ちゃずけのきろく

2016/08/12 (金) ネット雑記。

今年没後100年になる英国作家「サキ」従軍時、仕官昇進を拒否して末端兵士であり続けた逸話を持つ。

逸話とは常に信憑性に欠けるものだが、私が「階層」云々で思い出だすのは、

この逸話のように「能力」があってもあえて上に行こうと思わない人たちで、彼らはいったいどこに属するのか。

おそらくどこの階層にも属さない、精神的に非常に「自由」な人間なんだろう。

上に行くばかりが幸せではない、と感じる人間一定存在する現実ネット階層を語りたがる人には見えない。

昨日は「努力しない底辺」の言葉を見かけて驚かされたが、相変わらずその言葉肯定的人間はてなに多いようで、

リベラル」と「科学」は必ずしも一致しない現実を見せ付けられた気がした。

書き手が元々底辺にいたわけではないが見えない。はてなの人々は相変わらず人がいいというか、なんと言うか。

はてなで人気者になりたければ、子供時代いじめレイプ経験、毒親育ち、宗教介護、を語ればいい、の見本だと

彼女を見かけるたび、しみじみ思う。ネット広告界に「ジャロ」が導入される日は来るかしら。

私は自分地元底辺の座を譲ったことのない公立校で育ち、自分の子供たちも育て、

また、転勤族時代の知り合いから様々な地区公立校の話は聞いたが、どこの公立でも彼女が語るほど「人間の屑しかいない」わけではない。

彼女公立校への差別言説を問題視しないはてな人間に、君たちは育ちはいいのかもしれないが、頭は悪いぞ、といいたくなる。

彼らは現実公立校を知らない。子供時代小学校だけを公立校で過ごしたとしても、その記憶あいまいしかない。

その上でわかったように語られるのでは、公立校で育ったことに実はひそかにプライドを持つ人間からはたまったものではない。

たぶん、私が「自分の子供にはよい学校を!」にあまりこだわらなかったのは、

どこで育てられたとしても、あほ人間あほ人間で集まるし、もの考える人間はそういう人間同士で集まるのを知っているからだろう。

公立育ちでよかった、と年をとった今でもしみじみ思うなあ。

「上昇志向絶対正義か」と、よく考える。

私は自分能力があるとは思わないし、努力もさほど足りているほうではないと感じているが、

能力もあり、努力もする人間が、「もっと上へ!」を必ずしも信条として持ち合わせない感覚が少しだけ理解できる気がする。

「ここで自分の「仕事」を着実に仕上げる」のひそやかなプライドがたぶん、社会を大きく支えている。

階層を上がった俺、私!」を語りたがる人にそのプライドが見えるかどうか、

階層を上がった私は正しい!」のシンプル人生信条を持つことは幸せなことだ。特に批判をするつもりはない。

ただ、その不可思議意識が万能であるかどうか、

階層意識問題なのは、「私は上階層人間から、その下にいる人間には何を言っても正しい!」と信じてしまう人がいることだな。

ネットの、はてなの行く末に思うところがあるので、これ以上はまとめられないが、お金が絡むがために劣化する言説があるものだなあ、

とあきれている。ここ数年でずいぶんと変わってきたものだ。今は迷走中なネット状況か。

それでも、だからこそ、時間があるときは書くようにしよう。はてな底辺としてプライドを持っておくかな。