたような輩ではない。
彼等は確かに荷物を奪うのだが、姑息で多少の悪知恵が働き、流石にこのような場所でヒトを殺してしまえばどうなるかを考えられる程度の知性は持っている。
その為に言葉で脅し、状況で脅し、武器で脅し、人数差で脅す。
それで獲物が屈すれば良し、屈しないのなら手足を軽く傷つけて逃走、あるいは殴り倒して物を盗る。
国軍に追われればどうしようもないので、ギリギリで殺しまではしない。
それが彼等のやり方だ。
今は落ちぶれてしまっているが、中年男性の読み通り、かつては彼等も冒険者として夢見ながら旅していた。だが仕事中に大怪我を負い、引退してからはこうして日々の生計を立てている。
引退しても挫けず真面目に働いていればもっと違う未来があったのかもしれないが、彼等はそれをしなかった。
そこそこの才能があり、悪運があり、高くはないが低くもない、というレベルの戦闘系【職業】を有していたからだ。
怪我で本領は発揮できないとはいえ、それでも一般市民相手ならば有用だった。
そして犯罪に手を染めれば、普通に働くよりかは確かに楽に金を稼げてしまい、彼等はそれで味を占めた。
そしてそれが故に、ある日彼等の死神に遭遇してしまうという結果に導いたのだから皮肉な事だろう。
「最近の若いもんときたら、まだ健康な肉体を持つというのに、こんな下らない事をするとは情けない。全く、情けない」
中年男性の前に居る二人からすれば、この行動はただの小遣い稼ぎ程度にしか思っていない。今まで何度も繰り返してきた手順であり、ある程度慣れてしまっていたからだ。
例え武装していようとも、自分達なら中年男性程度は一捻りできる、と思っている。
だから、中年男性の態度に怒りを覚えた。獲物に舐められて逆上しないほど彼等の気は長くなく、それは相手も同じであった。
「あぁ? 何言っ――ゲピュオ」
ダガーを持つ男が、突然奇妙な声を上げ、前のめりに倒れた。
まるで支えを失って崩れ落ちた建造物のような有様だったので、石か何かでぶつけたのだろう、ダガーの男の頭からは血が流れ出す。
口からは吐瀉物を勢いよく地面に撒き散らし、痛みを和らげようと本能から両腕を腹部に巻きつけ、震えながら悶絶している。
顔や服が吐瀉物で汚れていくが、そんな事を気にする事すらできていない。
「だから、実験体には丁度いい」
少々特異な戦技によって赤い燐光を宿した中年男性の拳はダガーの男の腹部に炸裂し、ただの一撃でダガーの男を無力化した。
――戦技【毒侵拳】
そもそものステータス差やレベル差などによって通ったダメージ量は甚大であり、それだけで行動不能となるのは十分だっただろう。だが攻撃対象に状態異常【毒】を付与する【毒侵拳】は、一際強く体内からダガーの男を苦しめる。
許容値を大幅に超えた激痛によって地に倒れたダガーの男は身体全体から脂汗を流し、空気を求めるようにパクパクと喘ぐ。顔からは血の気が引いて真っ青になり、虚ろな目は忙しなく動き、声無き悲鳴を上げ、悶絶しながらも意識はギリギリのところで保たれていた。
それは怪我をして万全でないとはいえ、鍛えられた彼自身の肉体強度が関係していたのだが、この場合は気を失っていた方が幸運だったに違いない。
失神しそうなほどの激痛を感じながら少なくない時間を過ごし、トドメとしてボールを全力で蹴るような攻撃を頭部に受けて完全に意識が消し飛ぶまで、彼の意識は確かにあったのだから。
せめて一撃で沈んでいれば、その後の激痛を感じる事もなかっただろうに。
ダガーの男はまだ死んではいないが、ビクンビクンと痙攣する様は直ぐには動けそうになかった。
「……へ? ――アガピョ」
相棒に何が起きたのか理解できなかったトマホークの男は、一瞬間抜け面を晒した後、ダガーの男と同じく攻撃を受けた。
中年男性が両手首につけているバングルに仕込んでいた暗器の一つ――掌に収まる長さの鉄針が、戦技によって高速で投擲されたのだ。
赤い燐光を宿した鉄針が命中した下顎骨は砕け、尖端から分泌される紫色の毒液がトマホークの男の身体を内部から侵す。
急速に回る毒素によって今度は意識が消えた事も自覚しないまま、グニャリと全身の骨が無くなったかのような動きで地面に倒れた。
小物だったとはいえ一瞬で武装した敵を無力化した中年男性は、意識を失った二人を路地裏の片隅にまで運び、その懐を物色する。
目当ての財布を取り出したが、財布には大した額は入っていない。銅貨銅板が殆どで、銀貨はたったの一枚だけだ。
しけている。
それに多少の苛立ちを覚えつつ、中年男性は最初の目的である宿屋に歩みを進めた。
さほど歩く事もなく宿に到着し、簡単な手続きを済ませ、食堂の空いていた椅子に座って荷物を足元に下ろし、さっそく晩飯を注文した。
注文を取りに来たのは二人いる看板娘の片割れである、妹のクルルだった。歳は十四と若く、天真爛漫な笑顔が可愛らしい。ちょこちょこと歩く様は小動物を彷彿とさせ、大人びた魅力を持つ姉のミラールとの対比がより引き立っていた。
「こんばんは、イースさん。ご注文は?」
「とりあえず、焼き鳥の塩二人前、生ジョッキ大、あとは本日のオススメと、シーザーサラダ」
「はーい、他には?」
素早く注文を注文書に書き、小首を傾げながら他に無いか訊くクルルに、中年男性――イースは微笑を浮かべ、しかし目は笑わずにクルルに言った。
「そうだな、じゃあ、今外で寝ちまってる連れが二人いるんだけど、そいつ等の分は部屋に運んでくれないか? もちろん料理は、肉を野菜で包んだロールキャベツを頼むよ」
「……はーい、分かりました。それじゃ、ちょっと待っててくださいね。キチンと調理しますから」
「ああ、任せるよ」
可愛らしく笑うクルルを見てイースは今度こそ本当に微笑み、少しでも早く料理が来ないかと思いながら待ち続けた。
~p(= 3 =)p~
飯を満足するまで食べた後、イースは自分が泊る部屋に鍵を使って入る。
中央に設置されているのは白いシーツがかけられたシングルベッド、その脇には物を入れる為の鍵付き収納箱があり、出窓には花瓶に活けられた色鮮やかな花、天井から吊り下げられたカンテラ型マジックアイテム、その他細々とした家具や装飾品のある部屋だ。
入口のすぐ横にはシャワールームが設置されていたが、イースはそれを過ぎてベッドの傍に背中の荷物を下ろし、そして壁に掛けられた小さな絵画の前に立った。
絵画は青い小川と佇む白ワンピースの少女が描かれたモノで、確かによく描けてはいるのだが、高価な品ではない。
これは貧乏な【画家】が小遣い稼ぎの為に製作したものであり、あくまでも部屋の雰囲気を演出するだけの小道具だ。
しかしこの絵画の裏には、とある秘密が隠されている。
「えーっと、番号は……」
絵画の裏にある壁には、目立たないように細工されている小さい金属板が埋め込まれていた。0~9までの数字が刻まれた金属板は、イースによって決められた数字が押されていく。
十桁の番号が全て押されると、部屋に変化が起きた。
金属板のすぐ横の壁の一部が左右にスライドし、下に降りる秘密の螺旋階段がその姿を露わしたのだ。
部屋は二階にあるのだから一階に続く階段かと思えば、明らかに一階よりも下、地下に続いていくほど深い階段である。
壁には光源としてカンテラが幾つか吊り下げられているので、視界はそれほど悪くない。
「さーてと、今回の報告は気が進まないなぁ……」
その螺旋階段を、イースは下りていく。
踏み抜き防止用の鉄板が仕込まれたブーツが木製の階段を踏みしめる。
そこで普通ならば木が軋み、足音が鳴るだろう。
だが、イースは無音で階段を居り続けた。呼吸音すら耳を澄ましても聞こえてくる事はない。
それはイースが特殊な訓練を受けた人間である事の証明であり、実際にイースは他国から王国に潜入している諜報員の一人である。
そういった事情から今回イースがここに来たのも、秘密の拠点であるここに居る自分の上司に定期報告をしに来たからだった。
そして階段の終点に至り、すぐ目の前にある扉。
この先にはイースが所属する組織が王国内での本部としている、王都の地下に張り巡らされた下水道などの一部を独自に改良・改造して造られた防音性の極めて高い地下室が広がっている。
これはもちろん違法だが、そもそも他国の諜報員がそんな事を気にする筈もない。
そしてその存在が発覚すると裁判無しの問答無用で投獄か、あるいは処刑されてしまうので、この部屋に入るには壁を壊すなどの力技を除き、先程イースが下りてきた螺旋階段を使うか、地下道の一画に隠された脱出路からしか入れないようになっていた。
「失礼します、隊長」
三回のノックの後、返事を待たずにドアノブを回して中に入ると、そこは整理されてはいるが整頓されていないというやや矛盾している部屋が広がっていた。
中央には会議用の巨大なテーブルが置かれ、その上には様々な秘密書類が置かれている。書類は丸められている物もあれば、無造作に広げたままの物もあった。
部屋の右側の壁には捕虜を入れておく為の牢屋が設置され、現在も実際に二人ほど入れられていた。
入れられているのは先程イース達に絡んできた若者だ。彼等が牢屋にいるのは食事の時に、クルルとのやり取りで二人を地下の牢屋に入れるように頼んでいたからに他ならない。
こうして捕虜となった彼等は、これからイース達が調合する新しい毒が生物にどう作用するか、解毒する薬の適量は一体どの程度なのか、などを調べる為の実験体として使い潰される予定である。
牢屋には鉄柵の代わりに、魔法によって強化された特殊ガラスが嵌め込まれている。
ガラスにはコチラからはアチラが見えるが、アチラからはコチラは見えないようにする為のマジックミラー加工が施されていた。
なので簡単な治療を施され、やっと動けるようになってきている二人が現在の状況を全く分からず、慌てふためいている様がイースからもよく分かった。
左の壁には個人用のテーブルとイスが幾つか並べられ、仮眠室に通じる扉が設置されている。
普段なら何人かそこで寝ているのだが、今日はどうやら全員出払っていて居ないらしい。
部屋に居るのは、イース含めたったの二人だけだった。
最後に、扉の真正面であり部屋の最奥である場所にはここを取り仕切る隊長用の机と椅子があり、既に本人が座っていた。
椅子に座るのはイースの上司であり、心底尊敬している狐虎人族の偉丈夫。その名はファルグ・フォルク・タイード。
遥か昔に東方からやって来た四尾の狐人と、それを打倒し嫁に迎えた虎人の血を受け継ぐ家門の末席に名を連ね、生来の異能と高い身体能力を混ぜ合わせた独特の戦闘能力を誇る古強者であった。
イースよりも僅かに年上ながら、その見た目は若々しいモノである。
「遅かったな、連絡を聞こうか」
「ハッ」
黄色の体毛と狐の耳、細く鋭いがどこか優しさのある双眸、精悍な虎の容姿、筋骨隆々の巨躯を包むのはピシッと引き締まった黄色と白色を基調とした軍服。
何処の国の所属かは分からないよう独自に改造された軍服はファルグにとても似合っており、すぐ脇に置かれた分厚いサーベルがより一層その魅力を引き立てる。
イース程度ならば瞬き一つの間に首を斬り落とせる彼は、その報告を受けて苦渋の面を見せた。
「やはり黒い使徒鬼……か」
「はい、彼奴が来てから、消えた裏の人間は数知れず。犯人を断定する証拠という証拠もありませんが、ほぼ間違いないかと」
「そう、だな……」
現在イース達諜報員を悩ませるタネは、ごく最近やってきて、王都の話題を独り占めしているとある鬼人の事だった。
圧倒的な武力を闘技場で見せつけ、王女に雇われて護衛しながら城下町を放浪している姿は何度も目撃されている。
ただ、これだけならば特に問題はない。
イース達からすれば収集すべき情報が増えただけで、直接的な害はないのだから。
だが、鬼人が現れてからしばらくして、イース達のような王国に潜り込んでいる諜報員が、他国の者も含め、次々と謎の失踪を繰り返していた。
状況などは色々と異なるが、共通していつの間にか居なくなっている。イース達の組織にも、行方不明者が出ているほどだ。
もしかしたら、ここに来ていない者の中には既に居なくなっている者も居るかもしれない。
そしてその原因は探れば探る程、その影をちらつかせるのが件の鬼人だった。
今回イースが行っていた仕事も、全てそれ関係の情報を収集する為だった。
ちなみに情報収集は仕事柄し慣れているのだが、もしかしたら自分も、と思えば思うほどイースは精神的にも肉体的にも累積されていく疲労が普段以上のモノとなっていた。
「一旦、本国まで撤退した方がいいのかもしれないな。だが、そうなるとまずは……」
眉間に皺を寄せるほど悩んだ末、ファルグが今後の方針を口に出した。
正体がハッキリとしない敵に狙われ、危険度が増したので本国に帰る。
それだけを聞けば臆病風に吹かれたと思われるかもしれないが、王国での仕事の実に九割を消化しているファルグ達からすれば、そろそろ報告にかこつけて本国に帰ってもいい頃合だった。
しかしそうなると、色々とやらなければならない事は多い。
「そうですね、流石にこんなのと戦いたくは……ん?」
上司であるファルグの意見に同意するイースだが、小さいながら奇妙な音を聞いた気がした。
……ズルリ、ズルリ。まるで粘液が這うような音である。
「ん? どうした、イース」
イースの行動に不審を覚え、思案を一時止めて顔を上げたファルグは訝しむ。
頭の狐耳が、疑問でピコピコと動く。優しく訪いかける虎の顔は、まるでヌイグルミのようだった。
「いえ、何か変な音がしませんでしたか?」
「そうか? 別に私は……いや、ちょっと待て」
一時は否定しかけたファルグにも、その音は届いた。
……ズルリ、ズルリ。粘液が這うような音である。
何処となく不快感を抱かせる音に、ファルグの眉間には皺が寄り、警戒心からか鋭い牙がチラホラと見え始めた。
現在、この部屋にはイースとファルグの二人だけしかいない。
一応隣の牢屋には実験体を放り込んでいるが、防音材によって互いの音や振動は吸収されているので、何か聞こえるはずも無い。
だというのに、部屋で聞こえた奇妙な音。
明らかな異変である。
それを理解すると同時に、部屋の温度が一気に下がったような重苦しい空気に満ちた。常日頃から公表できないような暗い場所で戦いを繰り広げてきた二人の警戒心は、一瞬で最大値にまで跳ね上がる。
……ズルリ、ズルリ。粘液が這う音がする。
「なにか、いるな」
ファルグが椅子から立ち上がり、愛用のサーベルを鞘から抜いた。
黄色い剣身は部屋を照らす光を反射し、キラリと輝く。持ち主と共に歴戦を乗り越えた業物のサーベルは、獲物を求めるかのように鳴動を始める。
「蟲、でしょうか。どこかしらから入り込んだとか……」
「いや、それはない。魔法薬で蟲の類は入れないようにしているし、魔蟲の類も殆ど入る事はできないはずだ。……それならまだよかったのだがな、これは、もっと性質が悪いぞ」
懐から毒濡れの短剣と毒を注入する鉄針を取り出し、周囲を警戒するイースの意見をファルグは却下した。
獣人として高い索敵能力と戦いで培った経験から、正体はハッキリとしないながらもファルグは既に蟲の類ではなく、もっと厄介な存在だと看破していたのだ。
僅かな油断もなく身構える二人の視線は何かが隠れられそうな物陰に自然と向かい、僅かな物音も逃すまいと耳を澄ませ、鼻をひくつかせて臭いを嗅ぐ。
鋭い獣人の感覚器官を使って正体不明の気配を探るが、しかし結局何も分からない。
ただ二人に走る悪寒だけは変わらず、警戒心がより一層強くなる。
ズルリ、ズルリ。粘液が這い寄るような音が聞こえる。
「これは、何だ。一体、何だ?」
ファルグのうなじが粟立つ。
近づいてくる危険な何かを感じ取って、身体が自然と反応を示すのだ。狐耳は正体不明の何かに震え、虎の顔は牙を剥き出しにしてグルルと唸り声を上げた。
――ズルリ、ズルリ。また粘液が這い寄る音が、ハッキリと聞こえる。
今までよりも、ずっと近くで。
そして部屋を照らす照明が、急に点滅し始めた。それに驚いて慌てて周囲を見回す二人は、明暗が激しく切り換わる部屋でそれを見た。
「……隊長、あれ」
そこに至って、ようやくイースがその異変を発見した。
目に見える異変が起きていたのは、二人が居る部屋からではなかった。
震える指先が、異変の原因に向けられる。
「見つけ……あれはゾンビスネイル、ではない? 似ているが、違うようだな」
ファルグは周囲の警戒を怠る事なく、イースが指差す方向を見た。
実験体として拉致した若人二人が入れられ、現状を全く理解できずに暴れまわり、声は聞こえないが確かに何かを叫んでいた、牢屋。
そこで、異変が静かに始まっていた。
『パラ・ベ・ラム・パラ・ベ・ラム』
牢屋からの音は本来なら聞こえないはずだった。
だがしかし二人は確かに奇妙で奇怪な音を聞き、それの赤い眼球が二人を捉える。
声音と視線だけで、二人の精神が汚染されるような悪寒が走った。
この世界には“腐肉蝸牛”というモンスターが存在する。
密林地帯から砂漠地帯、果ては高原地帯と生息域は幅広く、生活環境や種類によって大きく異なるが基本的に青銅以上の硬度を誇る殻を背負った【陸貝】系の中でも、とりわけ凶悪で特殊な部類のモンスターだ。
ゾンビスネイルは自前の殻を成長に合わせて生成していくのではなく、やがて腐る動物の死体に巣食いそれを殻とする、という特徴を持っている。
その為ゾンビやスケルトンなどが発生しやすい墓地や戦場跡などでよく目撃され、殻とする死体の腐食具合によっては悪質な病原菌を撒き散らす事も多い。
過去には町一つがゾンビスネイルの撒き散らす流行り病によって滅んでしまった事もあるくらいだ。
なので駆除依頼は非常に不人気なのだが、急を要する強制任務として扱われ、即座に討伐されている。
不人気なのは命知らずの冒険者や傭兵達も、治療法が見つかっていないか、見つからないかもしれない病気になるのは御免と言う訳だ。
しかもその性質上、強制的に討伐に赴かねばならない可能性もあるので毛嫌いされている。
そんな依頼が張り出されれば、頭の回る者は一時姿を眩ませる事もある、と言えば多少は脅威を理解しやすいかもしれない。
そして何より、病気を撒き散らすという特性だけでも厄介なのだが、殻にする死体が亜竜種や巨人種など巨躯を誇る存在になれば、ゾンビスネイルの本体である軟体部も巨大化する。
しかも殻が生前有していた特性の一部――人外の怪力や、亜竜のブレスなど――を極低確率ながら引き継ぐ事もあり、厄介さは個体個体で大幅に異なるが、最大で【災害指定個体】とされる事も過去にはあった。
牢屋に入っていたのは、その亜種か上位種とでもいうような何かだった。
まるで絞った雑巾のようになった実験体二名の死体を殻にしているのは、普通のゾンビスネイルと変わりない。
だがつい先ほどまで生きていた人間を殻とするのは、少々疑問が残る。
ゾンビスネイルは、死体という殻を得た時からゾンビスネイルという存在になる。
殻を得るまでの間は、“蛞蝓”形態で様々な場所を徘徊するものだ。
ならばこの異音はゾンビスネイルの本体が這っていた音であり、死体を得てゾンビスネイルとなった。そう考えられない事もないが、まずそれはあり得ない。
部屋の場所が場所だけに、特にスライムなど小さな隙間から這いずってくる類のモンスターに対しての対策は万全だ。
複数仕掛けられたそれ等は、殻を得る前のゾンビスネイルに突破される程温くない。
だから、外から這入って来た、と言う可能性はほぼ皆無と言っていいだろう。
「もしや、最初から寄生、していたのか?」
外からゾンビスネイルの本体が来たのでないとするならば、内側――既に二人が本体に寄生されていた、と言う事になってくる。
そうだと考えれば亜種か上位種だという可能性が高くなり、生理的嫌悪を引き出す現在の姿形も頷ける。
「――なんと、気色の悪い」
イースはあまりの不快感で顔を歪めた。
捻じれながらも天を向いている頭部の、本来ならば眼球があるはずの場所から飛び出し、うねうねと蠢く無数の黒い触手。目がイソギンチャクの様になっている、とイメージすれば分かりやすいだろうか。
それだけで十分気持ち悪いのだが、顎関節が外れるほど開かれた口からは大量の粘液が流れ出し、溢れ出ている粘液の先端には拳くらいの大きさの赤い眼球が形成される。
出来上がったばかりの眼球がギョロギョロと周囲を見回す様には怖気が走り、イース達は気持ち悪さで微かに震えた。
それに気を取れられていると、肉殻の胴体中央が内部から弾ける。まるで小さな爆発が起きたかのようで、周囲に飛び散るのは赤い肉片。
ガラスの一部が赤に染まる。
血の噴水が噴き出す孔からは、新しく黒く太い触手が一本飛び出した。恐らくは胸が弾ける原因になったのだろう触手の先端には、もう一つの眼球が新しく形成されていく。
忙しなく周囲を探る二つの眼球が、マジックミラー加工が施されたガラス越しだと言うのに、しかりと二人を見つめていた。少なくとも、イースはそう感じた。
そして軟体部にできた大小無数の口が、空気を振動させる。
『パラ・ベ・ラム・パラ・ベ・ラム』
そうしてゾンビスネイルのような何かが奇妙な音を発し、ガラスに張り付いた。
張り付くとゾンビスネイルの軟体部の底面が見えるようになったのだが、そこには縦に割れた巨大な口があり、その縁には小さく鋭利な牙が無数に生え揃い、鑢のようにザラザラとした長い舌がある。
今まで体験した事の無い視覚的衝撃に動く事が出来ていなかった二人だが、ピシリ、と音を立てて亀裂が走るガラスを見て我に返った。
正体不明の何かと同じ部屋に居るなど、流石に暗い世界を住処とする二人と言えど、許容できる物ではない。
「逃げるぞッ!! イースは【錬金油】を撒いて火を付けろッ、私は重要物品と脱出経路を確保する!!」
「りょ、了解!!」
二人が居る部屋には、組織が集めた情報の多くが保管されている。
王国の情報を持ち帰る事を第一の任務としている為これを奪われる事は避けたいが、非常事態にはほぼ全て燃やして灰にする事は事前に決まっていた。
半分以上は既にコピーされ、別の場所に保管されているのでここにある書類が全て燃えたとしても損害は軽微だ、という事も躊躇わない理由の一つになっている。
命令されるまま、イースはファルグよりも自分の近くにある瓶に入れられた【錬金油】を躊躇なく周囲に振り撒き、指先に火を灯したが、その動きを止める事となる。
いや、正確に言えば、強制的に止められた。
「か……身体、が」
指先に火を灯した状態で、イースは石像のように固まった。
動けていないが、必死に動こうとしているのだと僅かに歪む顔を見れば理解できる。
『パラ・ベ・ラム・パラ・ベ・ラム』
それは対象の動きを強制的に停止させる【硬直】と呼ばれ、【石化】の劣化版とも言える状態異常が発生したからだった。
【硬直】状態のイースは内心で抵抗すらできなかった事に悔しさを覚えつつ、ガラスが砕かれるまでただ見ている事しかできなかった。
「逃げ、てください。構わず、燃やしてください!」
近づいてくるゾンビスネイルのような何かはもう目の前だ。
首を動かす事すら遅々として進まない状態では、とてもではないが逃げられそうにない。
ならばせめて、炎によって失態を清算しなければならない。とでも言いたげなイースであるが、そんな彼の後方に立つファルグは、イースよりも悲惨な事になっていた。
「――ッ。――――ッ!!」
「早く、早くッ。逃げて下さい!」
拠点に侵入してきた粘液は、二人が発見したゾンビスネイルのような何かだけではなかった。
イースよりも鋭敏な感覚を持つファルグですらすぐ傍に潜んでいたそれに気がつく事ができず、死角から襲いかかられて呆気なく拘束されていた。
ファルグの虎口に、大量の粘液が侵入していく。
無数の眼球と無数の口を持つ粘液を吐き出そうと、当然ファルグも反撃を試みた。
だが粘液によって四肢はきつく拘束され、異常な程の弾力と耐久力によって牙を全く受け付けないそれに対し、満足な抵抗すらできていないのが現状だ。
限界にまで見開かれた目からは涙が溢れ、その瞳には恐怖と憎悪の念がせめぎ合いながら燃えている。
だがゾンビスネイルのような何かの軟体部である粘液は、それを嘲笑うかのようにどんどんその内部に侵入していった。
呼吸すらままならなくなったファルグが白眼となって失神するのに、さほど時間は必要なかった。
「隊……長?」
背後から僅かに聞こえていた音が完全に止み、一時の静寂が訪れる。
だがイースの目の前に達してしまったそれが、奇声を発しながらイースの身体を取り込み始めた。
『パラ・ベ・ラム・パラ・ベ・ラム』
「嫌だ、嫌だぁぁぁぁぁぁぁ」
既に【硬直】は解けていた。
さほど持続するタイプの状態異常ではないからだが、今のイースには最早関係無い。
ファルグ同様、その身体は軟体部となっている粘液によって包まれていく。
何とか抜け出そうと悪足掻きで暴れた際、無数にある口の一つに生えた牙に腕を引っ掛けて血が流れるが、そんな事は気にする暇もなかった。
「誰か、誰かたすげグボゴォォォォォォ……」
イースの身体が完全に取り込まれるまで、僅か十秒。
標的の居なくなった部屋で、それは声を上げた。
『パラ・ベ・ラム・パラ・ベ・ラム』
もしかしたら、後ろ暗い事をした者の背後にそれは、這い寄ってくるのかもしれない。
■ З ■
「――ハッ!!」
悪夢の中で惨たらしく死に、イースはベッドから飛び起きた。
周囲を見回せば、【山羊の拠り所】の一室である。
それを理解するのに数秒を要し、溢れ出た冷や汗と寝汗が全身をグチャグチャに濡らしていた。
「ハッハッハッハッハ……ふぅーはぁー。……夢、か」
小刻みな呼吸と、破裂しそうになる程拍動する心臓を諌めるように胸に手を当て、息を大きく吐き出す。
そうして落ち着いた後、汗でべたつく服の不快感を取り除くため、シャワーを浴びようとベッドから降りたイースはふと小首を傾げた。
「ん? こんな傷、あったか?」
まるで何かで引っ掻かれたような三本傷が、右腕にあった。
既に治りかけで、特に痛みもないが、赤くなっているそれはいつどこで負ったのか、イースの記憶にはなかった。
それを不思議に思いながら服を脱ぎ、狭い浴室に入ってシャワーを浴びていると、それもすぐに忘れてしまう。
「あー、温水は癒されるなぁ……」
不快感はシャワーから流れる温水によって流れ落ち、心地よさがイースを包む。
頭から温水を被り、途切れなく続く水音だけを聞いていると、不意に、変な音が混じった気がした。
何かを言っているような、そうでないような。
本当に一瞬の事だったので、どうせ空耳だからどうでもいいかと、イースは傷と同じくすぐにその事を忘れてしまう。
『パラ・ベ・ラム』
イースの耳からニョロリと黒い何かが出て、直ぐに中へと引っ込んだ。
それに気がつくはずもなく、イースの入浴は続く。
這い寄る粘液の恐怖は、まだ終わらない。

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